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  作者: 猫又
12/33

ごきかぶり4

 顔がくすぐったいので、手のひらで頬を触った。

 ぽりぽりと掻いてから慌てて撫でる。

 特にどうもなっていなかったので、息をついてまた目を閉じた。

 首筋に何かが触れたので、また手で触った。しばらくじっとしていたが、すぐにこそばさは消えた。だが、一度気になり出すと体のあちこちが痒いような気がする。首を掻いたり、二の腕をさすったり、太ももをたたいたりしてみる。

 やがて背中まで痒くなる。ベッドの中で寝返りを打ちながらもぞもぞとする。

 やがて、完全に目が覚めてしまい、英美は起き上がった。

 ベッドの頭元についているライトがオレンジ色に部屋を照らしている。

 ワンルームマンションなので、一目で部屋の中を見渡せる。

 脱いで散らかした洋服やバッグが散乱していた。

 ベッドから起き上がって冷蔵庫の中のミネラルウォーターを取りだして一口飲んだ。

「何だろ。痒い。乾燥してんのかな」

 英美はパジャマの中に手をつっこんで背中をぼりぼりと掻いた。

 痒い。掻いても掻いても治まらない。背中から肩、脇腹、足、次々に痒くなる。 

 髪の毛の中まで痒い。

 あまりの痒さにいらだつ。いらいらと起き上がり、部屋の電気をつけた。

 姿見に映してみるが別に虫に刺されたような後はない。

「シャワーでも浴びるかぁ」

 ぱっとパジャマを脱いで、英美は風呂場へ入る。トイレと一緒のユニットバスだ。

 英美はこのシステムが嫌いだった。風呂に入るたびにトイレの床が濡れるからだ。シャワーカーテンも効果がない。体は浴槽の外で洗いたかったし、もっと広い湯船にゆっくりと浸かりたい。もう少し貯金が貯まったらましなマンションへ引っ越そうかと思っていた。

 薄暗い照明の中でシャワーの栓をひねる。

 なかなか暖かい湯が出ないのも悩みの一つだ。

 それでもさっと湯が肌を濡らしていくと、ほっとした。

 流れてくる湯で顔を洗う。その時、昼間出会った男の事を思い出した。

 せっかくのカモを取り逃がした悔しさがこみ上げてくる。

「もー、あの男いけそうだったのに! むかつく。今度見かけたら事務所に引っ張ってって店長のカモにしちゃおう。店長の彼氏やばい系らしいし、怖い目に遭えばいいんだわ」 昼間の出来事を思い出していると、男が去り際に言った言葉が蘇ってきた。

 男は英美に「綺麗な肌してんのに」と言った。

 そうよ、と英美は自分の腕をさすった。綺麗な肌は英美の自慢だ。

 大枚はたいてエステに通っているのは美肌と美白の為だ。その為の金は惜しくなかった。

 顔はどうにでも整形出来る。不細工でも金さえ出せば見られるようになる。

 だが肌はそうはいかない。持って生まれた肌理細やかな、上品な白い肌。これはいくら金を積んでも手に入らないものだ。

 英美はいつか顔も整形するつもりだった。美しい肌に似合う美しい顔。それさえ手に入れば英美の夢は叶うのだ。その為なら何でもする。

 肌の為に選びに選び抜いた石けんは一個五千円ほどする。英美はそれで寝汗をかいた部分を洗おうとしていた。

 石けんを泡立てて、脇の下や乳房の辺りを優しくこする。

 一瞬だった。

「え……」

 黒い影が泡の下に見えた。それはすぐに見えなくなったので、目の錯覚だと思った。

 泡の部分を洗い流してみる。何もない。

「なんだ……」

 軽く体を擦ってからシャワーで全身の泡を流す。

 バスタオルで体の水分を素早く拭きとり、風呂場から出ようとした時、洗面所の鏡に目をやる。曇ってよくは見えないがシャワーで暖まった顔が映っているはずだ。だが、それはやけに黒く映って見えた。

「え?」

 慌てて鏡の曇りをバスタオルで拭う。

「や……いや……!」

 英美の顔に無数の真っ黒いゴキブリがたかっていた。

 ぎゃーという悲鳴とともに持っていたタオルで顔を拭う。ゴキブリは英美の顔から一瞬にして消えた。

 英美は悲鳴を上げながら風呂場から逃げ出した。あまりの恐怖で悲鳴がやまない。深夜の事なので、すぐに隣の部屋の壁がどんどんとたたかれた。うるさい!と怒鳴っているような声も聞こえた。

