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通信の混乱により、前線部隊にハワイの被害情報は伝えられなかったが、この時ハワイ・オアフ島の真珠湾やホイラー陸軍航空基地など主要な軍施設は、日本の第一機動部隊を発信した約200機の攻撃隊の3回に及ぶ波状攻撃により、海軍工廠や燃料タンクを含む主要施設を根こそぎ破壊されていた。真珠湾にはタンクから漏れ出した重油が流れ込み、また炎上したタンクの煙はホノルルの街の上空に覆い被さっていた。
ここに米国の太平洋進出の拠点は、丸1年は使用不能な状況に追い込まれた。
さらに、日本領へと攻撃を仕掛けた連合軍部隊にも悲惨な結果が待ち構えていた。
フィリピンから台湾に向けて発進した最新鋭重爆B17の編隊は、対空レーダーによっていち早く探知され、迎撃に発進した陸軍の一式重戦闘機(史実の「飛燕」2型相当機)と海軍の「紫電」(史実の「紫電改」相当機)に加え、試験配備されたエンテ型戦闘機「震電」の迎撃により、なんと編隊の8割を失って
撃退された。
護衛戦闘機がなかったにせよ、日本の迎撃機に袋だたきに遭ってしまったのだ。
またマリアナ諸島では、グアムの陸上基地ならびに海上の空母部隊から発進した攻撃隊がサイパンやテニアンに空襲を仕掛けたが、こちらも海軍の99式戦闘機「旋風」(史実の零戦54型相当機)や陸軍の零式重戦闘機「鍾馗」(史実の「鍾馗」の改良機)の迎撃の前に、攻撃隊の多くを喪失した。特にTBD雷撃機やSB2U爆撃機のように帰還率0という悲惨な部隊さえあった。
真珠湾への奇襲並びに攻撃隊の被害続出に、連合軍関係者は恐れ戦いたが、これはまだ序盤に過ぎなかった。何故なら、ほどなくして台湾やマリアナ諸島に展開する基地航空隊が反撃を開始したのだから。
台湾とマリアナ諸島(一部は硫黄島)から出撃した攻撃隊は陸海軍の混成で、陸海軍共同使用機の零式陸攻「飛龍」(史実の四式重爆「飛龍」相当機)に零式陸爆「銀河」(史実の「銀河」相当機)に加えて、最新鋭の4発重爆である一式陸爆「連山」までもが加わっていた。
特に「連山」は日本陸海軍が誇る秘匿兵器である一式対艦誘導滑空爆弾と、一式対艦誘導噴進弾を搭載していた。
これらは高空から母機の誘導の元、目標とした艦へ向けて放たれた。
この大日本航空研究所と陸海軍、さらには各航空メーカーの技術の粋を集めた誘導兵器であるが、この時点ではまだ誘導装置に未熟な部分が残り、また搭載される炸薬の量も限定的であった。
だから命中率はなんとか50%をキープというところで、撃沈艦もなかった。
ただし、母機の損害は高射砲による損傷数機のみで、被撃墜なしであった。
そしてこの誘導弾発射と呼応するかたちで、陸攻の雷撃と陸爆の急降下爆撃が連合軍艦隊に襲いかかった。
陸攻は重量1トンの最新型の零式航空魚雷を、そして陸爆は800kg1発もしくは250kg2発による急降下爆撃を実施した。
結果、この1日で連合軍艦隊は戦艦6隻、空母5隻を喪うという、大敗北を喫した。
しかも、これはこの開戦初日に限った被害であった。と言うのも、撤退する艦隊上空には常に九九式陸上偵察機(史実の一〇〇式司偵Ⅱ形相当機)や零式飛行艇(史実の二式大艇相当機)が貼り付き、その動きを逐次打電し続けた。
その情報を元に、基地航空隊や潜水艦戦隊が追撃を続行したのである。
結果として、連合軍艦隊は動員した戦艦、空母のほぼ全てを喪い、巡洋艦以下の艦艇の喪失も7割以上に登り、実質的に壊滅した。
さらに、連合軍艦隊が壊滅した数日後には、日本軍基地航空部隊はその矛先をフィリピンやグアム島などの連合軍飛行場へと向けた。
