202話 梅雨入りとハンナの不調 2
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雨が降る静かな音を聞きながら、ハンナは小さくため息を溢した。
体調を崩したことで体が辛いのもあるが、なによりアッシャーやテオにまで迷惑をかけていることに不甲斐なさを感じるのだ。
幸い恵真が良心的な人柄であるため、こちらを気遣ってくれたが、そうでなければ職を失ってもおかしくはない。それが今までの雇用環境であった。
目が覚めてしまったハンナは一人、椅子に腰かけていた。。
「……お母さん」
どこか不安げな声の方へ、視線を向けるとそこにはアッシャーが立っていた。
寝室から出てきたハンナに気付き、後を追ってきたのだろうか。
「まだ起きていたの、アッシャー。テオはどうしてる?」
「ん、テオは寝たよ。なんだか、お母さんが気になって、その……」
もごもごと呟きながら下を向いているアッシャーにハンナは声をかける。
「大丈夫よ。お母さん、すぐに元気になるから。ね?」
「――うん、そうだよね」
「だからアッシャーもゆっくり休みなさい」
「うん……わかった……」
そう言うとアッシャーは背中を向け、寝室へと戻っていく。
ブランケットを頭まで被ったアッシャーは体を丸めて、目を瞑る。
ハンナの状況は一時的なものだとわかっている。それでも言葉に出来ない不安やもどかしさが、なぜか胸から消えず、なかなか眠りにつけないアッシャーであった。
*****
今日も昨日と同じように、バゲットサンド販売後、テオだけは家に帰らせた。
ぱたぱたと駆けるように喫茶エニシを出るテオの姿を見送った恵真だが、気になることがある――アッシャーだ。
テオの分まで張り切っていた昨日とは違い、今日のアッシャーにはどこか元気がない。ハンナの体調に変化があったのかと思った恵真だが、それにしてはテオの表情は明るいものであった。
なにかあったのかと聞くことで、却って話しづらくなってはいけない。そう思う恵真は、アッシャーを気にかけつつも、声をかけられずにいた。
「今日はお肉とじゃがいも、にんじんや玉ねぎを入れたクリームシチューなの。雨で寒いからお客さんも体が温まるでしょう? あとはね、じゃがいもと卵でトルティージャ、それにトマトとチーズのサラダにバゲットなんだ」
すぐ提供できるようにと喫茶エニシでは煮込み料理が多い。厨房に立つのが恵真一人ということもあるのだが、ここ数日は恵真も配膳を手伝うことになる。
そのため、いつも以上にすぐ提供できる料理にこだわった。
トルティージャはスペイン風オムレツであり、卵がなかなか値の張るマルティアでは喜ばれるだろう。雨の中、わざわざ来てくれ、そして今日は配膳にもいつもより時間がかかる。そんな客に対する恵真の小さな配慮であった。
「……きっと、お客さん喜んでくれますね」
「そうだね。まかないも同じなんだよ」
「……ありがとうございます!」
いつもなら、恵真の料理を興味津々でテオと一緒に見つめるアッシャーだが、今日はどうにも覇気がないのだ。
気がかりではあるのだが、こちらが踏み込み過ぎるとかえって逆効果になる可能性もある。喫茶エニシのドアが開き、今日初めての客が入ってくる。
恵真は笑顔で出迎え、アッシャーも客を席にへと案内するのだった。
昼を過ぎると客足が落ち着いてくるのは、恵真の世界でもマルティアでも同じことだ。雨がさぁさぁと降り続けるのもあって、店内にはアッシャーと恵真、そしてのんびりと休むクロだけである。
そろそろ、アッシャーを帰宅させようと考える恵真の耳に、遠慮がちな声が届く。
「あ、あの、エマさん……!」
「ん、なに? アッシャー君」
「え、えっとですね。エマさんがもし具合が悪いとき、家族にしてもらえたら嬉しいことってなんですか?」
「……してもらえたら嬉しいことかー……」
アッシャーの突然の問いかけに恵真はなんと答えていいか迷う。
おそらく、アッシャーは母であるハンナになにかしてあげたいという気持ちを持っているのだろう。それの答えが自分では見つからず、こうして恵真に尋ねた。
であれば、アッシャーやテオにとって難しいことではいけない。
「もちろん、エマさんには魔道具とかあるし、きっとそんなに困ったりしないとは思うんですけど……!」
アッシャーの言葉に恵真は笑って首を振る。
「そんなことないよ。具合が悪いときって大人でも不安になったりするものだし、魔道具があってもそんな気持ちはなくならないよ」
「そ、そうなんですか……」
恵真はアッシャーの近くへと行くと、少しかがんで視線を合わせる。
「たとえば、クロが一緒にいるだけで安心したりするんだ」
「クロ様が? あ! 魔獣ですし、心強いですよね」
「ううん、違う違う。一人じゃないだけで安心出来たりするんだよ。きっと、ハンナさんも同じじゃないかな。アッシャー君やテオ君がいてくれるだけで、ほっとしたりするはずだよ」
