餓鬼&貧乏神
怒りで顔が引きつったまま三木が鴉の部屋を出た。部屋の中まで怒号が聞こえるのは外で待機してた子分に八つ当たりをしているからだ。小鬼達が台所の窓から廊下をのぞいて、子分を小突きながら去って行く三木の様子を眺めている。
部屋の中では怪異達がこそこそと抜け出て、賑やかにしゃべり出した。三木のうろたえぶりを笑い話にしているのは貧乏神だった。
その時、長い間ストを決行していた青女房がすっと鴉の肌から離れた。
そのまま何も言わずにすうっと消えようとする。
(あおばあさん! どこへ!)
鬼子母神が思わず手をさしのべたが、青女房は黙って消えてしまった。
(うわぁ、あにさんの許しもえんと……離れたで……ばあさん……消滅する気ぃや)
(ちょっと、ちょっと、あにさんの機嫌が悪うなるやん……残ったもんがええ迷惑や)
(あおばあさん……もしかして浅田のとこに行ったんやろうかねえ)
と鬼子母神がつぶやいた。
(あさだ、あさだ)
(浅田を助けに行ったんですかね……これは……困った事です)
怪異達の声は鴉に届いているはずだが、鴉は何も言わなかった。
勝手に抜け出た青女房を叱咤するでもない。
(あにさん……ええんですか)
鬼子母神の問いに鴉は、
「ほっとけ」
とにべもない。
「そんな事より、須藤」
とずっと部屋の隅に固まったまま立っていた須藤を見た。
「は、はい」
「お前、これなんや」
引き出しから封書を取りだして、ばさっと須藤に投げつける。差出人を見て、須藤の顔色が変わる。あたふたとその封書を拾い上げた。
「ええ根性してるな、俺の名前で借金しくさったんかい」
「す、すんません、あの……ど、どうしても、自分では……借りられなくて……」
「当たり前やろ。誰がお前みたいな満足に仕事できん奴に金貸すねん」
ぎろっと鴉が須藤を睨んだ。
それだけでもう須藤は何も言えない。ただうつむいた。
「しょうもない! 能なしのくせに俺のはんこや通帳を持ち出す知恵だけはあるんやのぉ」
「か、返します。働いて……絶対に……」
「働いてぇ? へえ、二百万もの金、お前に返せんのか!」
憐れな須藤はただただ鴉の罵倒に耐えるしかなかった。それだけの事はした。鴉に殺されるのを覚悟でした借金だ。早急に娘の為に金が必要だった。
こんな世界に身を落とさなければ、余裕で娘に最高の治療を受けさせてやれた。悔やんでも遅い。今は悔やむよりも金を作る事が先だった。
「最近の金融屋は質が悪いな。文書偽造と知ってて金貸すんやからな。憑き殺したろか。貧乏神! お前行ってこい。ここの金融屋、地獄へ落としたれや!」
(えええ~)
指名された貧乏神からは不服そうな声がした。
「なんや。お前も仕事したぁないんやったら、いつでも消えてくれてええんやで」
(そ、そんなあにさん……殺生な……)
「どいつもこいつも勝手なことばっかりしくさって!」
「す、すみません」
須藤が床に手をついて頭を下げて、
「こ、子供にどうしても、か、金がいるんです……び、病気なんです……」
とすすり泣きながら謝った。
「お前が殺した薬中のガキか。どうせガキも殺るつもりやったんちゃうんかい」
「や、やっぱり自分のこ、子供と……思うてます……」
須藤は亀のように体を縮こませ、額を床にこすりつけたまま泣いている。
「ほんま、中途半端な人間やの。今更、親の真似事してどうなんねん!」
怒りにまかせて鴉は手近にあったゴミ箱を蹴り飛ばした。
ごんっと音がしてゴミ箱は宙に蹴り上げられ、壁に当たって須藤の体の上に落ちた。
須藤はびくっとなったが、やはり顔をあげずに泣いている。
「すんません、すんません……何でもします、何でもしますから、勘弁してください」
「何でもしますぅ? そやったら俺に借金負わす前に銀行強盗でもしてこいや!」
「……」
須藤はそれには返事をせずに、こすりつけた頭を左右に振って泣くばかりだった。
「のけっ」
鴉はドアの前で蹲っている須藤の体を蹴飛ばした。反動で体がごろんと横に倒れたが須藤はまだ泣き続けている。
鴉は須藤に投げつけた金融会社からの書類を拾い上げてから、
「俺が帰ってくるまでに消えとけ。二度とその面を俺の前にさらすな! ええな!」
と言って、壁や廊下に八つ当たりしながら部屋を出た。
鴉の体に飼われている怪異達は誰も声も出さない。とばっちりを食うのはごめんだと、気配を殺して潜んでいる。こんな時に声をかけるのは御法度である。
怒った気配をぷんぷんと発しながら、鴉は車に乗り込んで乱暴に発車させた。
「そやから、こんなん無効やろ。本人確認もせんと金貸すあほがどこにおんねん!」
鴉の怒りは金融会社の担当者にまで及んだ。
