201話 梅雨入りとハンナの不調
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初夏の日差しの強さにも慣れた頃、今度は梅雨入りし、蒸し暑い日々が始まる。
五月の暑さとはまた違う、じめじめとした肌にまとわりつくような湿度の高さを苦手とする人も多いことだろう。
しかし、そんな梅雨も植物にとっては恵みの雨である。
畑に、恵真は新たに苗を植えた。夏野菜を中心に先日、祖母の瑠璃子と共に購入したのだ。
「まぁ、雨だとお客さんはあんまり期待できないんだけどね」
「みゃうにゃ」
恵真の住む世界でも雨となると客商売は客足が伸び悩む。雨の日は気持ちの上でも外出が億劫になりがちである。
ましてマルティアの道路は舗装されてはいない。雨で地面がぬかるめば、靴は汚れ、服にも泥跳ねするだろう。
「こんな日もあって仕方ないか。さ、バゲットサンドを作らなきゃ」
「んみゃ!」
落ち込みそうになる自分自身を励ますような恵真の言葉に、クロが返事をしてくれる。なんと言っているかは恵真にはわからないが、おそらく賛同してくれているのだろう。
小さなクロの頭を撫でて、恵真はキッチンへと向かうのだった。
*****
「アッシャー君とテオ君、遅いね」
「みゃうん」
バゲットサンドを作りながら、恵真は時計と裏庭のドアを交互に見る。
アッシャーとテオが喫茶エニシの開店時間が近くなってもまだ来ない。これは今までになかったことである。
先程、ナタリアが冒険者ギルド用のバゲットサンドを持って行ったのだが、アッシャー達は見かけなかったと言う。兄弟が事故にでも巻き込まれたのではないかと、恵真は気が気でない思いなのだ。
そのとき、裏庭のドアが開き、アッシャーとテオが駆け込んでくる。
「すみません! 遅れてしまいました!」
「良かった……! なにか怪我でもしたのかと心配してたの」
しかし、声をかけてもアッシャーとテオの表情は暗い。
時間に遅れたことを気にしているのかと恵真が思ったとき、テオが不安げな表情で彼女に話しかける。
「あのね、お母さんが具合悪いんだって」
「ハンナさんが? そうなの、アッシャー君」
恵真が問いかけるとアッシャーも静かに頷く。
元々、体調を崩していたハンナだが、アッシャーとテオが喫茶エニシで働き始めたこと、そして恵真の食事によって、心身の健康は改善していった。
最近ではゲイルのスープを広めようと、街の人々とも交流を持っていたのだ。
「はい。本人は疲れから熱が出てるだけだって言うんですけど、心配で……」
「そうなのね……」
先日、恵真は薬草の新たな効果を冒険者ギルドと薬師ギルドと共有した。
食材の組み合わせで薬草の効果が高まるのではという希望が生まれたのだ。
しかし、まだ参考程度の状況である。なにより、自然治癒で回復できる場合には薬草を使う必要はない。
疲れから出た体調不良を治す一番の方法は体や心を休めることなのだ。
「今すぐ、準備をしますんで……! ほら、テオも!」
「……うん」
アッシャーに促されるテオだが、ハンナのことが気がかりなのだろう。しょんぼりと肩を落としている。
「じゃあ、まずはバゲットサンドの販売からだね」
「はい! すぐに行きます!」
遅れた分を挽回しようと意気込むアッシャー、こくりと頷いたテオも自分のスカーフを首にきゅっと結ぶ。
だが、次に恵真が口にした言葉に兄弟は目を丸くする。
「で、それが終わったらテオ君は帰ってもいいよ」
「はい! ……へ? エマさん?」
アッシャーは驚き、恵真を見上げる。その隣でテオは不安げに首を傾げた。
「……ぼく達、遅れてきたからエマさん怒ってるの?」
テオの言葉にアッシャーもハッとするが、今度は恵真が驚く番だ。
「違う、違う! ほら、お母さん一人だと心配だろうし、テオ君はその様子だと今日はお仕事するの難しいんじゃないかな? バゲットサンドの販売は私には出来ないから、それをしてくれれば家に戻ってもいいよってこと」
「……でも、エマさんとお兄ちゃんが困らない?」
眉毛を下げて尋ねるテオだが、母であるハンナと一緒にいたいのだろう。もじもじと指を動かしながら、恵真と兄のアッシャーを交互に見る。
「エマさん、本当に良いんですか?」
「うん。きっと、ハンナさんも休めば体調は良くなるだろうし。その期間だけ、テオ君はバゲットサンドの販売だけでも大丈夫だよ」
「……ありがとうございます! そのぶんも俺が頑張ります!」
「ふふ、ありがとう」
黒髪黒目である恵真は、裏庭のドアの防衛魔法と魔獣であるクロに守られている。そのため、バゲットサンドの販売には兄弟の協力が必須なのだ。