ちらりとアッシャーがソファーの上のクロに視線を移すと、その通りだと言うかのようにみゃうと一声鳴く。
恵真を見上げ、まだ心配そうな表情を浮かべるアッシャーだが、こくりと頷く。
「さ、雨が少し弱くなったから、もう上がっていいよ」
「……ありがとうございます」
ぺこりと律儀に頭を下げたアッシャーは帰り支度を始める。
きゅっと唇を結んだその表情からは、今のアッシャーの気持ちを読み取ることは難しい。小さな肩にはどんな不安があるのだろう。
そう思いつつ、恵真は「気をつけて」と言う言葉と共にアッシャーを見送るのだった。
「はぁー、そんなことがあったんすね」
昨日に続き、リアムとバートが喫茶エニシへ来てくれた。
雨が続き、客足が伸び悩む時期であること、そしてアッシャーやテオのことを気にかけてくれているのだろう。
紅茶を注ぎつつ、恵真は頷く。
「私もなんと言っていいか、悩んでしまって……。きっとアッシャー君はハンナさんに出来ることを聞きたかったんだと思うんですけど」
「でも、傍にいる者がいるだけで安心出来る――今、アッシャーとテオに出来ることですし、母であるハンナにとってもそうではないかと思います」
恵真もそう思ってアッシャーに話したのだが、もっと直接的になにかしたかったのではないかと今になって気付く。
親の体調不良、子どもは不安になるものだ。自分が風邪で寝込んだときも、不安や辛さが当然ある。しかし、親の不調を見ているだけというのも子どもにしてみれば、歯がゆいものなのだろう。
「……大人になると風邪や体調不良もこんなもんかーって慣れてくると思うんす。でも、子どもの頃は経験も少ないし、オレらが思ってる以上に不安になるもんなんすね」
「――そうだと思います。特にアッシャー君は真面目で優しい子ですから」
テオもアッシャーも気性が穏やかで優しい。そのうえで、アッシャーは責任感の強さもある。母であるハンナを気遣いつつ、なにかしてあげたいとも思うのだろう。
子どもだからと大人は考えるが、子どもであっても大事な人になにかしたいという気持ちがあって当然なのだ。
「どうすることがいいんでしょうね……」
恵真の小さな言葉は窓を打つ雨の音で消される。
まだまだ雨が降る日々は続く。暗い空が広がる日々に、少し気も滅入る恵真であった。
*****
一人、リビングに降りてきた恵真はほうじ茶を入れる。
時計はもう0時を過ぎた。この時間にカフェインを摂れば、ますます眠れなくなるだろう。そんな恵真に付き合うかのように、クロもてとてとと足元に着いてくる。
「雨、止まないねぇ」
「んみゃうにゃ」
恵真の何気ない呟きに、賛同するかのようにクロが鳴く。それがなんとも心強く感じられて、恵真はくすりと笑う。
不安になったとき、心細いとき、誰かの温もりや優しさで元気を貰ったり、励まされたりするものなのだ。
今日、恵真がアッシャーに言ったことも彼女の本心だ。
母であるハンナはアッシャーとテオがいて、なにか手伝ってくれるだけで十分助けて貰えていると感じるだろう。むしろ、早く兄弟を帰すことでハンナが気に病んでいないか、恵真は気がかりであった。
「でも、しょぼんとしたテオ君を働かせるわけにはいかないよねぇ」
「みゃうー」
ほうじ茶はアッシャーとテオが働くようになってから、恵真もよく飲むようになった。ほうじ茶や麦茶、カフェインのないほうが兄弟の体にはいいだろうとの考えからだ。
降り続く雨の音と、自分とクロの会話だけの静かなリビング。恵真はふと、自分の幼い頃を思い出す。
「そういえば、私もアッシャー君とおんなじ気持ちになったことがあるかも……」
「んみゃ?」
一口ほうじ茶を飲んだ恵真はこちらを見るクロに頷いて、幼い頃の話を始める。
「お母さんが風邪を引いちゃってね、お兄ちゃんが水を汲んできたり、お父さんはおかゆを作ったりして。で、私もなにかしたい! って思ったんだけど皆が『恵真はまだ小さいからいいよ』そう言うの」
「みゃうみゃ!」
「そう、私もなにかお母さんや皆のためにしたくって……。きっとアッシャー君もおんなじ気持ちだったんだろうな」
あのときの恵真と同じようにアッシャーは母であるハンナのために、なにかをしたいのだろう。そして、幼い日の自分より、アッシャーもテオも様々なことが出来るはずだと恵真には思えるのだ。
「よし、探そう。アッシャー君とテオ君がハンナさんのために出来ること!」
「んにゃうっ!」
それがいいと言うかのようにクロが鳴く。
もう一度、こくりとほうじ茶を恵真は口にする。
不思議と香りが先程よりも強く感じられ、体が温まっていく気がして、単純な自分に恵真は笑ってしまうのだった。
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