スカイローン、卯月と書かれた名札をつけている。
きちんとしたスーツを着て髪もなでつけてあるが、ある種の品格に欠けた気配を感じる若者だった。大学生だと言っても通るような若さだがやけに媚びた、歪んだ笑顔だった。
「そうはおっしゃられましても、お客様」
お愛想笑いをする卯月に鴉の怒りはますます大きくなる。
「この支払いは無効や、詐欺やないか。俺は判をついた覚えはないで。これ書いたんも俺ちゃうしな」
カウンターに書類を置いて、その上をばしばしと叩きながら鴉は怒っている。
「お客様、この書類はどこに出しても立派に通りますよ。貸し出しました金額をお返しにならない場合はこちらも法的手段に……」
「法的ぃ? へえ、訴える言うんか。面白いやないか。訴えが通る前にこんな会社一時間で潰してやるわ」
鴉がそう言い、カウンターから離れた。入り口の横に置いてあるビニールのソファにどかっと座った。
「お客様、ここで居座りを続けたところでどうにもなりませんよ」
腹の底からうんざりとした声で卯月が言う。こういうトラブルは慣れているのだろう、すでに処理係に連絡済みらしく事務室の奥の扉から男が出て来た。すぐに卯月と鴉に目をやる。
卯月よりも数段上等なスーツを着て、ブランド物の靴を履いている。鋭い目つきはもちろん真面目な金融サラリーマンではない事を証明している。だが、本職ではないようだと鴉は見当をつけた。
「堀田さん」
と卯月がほっとしたような顔をした。
「払う気がないのに、借金されたら困りますね、お客さん」
と堀田が言った。
鴉はふんと鼻を鳴らし、
「ここは客に茶ぁも出せへんのかい。しけた会社やの。すぐに潰れるで、あんたも再就職先を探しときや」
と言った。
「お貸しした二百万、すぐに返してもらえたら何事もないんですよ。使ってしまったなら地道に返していきましょうよ。ねえ、お客さん、こちらも商売ですから困るんですよね。こういうトラブルは」
堀田は鴉の前に腰を下ろした。
また奥の扉から何人かの男が出て来た。男達は隠すことなく、暴力団ですと顔に書いてあるような連中だった。説得と暴力と、二段構えでトラブルを解決するのだろう。
「おう、こら、借金消せとふざけてんのはお前か? 早いとこ借金なくしたのなら、成人男性、体中全部売ったら二百万になるぞ!」
どすのきいた声で頭ごなしに怒鳴ったのは、一番体の大きい男だった。坊主頭で顔中に傷があり、力もありそうだが、知性が足りなそうな男だった。
その背後でチャッチャとナイフの刃を入れたりだしたりしている者や、やたらに顔を近づけて鴉を舐めるように見る若者もいる。
「シンナーくっさい顔近づけんな」
鴉は手の甲で男の顔をはたいた。はたかれた顔にさっと赤みを帯び、男が鴉の胸ぐらを掴んだ。だが、
「え……な、何だ?……」
誰にも見えていない。だが、確かに男の顔や体に無数の感触がある。髪の毛をつかまれたり、首筋や肩、腹、に何かが噛みついている。
(あにさん……喰うてもええですかぁ)
(うま、うま、喰う、人間)
「うわぁ、や、やめろ!」
ばたばたと暴れる男を鴉が突き飛ばした。
どすんと尻餅をついて男が床に座り込んだ。
「こんなくっさい男、食うたら腹こわすで……俺もこんな下品な場所によういてられへん。一時間で倒産や」
と鴉が言った。
途端に男達が笑い出す。堀田も笑いながら、
「倒産? おかしな事を言う男だ。おい、つまみだせ。あんたもこんなとこで愚痴ってるよりもちゃんと金を返す算段した方がいいぞ。親、兄弟まで泣かせたくはないだろ?」
と言った。
「親、兄弟? そんなもんおるか。なあ、堀田さん、会社倒産くらいですんだらええけどなぁ」
と腕を組んで鴉が言った。
(へえ、あにさん……がんばりましょうかね……)
訳の分からない鴉の言動に男達は一瞬戸惑った。だがすぐにその戸惑いも忘れてしまった。次の瞬間に事務所の電話がいっせいに鳴りだしたからだ。
まず卯月が自分に近い電話に出た。
「はい、スカイローン……はい……え?」
きょろきょろと辺りを見渡す。だが、どこにも助けはなかったようだ。困惑した表情で相手の話を聞いている。
「あ、あの……はい、はい。いや……しょ、少々お待ちください」
受話器を手で押さえて、
「堀田さん! なんか被害者の会とか弁護士とかから電話ですけど……」
と言った。
「弁護士?」
堀田が腰を浮かした。だが、すぐに、
「弁護士が何の用だ」
と言った。
「被害者団体を作ってスカイローンを訴えると言ってますけど……」
「はあ? 借りる時はしおらしい顔しやがって、返す段になったら、被害者ぶりやがって! 何も言うことなんかねえ! 切ってしまえ!」
