3 清らかなる潮に守られし女 蝕む黒き邪気(短歌・解説あり)現代
――――――
現代 2
――――――
淡路島の南端、誰も寄りつかぬ海底。潮が激しく渦巻く海底の深くには「殺生珠」と呼ばれる宝珠が人知れず鎮座していた。鳴門海峡は千年の時を越え、その雄大なるうず潮の底にある女を封印した殺生珠を守り続けてきた。
しかし鳴門海峡の隠された封印の地としての役割はやがて人々からは忘れ去れていった。とある一族の間に密かに秘密文書が保持されていた。それも戦乱や焼失などによりはるか過去にこの世から姿を消していた。
ピキッ
この珠は特殊な方法で作られた特別な珠だった。千年以上前のある雷鳴の轟く鳴神の夜のことである。その時、黒雲は低く垂れ込めて山より放たれる火の息吹はその地を赤く包み込んだ。獣も鳥も近寄らぬその地に一人の陰陽師が佇んでいた。帝から命じられて数々の術を極めし陰陽師であった。
彼の前には美しい女が横たわっていた。その女は朝廷を乱した絶世の美女だった。女は意識を失っているというのに彼女の妖気は夜風を凍らせた。それは枯草をしおれさせた。ただならぬ禍々しい妖気はその地を震わせた。
陰陽師は女を追い詰め、激戦の末にとうとう討ち果たした。しかし女の魂は死すら拒んだ。討たれて横たわる女は見る見る間に大地の裂け目から湧き出た焼けただれた珠に姿を変えた。
その珠は火山の地脈の力を吸った。そして火山の毒素も取り入れて禍々しく輝いた。そして硫黄と毒の気を脈動するように吐き出し始めた。「生き物の命を喰らう珠、殺生珠、あるいは殺生石」と後世に呼ばれる所以である。
封印を施したのは鬼神すら従える陰陽師の霊力である。彼は山の神や火の神の力を借り、地脈の星命エネルギーを用いて女の鎮魂を行った。
男は幾日にもわたる断食を行い、体内の俗なる成分を穢払により清め、浄身開放を行い、魂の穢れを一掃した。
地の神、水の神、火の神、気の神の助けを借りて自然界のありとあらゆるエネルギーがその場に集められた。山は呻り風は唸った。やがて珠の中から女の哀しい悲鳴が響きわたった。
男は夜を徹し幾重もの祝詞と真言を唱えた。女に残る力を石の奥深くに封じ込めるためにいくつもの材料をつぎ込んだ。神聖なる地脈のエネルギーを含んだ噴石を命を懸けて採取した。地から湧き出す高温の蒸気を用いて大やけどを負いながらも白布を禊いだ。珠には神仏を1文字で象徴した強い力をもつ神聖な文字である梵字を刻んだ。さらに術式を行う自らの拳には強い力を持つ呪印を刻んだ。
神力(仏力)、地脈エネルギー、人の生命エネルギー、さらには霊魂エネルギー。これらを融合させる大掛かりな術式が施された。白布にくるまれたのは女が変化した塊とそれを覆うようにくりぬかれて表面に梵字が刻まれた噴石である。霊薬がかけられて白布に覆われた。
術式の後には一つに一体化した霊珠があらわれた。梵字が刻まれた珠の表面にはとある霊獣の毛並みがごとき流紋模様が浮き上がっていた。
重苦しい静寂が訪れた。
それでも毒気は止むことなかった。人々はこの石の周囲に近寄らず、さらに神聖な結解を重ねがけした。
陰陽師は大海原によって、うず潮の流れによって霊珠を清め続けようと考えた。彼と仲間たちはうず潮がおさまる時を狙いすまして霊珠を鳴門海峡の海底深くに珠を沈めたのである。
海に沈められてしばらくは海に白い靄のような煙のようなものが立ち上り続けた。彼らは「珠の中で今なお女がうごめいている」と信じた。
人々は海岸から夜ごと日ごとに祝詞を唱え続けた。殺生珠はこうして神聖な結界は守り続けられることになった。
女を封じた伝説の霊珠、殺生珠は鳴門海峡の海底深く鎮座することになった。海面から白い靄は立ち上らなくなった。いつしか祝詞は唱えられなくなった。そして長い悠久の時を経てその記憶は忘れ去られていったのである。
人々の無意識の記憶は今日、淡路島の浄瑠璃に受け継がれている。
ビキィ
ついに珠にヒビが入った。まぶしい太陽が輝く真夏の午前中だというのに黄昏時のように空は茜色に染まった。悠久の波が岩礁に白く砕けた。
潮風は塩と共に冷ややかな瘴気を運んできた。珠の封印には小さな亀裂が入っていた……
音もなく何かが崩れていった。
海峡の底、殺生珠の奥底にうずくまる女はまどろみの中で冷たい痛みを感じていた。禍々しい闇が静かに忍び寄り彼女の内へ染み込んでいった。
