2 海の詩 幼女の漂着(短歌・解説あり)平安時代
――――――――
平安時代 1
――――――――
ザザァ、ザザァ
淡路島の南岸に波が打ち寄せていた。春の光は静かにあたりを照らし、海や浜辺を赤く染めていた。空には昨夜の嵐の名残を滲ませた雲がいまだ漂っていた。
風は潮の香りを運んだ。猛威を振るった渦潮の名残を語るように風は波の音を運んでいた。
砂浜はしっとりと濡れていた。ところどころに小さな貝殻や海藻が散らばっていた。
ピクリ
その中にひときわ異彩を放つ可憐な影があった。海岸に打ち上げられた海藻がこんもりと集まったその中に藻にまみれて幼女が倒れていた。藻にまみれた幼女は顔も全身も真っ青だった。
ピクリ
もし指のかすかな動きがなければ、その藻にまみれた幼女は死んでいると思われただろう。幼い少女は絡みついた藻の下に、波に揉まれた衣を身にまとっていた。
ブルリ
まだ冷たい潮風が幼女の身体を撫でた。幼女は本能的にぷるぷると身を震わせた。ほつれた髪に砂浜の小石が絡みついていた。嵐に会い流された藻だらけの幼女。
無残な姿だった。けれどもその小さな瞼の奥には渦潮の中で必死に生き抜いた強い意志のひかりが微かに宿っていた。
ちょうどその時である。潮の香につられて浜辺にやってきた老夫婦がいた。夫婦は長らく子に恵まれなかった。男は漁師だった。
男は赤銅色に焼けた肌をしていた。かんばせには深いしわが刻み込まれていた。もとはいくさ人だったのだろうか。盛り上がった筋肉と衣服の下に隠された多くの傷跡が謎めいた雰囲気を醸し出していた。
男は女とよりそう様に海岸近くのあばら家でひっそりと暮らしていた。この朝は昨日の嵐が過ぎ去って陽が明るく差し込んでいた。男は妻を誘って二人で浜辺にやってきたのだった。
男はなぜ浜辺に行こうと思ったのか、自分にもわからなかった。けれど「行かねばならぬ」。なぜかそんな気がしたのだ。そうして妻を誘って朝の海辺に散歩にやってきたのだった。
「まあ、たくさん海藻がありますね。ほら。このワカメも柔らかくて潮の香りがするわ」
「あぁ。ええ色だ。遠い昔、母じゃが若かったころに海藻の汁をこさえてくれたのを思い出すよ」
「それは懐かしいでしょうね。じゃあ今日はわかめやひじき、それにお魚も入れて海藻汁を作ってみましょうか?」
「それはありがたい。きっと身も心も温まるよ。少しばかりの塩を入れて味付けをしよう。懐かしい味になりそうだ」
「はいはい。そうしましょう。そうしましょう。新芽の彩りが美しいわ。きっと見栄えもよくおいしい海藻汁ができますわよ?春を感じるようなそんな海藻汁にしましょうね」
「淡路国、いやこの御食国の海はわしらへの神様の恵みだな。そなたと分かち合う一椀。楽しみなひと時が過ごせそうだ。ありがたい。ありがたい」
「今日も命をつないでくれた海に手を合わせましょうか」
男と女は嵐のもたらしてくれた海の恵みに頭を垂れ、手を合わせて感謝した。
その時である。女は少し離れた砂浜にこんもりとした海藻の塊があるのに気づいた。そして女はさらに何かに気がついた。
「おまえさま?」
「ん?どうした?」
「あそこにほら」
夫婦は海藻に埋もれた小さな影を見つけて息を呑んだ。女は思わず両手で口を覆った。
「ひっ……」
早鐘のように女の鼓動が鳴り響いた。恐る恐る女は藻のかたまりい近づいていった。蒼白な顔と手足。女は思った。
「嵐に巻き込まれて身罷かってしまったのね」
女は亡くなった幼女を弔おうと近づいた。と、藻にまみれた幼女は細い指で砂を握りしめた。女の足が砂をジャリジャリと鳴らす音に幼女は意識を取り戻したのだった。
幼女は怯えた顔を見せた。女は驚く心を押さえつけ、幼女の側にそっと膝をついた。
かすかに潮風が吹いた。女は藻にまみれた幼女の顔をやさしくのぞきこんだ。そして怖がらせないように静かに語りかけた。
「嵐にあったの?怖かったでしょう?」
幼女は小さく身をすくめた。女に目を合わせることなく小さく震えていた。
「大丈夫、もう大丈夫だから。私たちはこの島の者よ。あなたに悪いことはしないから。安心して?」
幼女は口を開かない。怯えたような目つきで女の顔を見るばかりだった。
「お名前は言える?辛らかったね。寒いでしょう?すぐに温ったまろうね。お腹も空いたでしょう?海藻汁を作るところなの。一緒に食べない?」
幼女の唇が微かに動いた。言葉にはならなかった。
女は微笑んだ。そして冷え切った幼女にそっと自分の上着をかけた。
「寒いよね。私たちのおうちにおいで?温かいお汁を食べよ?心配しなくていいよ?ここはもう怖い場所じゃないから。嵐はもう去ったわ」
幼女の瞳にわずかに安堵の色が滲んだ。女の優しく語りかける声に幼女の表情はわずかに緩んだ。
男は静かに自分の上着を脱いだ。そして藻だらけの幼女の身体を包んだ。
男はそっと藻だらけの幼女を抱き上げた。
男の身体は温かかった。冷え切った幼女の身体を温かく包んだ。
「私、生きていたんだ」
その温もりを感じて幼女の目から透明なひとしずくが零れ落ちた。
夫婦の心の底に言葉にならない思いが広がっていった。
この子を守りたい。生きてほしい。
そう願う気持ちが二人の心に静かにしかし力強く芽生えた。
「さあ帰ろう?あたたかい海藻汁が待っているよ?」
ザザァ、ザザァ
男は幼女を抱きかかえて歩き出した。女は幼女を温めるようにそっと抱き寄せ、そして男の歩く後を追いかけた。
春の陽光がやさしく二人に降り注いだ。波の音が幼女の生還を祝福するかのように打ち寄せて音を響かせた。
こうして命をつないだ幼女は淡路島の温かな過程で育てられることになった。
藻まみれの幼女、海の泡とともに海岸に打ち上げられていた幼女。
彼女は名をなくしていた。忘れたくて名乗らなかったのか、それとも嵐で記憶をなくしてしまったのか、それは幼女以外に誰にもわからなかった。
夫婦は藻にまみれてもたらされた幼女を「藻女」と名付けた。藻女は夫婦のもとで大切に育てられることになったのである。
………………
◆今日の短歌
嵐過ぎ
藻だらけになる
幼き子
抱きし胸に
ぬくもり芽生ゆ
短歌の解説:
嵐が去った翌朝、海藻取りに来た夫婦が嵐に遭難した幼女を見つけます。女は海岸に打ち上げられた幼女をみて亡くなっていると思いびっくりします。せめて弔おう。そう思って幼女の側に行きますが生きているのがわかり、女はほっとします。
女は夫とともに幼女を抱きしめました。すると女の胸に命の尊さと儚さが沸き上がりました。そして女は決意しました。
この子を守り育てようと。




