不浄の壺5
「に、兄さん……お電話です……」
電話機の子機を手に須藤が部屋をのぞいた。
鴉はソファから体を起こした。面倒臭そうに大きくのびをして、須藤から子機を受け取った。だが、鴉はすぐに電話に応答しなかった。電話の子機を持ったまま須藤の方を見ている。須藤はまた何か失敗をしたのだろうかと慌てた。両手を組んでもじもじしたまま立っている。
ふいっと鴉が須藤から視線を外した。何もなかったように電話に答えた。
「鴉ですが……またですか……ええ、まあ、ええですけど。分かりました」
無愛想に返事をしてから電話を切った。
そしてその場で待っている須藤に子機投げつけてから、
「出かける」
と言って立ち上がった。
財布をポケットにねじ込み、上着を着ると鴉は部屋を出て行った。
「気を……つけて……」
と言う須藤の言葉はバタンと閉まるドアの音にかき消された。
鴉が出て行った後には何の気配も残らない。鴉の肌に飼われる怪異達は否応もなく主と行動をともにするからだ。しばらくの間は肌から抜け出す事も可能だが、鴉の生気を糧として存在するので、長い間鴉から離れると消滅してしまう。
須藤ははあっと息をついた。
彼の体中に回った「不浄の壺」の毒は脳にまで達し、須藤から考える機能を奪った。
須藤は鴉がいないとどうしていいか分からない。自分はここで何をしたらいいのか、考える事ができない。言われる事だけしか出来ない存在だった。
だが、須藤は鴉が恐ろしい。一緒の空間にいると耐えられない気持ちになる。
鴉は滅多に出かけないが、たまに留守にすると少しだけほっとする。いつもびくびくとしている須藤が鴉の留守だけは少しだけ息がつけるのである。
退屈しのぎに須藤をいじめる小鬼どももいないので、部屋の中はしんと静かだった。
須藤は台所へ行って座った。
いつも鴉に用事を言いつけられるまで、台所の椅子に座って待っている。
そして鴉が出かけた後も、帰ってくるまで座って待っているのである。
須藤に与えられた仕事は、客が来た時に茶を出す、鴉に言われた物をメモして近所のスーパーに買い物に行く、電話が鳴ったら出て名前を聞いて取り次ぐ。
後は鴉にその都度言いつけられた用事をこなすだけである。
須藤はぼんやりと子供の事を考えていた。
「愛子」と名付けたのは須藤だった。女の子が生まれたら「愛子」にしようと若い頃から決めていた。春に生まれた愛子は可愛らしい赤ん坊で、須藤は感動のあまりに泣いてしまったほどだ。子供が生まれた事により自分がこんなに幸せになれるとは思わなかった。
どちらかというと家庭より仕事人間だったのだが、家へ帰るのが楽しくなった。風呂へもいれた、おむつも替えた。そうやって子供と接する須藤を嬉しそうに妻は見ていた。
あの時、妻は何を思っていたのだろう。自分の子供でもない娘をかわいがる須藤をあざ笑っていたのか……そして須藤の思考が止まった。胸の中に悲しみが広がる。憎しみはもうない。ただ、悲しいばかりだ。しばらく何も考えずにぼうっとして、そしてまた娘の事を考える。
入院させて、手術するのに金がかかる。それをどうにかして稼がなければならない。
働いて金をためなくては、という事しか頭に浮かばない。
だが須藤には働く場所も能力もなかった。
今はただその事が無性に悲しかった。
ふぅと須藤はため息をついた。頭を切り換えなければずっと座ったままでいてしまう。頭を軽く振って、須藤は立ち上がった。
その時、ピンポーンとドアのチャイムが鳴った。
「あ……」
どうしよう、どうしようと心の中で思った。
お客さんかもしれない、と思って困ってしまった。今日は予定が入っていないはずだったからだ。いつも来客は浅田が前日に知らせてくれるようになっているのだ。何も聞いていないので、どうしていいのか分からない。鴉もいない今、須藤は途方に暮れた。
チャイムはひつこく鳴り続ける。須藤はびくびくしながら、玄関のドアを開けた。




