不浄の壺2
「金がいるんです」
「金? なんぼ?」
須藤はそれには答えなかった。浅田が買って渡した缶コーヒーを一口飲んで、ほうっと息をついた。
繁華街から一本外れた通りにある小さな公園のベンチに二人は腰をおろしていた。
もう少し暗くなると、自転車で曲芸乗りをする少年やラジカセの音楽をバックに踊り出す少女達が現れる。
「兄さんに貰ってんのちゃうの?」
「ええ……兄さんには貰ってます……けど、もう少し……貯めなあかんのです」
「へえ」
「浅田さん……代彫りの仕事……な、ないですか……」
須藤が真剣な顔で横に座っている浅田を見た。
「代彫りって……須藤ちゃん」
浅田が呆れた顔で須藤を見た。
「ぜ、絶対に成功させます……」
「代彫りなぁ……もしあっても兄さんがええと言わんやろ。なんせ須藤ちゃんは一回失敗してるし」
「で、でも……」
「それに、その体やったら無理やろ。代彫りは酒場で働くよりきついでぇ……須藤ちゃん」
須藤は缶コーヒーを握りしめたまま、うつむいた。
公園の外灯がぽっと点いた。
冷たい風がひゅーと通り過ぎて、浅田は首をすくめた。
どんな事情があるか知らないが、須藤に代彫りは無理だと浅田は思った。
代彫りはその字の通り、依頼人の代理となってその肌に怨みの彫り物をするのである。
鴉と相談の後、依頼人が代理人を連れてくる場合もあるし、鴉が用意する場合もある。代彫人に払う報酬は鴉と同じだけかかる。
依頼人自身は痛くも痒くもなく、かつ怨みを晴らし、必ず成功させるとなると、莫大な金額が必要なのである。
実際に浅田は代彫りを見た事がなかったが、今の須藤には絶対に無理だろうと思った。
「そんなに金が必要なんか? いったいなんぼいんねん?」
「……に、二百万くらいです」
「二百万かぁ。それは結構な金額やな……けど、何で?」
須藤はしばらく黙ったままうつむいていたが、やがてぼそぼそと小声で言った。
「子供が……病気で……病院代とか……手術代とか……」
「え、子供、病気かいな。そりゃ、困ったな」
「ええ……まあ……わしがこんなやから……あの……預けてあるんですけど、や、やっぱり費用はわしが用意せな、あ、あかんと思うし……働いて……なんとかしたいんですけど……」
「ああ、須藤ちゃんの子供、施設にいてるんやったなぁ」
須藤はこくんとうなずいた。
その時、何人かの少年が公園に入ってきた。自転車を押して中まで入ってくると、輪になり、自転車を使って曲芸のような事をやり始めた。アクロバティックな自転車競技で、技を決めれば見ている他の少年達から拍手がわき起こる。
今の子供は裕福だ。公園にいる少年達はそれぞれに自分の自転車と携帯電話を持っている。欲しい物は何でも手に入る時代だ。
それでも何かが足りないのだろう、こうして毎晩少年達は集まり奇声を上げる。
須藤の子供は自転車なぞ持っていないだろうなと浅田は思った。
「須藤ちゃん……ほんまの子供ちゃうのに……面倒みたってんのやろ」
と言った浅田に須藤は薄ら笑いをした。
それは自分を卑下するような自嘲的な笑いだった。
「兄さんに聞いた事がある……須藤ちゃん、ほんまはええ大学出て、有名な会社勤めてたんやろ?」
「む、昔……の事です……」
須藤はかつてエリートサラリーマンであった。裕福な家に生まれ、何不自由なく成長した。よい学校を出て、有名企業に就職した。自分は選ばれた人間だと信じていた。仕事をうまくこなして社会的地位を手に入れた、金も貯め、家柄のよい妻と結婚し、子供をもうけて、幸せだった。けれど、ある日今まで自分の子供と思っていたのが他の男の子供だと知った。プライドの高いエリートは妻の浮気を許せなかった。子供もろとも、妻も相手の男も殺してしまうしか自分のプライドを保つ方法がなかった。
相手の男は夜の街で薬の売人をしてるようなクズだった。妻も男の影響で薬物中毒。須藤はどうしても許せなかった。
須藤は鴉に依頼した。
男と妻と子供を殺してくれるように。
鴉が須藤に施した図柄は「不浄の壺」だった。
小さな茶色い古びた壺だ。取っ手の部分が少し欠けているが用途には支障ない。
その中に何が入っているのかを知っているのは鴉だけだ。
何人もの人間を切り刻んでしまうような恐ろしいものが入っている。
一度蓋が開いてしまうと、与えられた仕事を果たすまで蓋が閉じる事はない。
鴉にさえ蓋を閉じる事は不可能だった。
「不浄の壺」はそれだけの力を持つ。
須藤は思い詰めていた。だから鴉もそれだけの図柄を入れてやった。
須藤は「不浄の壺」を背中に入れて、その毒気に耐えた。
満願成就したら須藤の背中の不浄の壺は蓋を開ける。
中から出てくるのは何だったのか。
先に死んだのは男の方だった。
ある日突然、須藤の家のリビングに置いてある大きな水槽に男が現れた。
アロワナを飼っていた大きな水槽に男は口をぱくぱくさせながら丸まっていた。
その水槽の中で日に日に男の体が切り刻まれていく経過を須藤は眺めた。
水槽の中の水は濁っていたので、何が男の体を喰っているのかは見えなかった。
最初、男は酷く抵抗していたが少しずつ大人しくなった。
目は大きく見開かれ、助けを求めていた声もやがて聞こえなくなった。
徐々に男の体が小さくなっていき、骨が見え始める頃にはあまり暴れなくなった。
