4 あなたが好き でも言えない(短歌・解説あり)平安時代
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平安時代 2
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幼女は助けられたその日に老夫婦の家に運び込まれた。温かい海藻汁の食事をとった後、幼女は倒れるこむように眠ってしまった。
幼女の乗っていた船は大嵐に巻き込まれた。鳴門の渦潮にまかれて船がバラバラに砕け散ってしまった。
乗船した時、幼女は幼女の姿ではなかった。船に乗船したのは美しい女だった。その美しい女は船が沈むとともに海に投げ出された。彼女は潮にまかれ沈んでは浮き、浮いては沈んだ。彼女の生命エネルギーは瞬く間に奪われていった。生命エネルギーを奪われつくした彼女の身体はいつしか幼女の姿に変わっていた。
幼女は生死の境をさまよって、身に持っていた膨大な生命エネルギーを使い尽くして命を繋いだ。そして彼女の命がまさに尽きようかとしたその時、彼女は浜に打ち上げられたのである。溺れ揉まれて藻だらけになって。
砂浜に打ち上げられた時、彼女は精魂尽き果てていた。
それから数日、幼女は目を覚まさなかった。
…………
夜明け前の淡い光があばら家の壁、杉板のすき間からそっと射し込んだ。潮の香りは海岸沿いの家に静謐な朝を運んだ。
幼女はふと気配に目を覚ました。海鳥が遠くで鳴いていた。炉端に座る盛常――いや、今は「盛吉」と呼ばれる男は静かな存在感を放っていた。
ごそごそ
幼女は寝床からそっと身を起こした。まだあどけなさの残る表情に夢の名残りを浮かべた。
盛吉は手入れを終えた漁具の脇で胡坐をかいた。そして優しい目で彼女に微笑みかけた。
「起きたな藻女。夜はよく眠れたか?」
「おはようございます。みくずめ?」
「お主は名を失くしたのだろう?」
「……み、みくづめ……」
幼女の声に戸惑いがにじんだ。藻だらけで倒れていた恥ずかしい姿を思い出した。頬がじんわりと熱くなった。
「ひどい。そんな……藻だらけだったからって……」
幼女はぷぅっと頬を膨らませて睨むように男を見上げた。
盛吉はそれを見て楽しげに、そして優しく笑った。
「はははは。そんなに気になるか。それも仕方あるまい。だがな……」
盛吉は窓の外の海をちらりと見た。そしてゆっくりと言葉を紡いだ。
「藻というのはな……、海の命を支えるものよ。藻は清らかでしなやかで海の宝のようなものだ。春になると藻は青く波間を飾る。夏には潮風と共にゆらゆらとたなびく。ときに二藻寄り添う。まるで乙女が袖をたなびかせるように浜辺を彩るのだよ。藻は昔から和歌にも詠まれるほどに美しいものなのだ」
男の言葉に幼女は息を呑んだ。自分が恥じていた藻もここでは美しく命をはぐくむ宝だったのだ。
盛吉はやわらかく微笑んだ。
「藻女というのはただの綽名ではない。海の命を宿してこの浜に舞い降りた美しい子だという意味もある。おまえはここに流れ着いた宝物だ」
ピキッ
幼女は驚きと恥ずかしさに頭が真っ白になった。表情は固まってしまった。表情筋がどこかに行ってしまったかのようだった。一方、幼女の心の奥にはあたたかい感情が沸き起こっていた。
ザザァ、ザザァ
潮騒の音がした。浜辺に波が打ち寄せていた。朝の光は柔らかく、窓と杉板の隙間から漏れていた。音と光に溶けていくように二人の静かな会話が流れていった。
男の低く朗らかな声にはどこか懐かしいあたたかさがあった。幼女は戸惑いながらも胸の奥が柔らかく緩むのを感じた。
「わしは盛吉という。見た通り貧しい漁師よ。妻は玉枝という。よく気が利くいい女よ。わしにはもったいない。お主を見つけたのは玉枝だよ。玉枝はお主の命の恩人だ」