そしてすぐに別の電話に出た男が、
「堀田さん、本部長の佐田さんからですけど……」
と言って堀田を見た。
「佐田さんが? 何だろうな」
堀田は少しためらったような顔をしたが、やがて受話器を手にした。
「何?……もしもし、代わりました、ええ、堀田です……え? ……いや、そんな、ちょっと待ってくださいよ! 佐田さん!」
ツーツーと通話の切れた受話器を持ったまま堀田が戸惑っている。
「堀田さん、どうしたんですか?」
「分からない……急にうちから手を引くと言われた」
「え、どうしてですか? ちゃんと金は払い込んでるじゃないですか」
「……出資している金をすぐに払い戻せと言われたぞ」
「え……そんな……返せるんですか?」
「無理に決まってるだろ!」
堀田はどすんとソファに座り込んで頭を抱えた。そして、
「やばい、金を返せなけりゃあ……どんな目に遭わされるか……」
とつぶやいた。
頭の中は金の算段が始まり、鴉の事など忘れたようだった。
鴉はソファに座ったままにやっと笑った。
今度は堀田自身の携帯電話が鳴った。堀田は怯えたような顔で電話に出た。
「もしもし……なんだ、良美……今忙しいんだ。仕事中……え、何? 純子が事故だって?」
堀田の視線は宙をさまよい、遠くの方を見た。そしてまた視線が戻ってきたが、その視線は鴉の上で止まった。電話は続く。
「それで? 病院に? そうか、分かった。できるだけ早く行くから」
堀田の目は鴉を見つめている。
卯月を始め、スカイローンの名札をつけた者はみんな堀田の指示を待っている。
「娘さん、事故かいな、早う、病院へ行ったりいな」
と鴉が言った。
「なんだ……お前……」
と堀田が言った。
「どこの組のもんだ。お前の仕業か……最初から段取り組んで来やがったな!」
鴉はぷっと笑って、
「いいがかりや」
と言った。
「貴様!」
堀田が立ち上がって鴉につかみかかろうとした。
だが、腕が宙に止まる。のばした手が鴉にまで届かない。体中を何者かに押さえつけられている。目に見えない何かが堀田を捕まえているのだ。
「な、何だ?」
もぞもぞとスーツの下が痒い。何かが肌の上を動いているようだ。
それは手足だけでなく、背中や腹のあたりまで広がっていく。
「痛っ!」
何かが堀田の肌に噛みついた。小さい小さい口で噛みついた。だがそれはとても鋭い歯を持っているようで、とても痛かった。
「い、痛い!」
その小さい口はいっせいに堀田の体中を噛んだ。堀田は踊っているように体中をくねらせた。振り払うように手も足もぶんぶんと動かすが、そいつらは堀田の肌に噛みついて離れなかった。そして髪の毛の中まで侵入し、頭皮まで食い破ってくる。
すうと頭から血が流れた。
「ほ、堀田さん……」
堀田を卯月が見下ろしている。
堀田が狂ったように転げているのは分かる。なぜだか血が出て、えぐるような傷が体中にあるのも分かる。
だが、卯月には堀田に噛みついた無数の餓鬼達の姿は見えなかった。
「痛い、痛い! 助けてくれえぇ!」
呆然としている卯月を鴉が見た。
「次はお前や……」
「な、なんだ……なんだあんた!」
「堀田さんは一時間もあったら骨になんでぇ。餓鬼どもは腹ぺこなんや」
「ちょ、ちょっと!」
卯月は真っ青な顔色でのたうち回る堀田を見た。足の一部から白いものが見えるのは骨だろうと卯月は思った。
「ど、どうしたら……」
「俺の名前で作った詐欺まがいの証文を消したら、堀田さんも助かるかもなぁ」
と鴉が言った。
がたがたっと音をさせて、卯月が慌てて鴉に背中を向けた。間にある机や椅子に躓きながらキャビネットへ走っていき、中から鴉の名前で作成された書類の原本を取り出した。震える手で、
「こ、これが……」
と鴉にその書類を渡した。
鴉はそれに目を通して、
「ええやろ。これに懲りたらあまり阿漕な真似はすんなや」
と言った。そして続けて、
「餓鬼! 貧乏神! もうええ。帰るで」
と言って立ち上がった。
小鬼達は不服そうな声を上げた。鴉の合図が聞こえないふりをして、まだ堀田の体に食いついている奴もいる。鴉が小鬼どもを睨みつけて、どんと足を一歩踏み出した。
さあっと餓鬼達が鴉の体へ舞い戻ってくる。
スカイローンの事務所内ではまだ電話が鳴り続けていた。堀田の悲劇に気を取られて誰も電話を取る事はなかったが、鴉が事務所を出た瞬間に電話のベルはぱたりと止んだ。
あの男は何者だったんだろう、と卯月は思った。そして、あれ以上電話に出たらどんな事があったんだろう、と考えた。そして身震いをして、その考えを頭から追い出した。