しかし、それ以外のことは恵真が行える。ちょうど梅雨入りしたこともあり、ここ数日間は客足が伸びないだろう。
であれば、恵真とアッシャーの二人でも喫茶エニシの営業はなんとかなると恵真は考えたのだ。
「エマさん、ありがとう。ごめんね?」
「いいえ。ハンナさんにも事情を伝えてね」
「よし! テオ、バゲットサンドの販売をするぞ!」
「うん! わかった!」
いつも以上に張り切った様子のアッシャーとテオは、カゴを持って駆けるように喫茶エニシの店頭へと向かう。
「風邪引いちゃダメだから、濡れないように傘を持ってね? 寒かったらお店の中でもいいんだよ?」
「エマさんったら、大丈夫だよ」
そう言うテオの表情には笑みが浮かぶ。ハンナの元に帰れることにほっとしたのだろう。先程までの暗い顔ではなく、いつものテオである。
恵真もまた、その様子に少し安堵し、口元を緩めるのだった。
*****
「なるほど、それで今日はテオがいないのですね。ですが、アッシャーもおりませんが……」
「昼を過ぎた頃に、帰宅してもらいました。張り切ってくれてるんで、疲れちゃわないかって却って心配で……」
「はぁー、トーノ様らしいっすね」
夕方近くに喫茶エニシにはリアムとバートが訪れた。
幸い、と言っていいのか、雨のせいもあり、客足はさほど伸びることはなく、恵真一人でも十分に接客がこなせた。喫茶エニシが煮込み料理のプレートと紅茶など、定番のものしか置いてないことも理由の一つだ。
「ハンナの体調は数日で改善するでしょうが……その間もこのような形で続けられるのですか? 一時的にギルドから誰かを雇うことも可能ですが」
リアムの言葉に少し考えた恵真は首を振る。
「そうすると、二人が戻りにくくなるような気がして……。なにより、数日くらい私がなんとかしないと! 喫茶エニシの店主ですから」
恵真の言うとおり、ギルドから誰かを雇ったときに、アッシャーとテオが不安を抱く可能性もあり得る。数日間を恵真が乗り切れると言うのなら、そちらのほうが良いのだろう。
それだけ、恵真が兄弟を必要としてくれるのはリアム達からしてもありがたいことである。
恵真はというと、煮込み料理やすぐ出せる冷製料理など考えているようで、一人呟きながら、なにやら紙に書き出している。
熱心な恵真にリアムとバートは顔を見合わせ、笑う。雨の音を聞きながら、二人は静かに紅茶を楽しむのだった。
*****
暗い窓の外からは、しとしとと雨の降る音が聞こえる。
夕食後に温かい緑茶を飲みながら、恵真の話を聞いていた祖母の瑠璃子はかすかに口元に笑みを浮かべる。
「それはきっと安心したからもあるんじゃないかしら?」
「……安心?」
体調を崩したというハンナ、それと安心という言葉が恵真にとっては意外でお茶を飲む手を止め、祖母の次の言葉を待つ。
恵真の戸惑いは瑠璃子にも伝わったらしく、ふっと笑う。
「疲れって大変な時に出るとは限らないものよ」
器に入った小さな菓子を恵真に差し出しながら、瑠璃子は言葉を続ける。
「大変なときって自分自身に気を向ける余裕がなくって、辛くても疲れていても頑張らなくっちゃいけないでしょう? アッシャー君とテオ君も元気に過ごせて、ハンナさん自身が出来ることも増えた――そんな安心したときだから、疲れも出ちゃうのよ」
「たしかにゲイルさんのスープを広めるために、ハンナさん頑張ってるってアッシャー君が話してくれた……」
恵真の言葉に瑠璃子は頷き、緑茶を口にする。
ゲイルのスープを広げたいあまり、張り切ったハンナは少し無理もしたのだろう。亡夫の料理が人々に伝わり、喜ばれるのだからそれも無理のない話である。
「ハンナさんは疲れが出たなら、少し休めばいいのよ。その間は恵真ちゃんも頑張れるでしょう?」
「すぐ配膳できるように、煮込み料理や冷菜とかを考えてるの。今はちょうど梅雨だし、お客さんもそんなに多くはないしね。アッシャー君も昼過ぎまではいてくれるから大丈夫!」
そんな二人の方に、てとてとと近付いてきたクロが恵真を見上げ、みゃうと鳴く。
二人がお茶や菓子を食べる姿を見たため、なにか催促しているのだろう。クロを抱き上げた恵真はその柔らかな毛を撫でる。
「ふふ、猫の手を借りられたらいいのにね」
「んにゃ!」
「あら、クロは貸す気があるみたいよ?」
「んみゃう!」
「わ、頼もしいなぁ」
実際にクロがいることは、マルティアにおいては恵真達を守ることには繋がっているらしい。
頼もしい小さな家族に、恵真は何を出そうかと考えるのだった。
日差しの強い5月から湿度の高い6月に。
衣替えの季節ですね。
気候の変化は体調にも影響します。
ご自愛くださいね。