盛吉の言葉が終わる前に、薪をくべる音とともに台所の奥から控えめな声が響いた。
「盛吉さま、それは…… そんな……、そんな大層なものではございませぬ……」
玉枝は湯気の立つ鍋の傍らで手を止めてきまり悪そうにうっすらと頬を赤く染めていた。玉枝の横顔に朝のやわらかな光が射していた。
盛吉はにやりと笑って肩をすくめた。
「照れることはなかろう。誰よりも早起きして浜まで行くのは、玉枝、おまえくらいだ」
玉枝は下を向いた。彼女の朝食の用意をする手は、ぎくしゃくしてぎこちなくなった。
「だって……夜明けの潮が一番綺麗で……。そして浜は……こんな素敵な子を私たちの前に運んでくださった……。こんな出会いがあるなんて思いもしませんでした……」
幼女は、藻女は、ふいに胸が熱くなった。そして盛吉と玉枝のやり取りを見つめた。
誰かに気にかけられるのはいつ以来だだろう。藻女はふと遠い昔を思い出した。
ぎこちなさも、静かな優しさも、この家が自分を優しく迎え入れてくれる。そう感じた。自然と口元がほどけた。
「はい……盛吉さまのお家は……とても静かで……心地よくて……。波の音もまるで歌のようです」
藻女の声は小さかった。しかしこの空気の澄んだ朝になにかが新しく始まるような、そんな響きを奏でた。
盛吉は手を止めて藻女の小さな肩に目をやった。小さく震えていた。今にも消えてしまいそうだった。か弱い肩だった。
「この子を守りたい」
盛吉の心にそんな気持ちがこみあげた。
「島の朝は、いつもこんな具合だ。寒うはないか? あとで浜へ一緒に行くか?」
藻女はその言葉にぱっと顔を明るくした。
「はい……盛吉さまがご一緒くださるなら……どこへでも……」
チクリ
わずかに胸が痛んだ。盛吉の飾り気のない優しさに触れるたび藻女の心に想いが深くなった。しかし言葉にはできなかった。
藻女は視線を落として小さく袖をいじった。静かなやりとり。穏やかな朝。それなのに藻女の心は波のように激しく揺れ動いた。鼓動が高まった。頬が熱くなった。
それが恋なのか、失いかけた命を拾って朝を迎えることができた嬉しさなのか。藻女にはわからなかった。
やがて家の奥からゆっくりと玉枝の気配が近づいてきた。少しずつ近づく距離が潮の匂いとともに朝の空気を満たしていった。
…………
◆今日の短歌
あさまだき
ひとりたゆたふ
なみのうへ
おもひかくして
まぼろしの恋
朝まだき
一人たゆたふ
波の上
想ひ隠して
まぼろしの恋
夏風
解説
あさまだき、夜明けの朝のまだ薄暗い時間帯に藻女は夢から覚まします。藻女は嵐にあって生死の境をさまよいました。藻女は水の上を浮かび、沈み、潮に翻弄されました。
彼女は命の儚さ、不安定さを感じて、不安に揺れ動く心をもてあまします。
短歌の波の上は物理的な波だけでなく藻女の心の揺らぎや切なさも表すように詠みました。
現実と夢、過去と今、さまざまな思いが波となって藻女の心を揺さぶります。
そんな藻女に懐かしく優しくたくましい雰囲気を持つ命の恩人、盛吉は藻女にやさしく接します。藻女の心に淡い恋心が芽生えます。
けれど男は玉枝の夫なのです。玉枝は命の恩人でもありできた女なのです。
藻女は思いを隠します。盛吉への淡い恋心を胸の奥に秘めて誰にも打ち明けることができません。切ないです。玉枝を悲しませることはしたくありません。
自分の恋は現実にはならない、叶うことのない淡い恋であると自覚し、儚さや哀しさとともにこれは「幻の恋」であると思いを心にしまい込む藻女です。
この歌はそんな藻女の気持ちを想って詠みました。
…………
朝まだき
一人たゆたふ
波の上
想ひ隠して
まぼろしの恋
おもひかくして
まぼろしのこひ……
夏風