悲しみと悔恨、怒りと絶望。かつて人ととして暮らし、人を愛した彼女の情念は千年の時を越えて封じられつづけてきた。
「誰か……助けて……」
声は水泡のように儚く消えた。か細い思念は誰に届くこともなかった。ただ邪気だけがその思念をとらえていた。邪気は彼女を狙っていた。彼女を繭として強烈なる怪異を生み出そうと。
しかし彼女に施された結解はあまりに強く、邪気といえども容易には結解を貫くことはかなわなかった。
しかし剣奈との闘いにより増幅された邪気の力は幾重にも重ねられた。それらは強固な結解に徐々にダメージを与えた。
そして今、ついに殺生珠にヒビを入れることがかなったのである。
ビキィ
殺生珠の側面にヒビが走った。そこから黒煙がごとき邪気が殺生珠の中に忍び込んだ。そして彼女の心の隙間を黒く染め始めた。
封印の守護の力はもはや邪気の侵入を阻む霊力を失いつつあった。邪気は彼女の意思に抗って侵略を進めた。まるでおどろおどろしい漆黒の絵具が清らかなる和紙に垂らされたようであった。彼女の魂は徐々に闇に塗りつぶされていった。
彼女は抵抗した。千年前の記憶にすがった。誰かを愛したぬくもりを思い出そうとした。しかし邪気の暗黒の力は徐々に彼女の心をむしばんでいった。
海峡の潮が荒れ狂った。台風が接近するような重苦しい空が海峡を覆った。雷が走った。波は幾重にもぶつかって島の断崖に激しく打ちつけた。海鳥たちは群れを成して逃げ惑った。まるで霊珠が禍々しい邪気に呼応するかのようだった。鳴門の自然そのものが不穏に震えていた。
海底の黄泉の扉がひとりでに開かれていくようだった。太古の魂の鼓動が響いた。
淡路島南端に伸びる大地の裂け目「中央構造線」。その深き亀裂は太古より島の生と死を分かつ境界だった。地殻の奥底の悲鳴を絶えず呑み込み続けてきた。
千年の封印を抱えて海底に鎮座していた霊珠から不穏な脈動が放たれた。珠の内奥では女の意志に反して禍々しい邪気が彼女を黒く染めていった。
雷が中央構造線の断層をなぞるように走った。閃光に淡路島南部の山々が黒々と影を連ねた。地の底から響く低いうなりが珠に残った浄なる気をかき消した。島の大気は淀んでいった。まるで大地ごと呻き哀しんでいるようだった。
いまや殺生珠の表面に蜘蛛の巣のような亀裂が広がっていった。珠を封じていた力がついに邪気の闇の力に押し負けた。亀裂から中央構造線の地熱がごとき赤黒い光が走った。どろりとした邪気の瘴気が霊珠から滲み出した。珠から漏れ出す闇の力はこの地の根幹たる中央構造線にさえ呼応して断層の奥底に眠る地霊たちすらもざわめかせた。
パキン
ついに珠は乾いた音を立てて真ん中から割れた。その瞬間、封印の霊力は霧散して消失した。珠の中に渦巻いていた忌まわしき邪気は白濁した彼女の記憶を吹き飛ばすように浸透した。
中央構造線の断層は禍々しく光り、島の南を貫く稲妻のような光の帯となって暗くなった空に浮かんだ。大気は黒く染まり、山肌の木々がざわついた。島の最南端に掠れる波も正常な音を失った。
彼女の内なる叫びは誰にも届かなかった。悲しみも、自責も、愛も、すべての感情が、黒いナニカに呑まれ、塗りつぶされていった。
かすかな意識の残滓で彼女は思った。
「私が……私で……なくなる……」
ついに殺生珠の封印が断ち切られた。海峡の水は濁り、海面には黒き靄が現れた。澱むような不気味さが鳴門海峡全体ににじわじわと広がるようだった。
大気は重く圧し掛かり空は鳴き声を失った。海は深い呪詛を唱えるような響きを宿した。
封印を失った珠から吹き出した黒き禍々しき邪気は空と陸地を這い鳴門海峡を飲み込んだ。女の姿は邪気に包まれて徐々にその輪郭を曖昧にし黒い脈動に覆われた。まるで彼女の姿は夜の闇に溶けていくようだった。
彼女の意志は深い闇の中でなおも彷徨い続けた。
「ただ……誰かに。
ただ誰かに……
もう一度愛されたかった……」
そのか細い思念もやがて闇に消えた……
鳴門海峡の海面が禍々しく泡立った。そこはもはやかつての穏やかな潮流が流れる場所ではなくなった。
海面からソレがあらわれた。
………………
◆今日の短歌
海峡の
清き潮さえ
けがれゆき
逢わむと泣く夜ぞ
世にはべりけむ
解説
海峡の清らかな潮が穢れていく。愛しいあの人に会いと泣き明かした夜に私は確かに生きていたのだろうか。在りし日の現実さえ遠い夢のように感じるようになってしまった……