開戦時の空襲で爆撃機部隊に大打撃を受けたとは言え、迎撃用戦闘機はまだかなりの数が残存しており、それらが日本軍爆撃機を撃退すればと言う期待もあったが、フィリピン方面の爆撃隊には、軽空母「龍驤」「瑞鳳」「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」から発艦した海軍の「旋風」戦闘機に加え、陸軍の双発複座の長距離戦闘機「天龍」戦闘機(史実のキ102相当機)が随伴しており、米戦闘機隊を爆撃機に近づけさえしなかった。
結果グアム島の基地は1日で、フィリピン・ルソン島の主要な航空基地は1週間で基地機能を喪失した。
フィリピンに関しては、厳密に言えば無傷の飛行場はまだ残されていたが、稼働する機体は開戦10日間ほどでフィリピン全体で100機にも満たない数に激減していた。しかもこの数は、戦闘に用いることの不可能な練習機や連絡機の類いも含めてである。
こうして制空権が移ると、日本軍は悠々とグアムならびにフィリピンへの上陸作戦を展開し、グアムは3日で、フィリピンも首都のマニラはじめ、主要な基地は1ヶ月で全て制圧した。一部の陸軍部隊がバターン半島などに籠もったが、日本側は兵糧攻めと定期的な嫌がらせ攻撃のみで、捨て置いた。
逆に立て籠もった米比軍が3ヶ月後に根を上げる始末であった。
ハワイ奇襲を終えた第一機動艦隊は帰投後空母2隻ずつの戦隊単位で分割され、3個の航空戦隊が交代で活動することになる。すなわち2個航空戦隊が前線に出動し、残る1個戦隊が内地で修理・休養というサイクル運用である。
その後、機動部隊と基地航空隊に支援の元、日本側は堅実に南方資源地帯へ進み、最終的に2月にシンガポール、そして4月には英領ビルマと蘭印の制圧が完了し、ここに重要な資源の獲得に成功した。
対する連合軍は、主力艦隊が甚大な損害を受け、残存する小艦艇による散発的な反撃も、圧倒的に優勢な日本側によって叩き潰されてしまった。
こうして、開戦から半年。米英を中心とする連合軍は苦境に陥ることとなった。
米国としては、最終的な勝利を手にする自信、いや確信はあった。自国の工業生産力は圧倒的であり、今回喪った艦艇は補充可能、それどころか数倍にも拡張できる。空軍力も同様である。
如何に日本や欧州連合が全力を出したところで、米英連合が最終的な勝利を握る。
しかし、それはその工業生産力の果実がものになってからという前提条件つきであった。
如何に米国が国力を有していると言っても、さすがに一朝一夕のうちに軍艦や航空機が出来上がるわけではない。さらに言うと、それらを操る将兵もである。
これらが日本をはじめとする敵国を圧倒するレベルになるには、少なくとも2~3年は掛かる。
となると、それまでの間はとにかく守備に徹する・・・というわけにもいかない。
何故なら自分たちから仕掛けたにも関わらず大敗北したとなれば、市民からの批判は避けられない。
実際、新聞紙上でハワイや太平洋艦隊の被った被害や、フィリピンやグアムでの敗退が報じられると、途端に世論は硬化した。
日本の侵略をくじくために、先制攻撃したのに返り討ちに遭って、フィリピンとグアムを失陥し、艦隊も大打撃を被り、挙げ句準州のハワイが一方的な空襲を受けたのだから、政府に批判の矛先が向かうのは当然である。
ここで決定的な一撃が必要と考えた米国は、やむなく英国からの批判を無視して、大西洋艦隊のほぼ全力を太平洋に派遣し、太平洋艦隊残存艦隊と合流させて、新太平洋艦隊を編成した。
戦艦3隻、空母3隻とそれなりの陣容は整ったが、ハワイの基地機能が潰されているため、この新太平洋艦隊はオーストラリアを拠点とする予定であった。
しかしここで、横やりが入る。なんとかここで、国民の士気鼓舞のために、日本に一撃を与えて欲しいと。
これは、大統領から発せられたものだった。この時点でどん底に沈んでいる国民の士気(と自分の支持率)アップのために、日本本土を攻撃しろという無茶なものであった。