それと同じ頃、妻は体中に毒が回って日に日に体が腐って落ちるようになっていた。
水槽の中の男よりも自分の体の不調に精一杯で男を助けようともしなかった。
妻の体からは悪臭が漂った。そして一歩歩くごとにぼたっと足の肉がこそげ落ちる。
髪の毛が抜けて、頭の皮ごとずるっと剥けた。頬の肉がなくなり目玉が飛び出した。
臭い肉の匂いがした。
妻もやがて死んだ。
だが、須藤は失敗した。
須藤は子供も生かしておくつもりはなかったのだ。薬物中毒の男の種……しかし昨日までは大事に大事に育ててきた子供だった。利発で可愛い子だった。
だが、最後で哀れに思ってしまった。
そして詛いは失敗した。
子供に課せられるはずの厄災は須藤の体に返ってきてしまったのだ。
「わしは……傲慢な人間でした……ど、どうしても裏切りが許せずに……愚かな事をしました……わしがこんな姿になったのは……自業自得です……こ、子供に罪はない……わしは……こんな体になってしもうたけど……子供だけは助けられてよかった……と思ってます……施設で暮らして……不自由させて……今更父親とは言えません……す、姿もすっかり変わっているし……でも、わしが土産持って会いに行くと……「おじさん」て言って、ちょっとは喜んでくれるんです……だから……」
「そうやったんや……」
ずるずると鼻水をすする須藤を見て、浅田は考えた。出来るなら力になってやりたいが、須藤の体は代彫りには耐えられないだろう。鴉に失敗はない。鴉が須藤を代彫りに使う事はまずないだろう。
「施設にも金銭的な余裕はあんまりない……んです。子供を捨てたり、虐待したり……そ、そんな親を持つ子供は年々増えて……施設もパンク状態です……なんとか……病院代を稼ぎたいんです……」
公園の夜はずんずんと時を進める。風は徐々に冷たくなってくる。
自転車曲芸は宴もたけなわだ。汗をかいた少年達はTシャツ一枚になっている。
「須藤ちゃん、今日はもう帰った方がええ。寒いしな。風邪ひいたらどうにもならんし」
「そ、そうですね……」
鼻水をすすって須藤は腰を上げた。近くのゴミ箱に缶を捨ててから、浅田に頭を下げた。
「……もし代彫りの仕事があったら、兄さんに頼んでみますんで……それまでは内緒にしてもらえますか……」
「分かった」
須藤はもう一度浅田に頭を下げてから公園を出て行った。
浅田は無意識に上着のポケットを探っている自分に気がついた。今日の昼、鴉にもらった報酬が入っている。百万円はあるはずだ。これを渡してやれば須藤もかなり楽になるだろうと思う。
俺は冷たい人間か? と浅田は自問した。
それから、俺が身銭を切って須藤ちゃんの子供を助ける義理はないやろ、と笑った。
正義の味方はそうそうおらんで。
浅田自身が施設で育った虐待された子供だった。
母親の顔はもう覚えていない。覚えているのは酒と化粧品の匂いだけだ。抱いてくれた記憶はない。母親の連れてくる男によく叩かれたり、蹴られたりした。
腹をすかせて、いつもアパートの階段に座っていた自分を少しだけ覚えている。
やがて母親は帰ってこなくなり、浅田は施設に連れて行かれた。
殺される子供よりはましだろうか、成長し、自分で働いて糧を得るようになった今でもその答えは出ない。ただ、もし今母親に会ったら殺してしまうな、と思っている。
浅田には誰もいなかった。須藤のように気にかけてくれる者は誰もいなかった。施設の先生もそうだ。優しいどころか厳しかった事しか覚えていない。
施設の中では友達もいたが、外に出ると皆が敵だった。学校の他の生徒も先生達も、近所の子供も大人も、全てが敵のように思って育ってきた。
人間なんてくだらない。生きるという行為事態が何なのか浅田には分からない。
自分のようなくだらない人間が、眠って起きては腹が減って、食いものを手に入れる為に働いて、しかも誰にも褒められやしない仕事だ。騙したり、騙されたり、殴ったり殴られたり、下等だと罵られたり罵ったり。それでも毎朝目は覚めて、夜は来る。
須藤を見ればましだと思っていた。怨みを身に受けあんな姿で生きて行かなければならない。鴉のところがなければ生きて行く場所もない。体が不自由だとはいえ、公的な支援を受ける事もできない。鴉に捨てられたらのたれ死にだ。全て自業自得だ。
だが今の須藤は子供の為に一生懸命に生きようとしている。不自由な体を引きずりながら出来もしない仕事を探して働こうとしている。
鴉の毒がどんなにすさまじいかを一度味わっているはずなのに、代彫りを望んで再びその身に怨みを背負おうとしている。子供の為に。
(あんな体でも子供の為やったら出来んねんなぁ)
そんな生き甲斐がある須藤が少しうらやましいような気もする。
醜い須藤を見ていれば安心できたはずが、今では嫉妬すら覚える。
子供の事を語っていた須藤の顔は醜いがうれしそうだった。
醜く歪んだ須藤の肢体は自業自得で、そのまま死ぬまで這いつくばって生きていくしかないだろうと、軽く見ていたが、須藤には生き甲斐があったのだ。
命を取り留めても喜ぶ人間もいなければ、心配してくれる人間もいない浅田とは大違いだった。
「あーあ、聞かんかったらよかったぁ」
大きくのびをして浅田はベンチから立ち上がった。