 英美はタオルで顔をこすり続けた。やがて、顔の上にゴキブリがたかっているという感覚がない事に気がついた。あれだけの虫が顔の上にいて、感じないはずがない。

 サイドチェストの上の手鏡を取る。恐る恐るのぞき込んでみると、タオルで擦りすぎて真っ赤になった頬が見えるだけだった。

「嘘……」

 英美は大きく息をついた。

 あんな目の錯覚があるだろうか?

 目の前のテーブルに置いてあったミネラルウォーターのペットボトルを手に取る。ごくごくっと勢いこんで水を飲んだ。

「いやっ!」

 英美はペットボトルを放り上げた。

 英美の右腕にゴキブリが張り付いていた。

 そいつらはもぞもぞと動いていた。英美が腕を払っても逃げたり、落ちたりしなかった。

 もぞもぞと動くだけた。長い触覚が上下左右に動き、背中が黒光りする。

「う……そ……、何、これ」

 やがてそれは動き出した。一匹は英美の首筋へ、もう一匹は胸の方へ。一匹が動くとそれに続く奴もいれば反対に動き出すやつもいる。羽を広げて飛びだそうとしている奴もいる。動きが鈍い奴もいた。

「嫌……助けて……」

 体中がむず痒いのはゴキブリが這い回るからだった。

 英美はめちゃくちゃに体を動かした。どうにかゴキブリを体から振り落とそうとした。 だが、ゴキブリは英美の体にしっかりとくっついてどうにもならない。

 わさわさと這い回る。

 やがて、ゴキブリは英美の全身に広がった。

「助けて……助けて……」

 テーブルの下に落ちた携帯電話を手に取って、助けを求めた。

 同僚に電話をしたら「はぁ? ゴキブリ? バルサンしたら?」と言われた。

 宜哉の電話は留守電だった。

 安原にも電話をしたが、「ゴキブリ? 知るか!」と切られた。

 そして英美の携帯電話には相談できそうな相手がそれ以上登録されていなかった。

 後は今までカモにしてきた男達の電話番号だ。

 警察に電話し、救急車にも電話したが凄い剣幕で怒られただけだった。

 その間もゴキブリは英美の体中で蠢き回る。

 英美は目をつぶった。だが、余計に体中を這い回る感触が拡大される。

 痒くて痒くて気持ち悪くて、英美は泣き出した。

 部屋中転げ回って泣いた。

 そしてベッドの角にこすりつけたり、顔を爪でひっかいたりしたので英美の肌はミミズ腫れになってしまった。それでも痒みはおさまらないし、ゴキブリどもは腫れて血が出てきた箇所に集まってくる。まるで英美の血を飲んでいるように頭をつきあわせて傷口を囲んでいる。

 やがて英美の耳にぼそぼそとした声が聞こえてきた。

 切れ切れでよく聞き取れない声だった。

「我々は……醜い……汚い……集団……誰からも嫌われる……人間に見つかったら殺される……」

「……病原菌をまき散らす……人間以外にも……猫や犬にも……追い回されて……」

「何の為に存在するのか……我々にも分からないが……」

「鴉に飼われているうちは重宝がられる……我々は……人間に最高の……恐怖を……」

 ぼこっと英美の肌が盛り上がり、平面だったゴキブリが立体化した。そしてゴキブリは英美の皮膚の下にまで入り込んで這い回るようになった。

 英美は体中から体液を垂れ流している。涙なのか汗なのか、失禁している事すら気がついていない。ゴキブリはその数を増やすばかりである。

 やがて転げ回りながら泣き叫んでいる英美に一つの案が浮かんだ。

 這いながらキッチンへ行き、シンクの下から包丁を取り出す。

 包丁でこのおぞましい虫を削いでしまうしかない、それしか思いつかなかった。

 自分の腕に包丁を振り下ろす事にためらいはなかった。美肌の事も今の英美の頭から消えていた。ただこの這い回る嫌らしい虫をどうにかしたかった。

 ワンルームマンションで隣との壁は薄いはずだった。

 だが、英美の絶叫に駆けつける住人は誰もいなかった。

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