とは言え、国民の士気低下は軍としても問題であった。折しも南方資源地帯を手に入れた日本は、中立国経由で米国に和平を打診していた。もちろん、米国政府としては飲む気はさらさらないが、これに国民が靡けば世論の圧力で、屈辱の講和になりかねない。
そこで統合作戦本部は、なんとか日本本土へ一撃を与える手段を検討した。
最初に有力な案となったのが空母「ホーネット」から陸軍のB25爆撃機を発進させ、日本本土を爆撃後、友好国であるソ連に向かわせるという案であった。
しかしながら、この案では搭載できるB25の数が最大でも16機、空母全てを動員しての捨て身の案でも30機で、日本側の警戒網を突破して攻撃できるかが不安視された。
開戦後、ハワイの基地機能が停止していたため、米潜水艦はアリューシャン列島或いはミッドウェー島から日本本土方面への偵察を繰り返していた。
そしてそこで直面したのが、日本側の予想外に厚い警戒網であった。
昭和の初め頃から、日本では様々な形で海洋における航空機の活動を奨励していた。それは離島や南洋諸島への旅客・貨物輸送機から始まり、気象観測、魚群観測、沿岸部の陸路での移動が難しい地域への郵便輸送や、救急患者搬送などだ。
海軍や逓信省も、沿岸部の捜索救難任務や連絡任務に水上機や飛行艇を多用した。
もちろん、これに付随する形でパイロットを初めとする搭乗員や整備員、地上官制員の養成も各地に設けられた官民関わらずの学校や養成所で行われた。
ついでに言えば、洋上遠く通信可能な無線機や通信機、救難装備なども並行する形で発達した。
こうして蓄積された人員や技術は、戦争がはじまると離島への輸送任務や洋上哨戒へとコンバートした。
結果として、日本の制海権内に濃密な哨戒網が築かれることとなった。しかも、これら航空機は徴用漁船や小型貨物船改造の哨戒艇や補給船と連携していた。
結果として、水上艦艇のみならず潜水艦への対策にもなった。
例えば、夜米潜水艦が浮上して通信文を発すると、付近で活動中の哨戒艇や夜間哨戒を行う飛行艇が受信、その位置をマークして、夜が明けると航空爆雷を搭載した水上攻撃機や、さらに近くに対潜装備を持つ艦艇がいれば、急行して攻撃するという寸法だ。
この哨戒網に掛かり、月に1~2隻の潜水艦が撃沈され、さらにその倍の艦が損傷や哨戒任務の中止に追い込まれていた。
日本近海に辿り着くのさえ非常に苦労が伴うのに、これである。しかも、運良く独航の商船や艦艇に魚雷攻撃を仕掛けたものの、この時期の米潜水艦の魚雷は不発率が8割を超えており、ついには潜水艦の艦長がストライキを起こす始末であった。
こんな状況だから、日本本土の情報は不明確な点が多かった。
そこへ鈍重な爆撃機を送り込んでも、本土侵入前に全滅の恐れすらあった。
そこで、米海軍では作戦を変更した。
それは、日本本土に空母艦上機で攻撃を仕掛ける。ただし、発艦した攻撃隊は、空母に戻らず日本本土近海に接近させた潜水艦近くに不時着し、搭乗員だけ収容するというものであった。
目標も、日本海軍の根拠地である横須賀軍港に絞り込まれた。真珠湾の意趣返しである。さすがに内海の呉は諦められたが。
投入する機体も、艦戦のF4Fと機動性と防御力に優れるSBD、そしてグラマン社をせっついて、なんとか増加試作機12機を用意させた新型雷撃機TBFが用意された。
2機の空母からこれら艦上機100機を放ち、とにかく東京と目と鼻の先の横須賀に一撃を加えるのだ!
とは言え、やはり日本本土に近づくのはリスクが大きすぎる。そのリスクを少しでも下げる必要があった。
そのため、空母は当初「ホーネット」「ヨークタウン」のみで予定であったが、急遽これに大西洋から回航された「ワスプ」が加えられた。日本への攻撃隊を満載する2隻を守る役目を、同艦は担うわけだ。
こうして1942年4月、米国海軍乾坤一擲の作戦が発動された。
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