三章 蝕まれし黒き根17話
「冬華!!」
張り裂けるような声と何かを打ち砕くような豪音が鼓膜を刺激して、冬華は勢いよく目を見開いた。頬に伝わる風にくすぐられ意識がはっきりしてくれば、ぼやけていた視界が徐々に回復していき淡く光る青が映り込んでくる。
冬華は青いヴェールかと思ったが、それはもう頭にはかかっていなかった。
青い正体は柱だ。
連なる柱が映り込んだ瞬間、現実から帰ってこれたことを冬華は理解する。
紫水晶がある場所から少し離された場所に移動されており、崩れた壁画下、黒い根が覆われている道に冬華は仰向けに倒れていた。
状況を確認するため小さく上下に首を動かすと、冬華の眼前には苦悶表情を滲ませ、手を合わせて祈るような姿でシュインが傍にいる。顔を横に向けると出入口には分厚く頑丈そうな氷壁が立っており、そこから激しい音が響いていた。
(今は、何が起きてるの?)
反響音を気にしつつ、冬華は口を開こうとするが呼吸に失敗してしまう。堰を切ったように咳き込み涙目になりながら反射的に上半身が起き上がる。片手で支えようとした体は、しなやかな腕により助けられ背中を優しく撫でてくれていた。
「――……ごほっごほっ、シュ、イン?」
「喋らないで、ゆっくりでいいから」
息を吸って吐くを繰り返している内に落ち着いてくる。胸のつかえがなくなり安堵する冬華だったが、シュインの眉はつり上がり表情は険しいままだ。怒りを隠せない様子で体を震わせている。
「どうしてあんな無茶をしたんだ……」
シュインは冬華の両肩を感情のままに掴んできた。細く、長い指が冬華の二の腕に痕が残るくらいに強い力だ。
冬華は振り払うことはせず、真っすぐシュインを見つめた。
「私は、知らな過ぎたんだよ。見ないふりはもうできない」
「だからって、していいことと悪いことがある。剣の力が作用していなければ君は死んでいた!」
「悪いことをしたと言うならそれはお互いさまでしょ。シュインがやり遂げなくちゃいけないことがあるように、私にだってあるよ。それに、あのヴェールについて貴方は知っている様子でいたよね。私の身に何が起きていたかも含めて、全部教えてほしい」
静かな声で冬華は体を乗り出しシュインをキッと睨む。
シュインは躊躇いがちに曲げていた口を真っすぐにして、肩を竦めて小さく息をついている。
「……ヴェールは、君が青き剣に影響されている証拠、なんです。傷の治りが良くなっていたり、誰かの過去を覗くことが出来たりってこと、身に覚えがあるんじゃないかな。赤は未来を見通し、青は過去を紐解く。剣はそれを促し、より紋章樹に力を送りえる器に変質する代物なんだ」
冬華は無言で首を縦に振る。
「花嫁や花婿の役割ってことなんだね。貴方がそんなに詳しいのも……」
「僕が守護者、栞の力を持っているから。ただ、力を手にした者は知識を口外することを禁じられる」
「誰にも?」
「いや、栞を所有してる者なら。今、誰が所持しているか分からないけど」
シュインの表情は芳しくはない。栞を持っていたとしても守護者たちと情報共有はできないような口ぶりに冬華は視線を下に向ける。
「どうして渚さんが栞を持っていたの?」
「――葵渚がこの世界に迷い込んだ時、守護者アジュールの青い栞を間違ってバラバラにしてしまった。一度は栞を元に戻すことに成功したけど、それがこの忌まわしい出来事の始まりだよ。栞の力は僕たちに運悪く継承されたんだ」
「知識を悪用されないためなのかもしれないけど、だからって」
「話せば周りの人間に被害が及ぶ。強すぎる力には代償や制約がつきものだから。まして、願いごとを叶えてくれるなんて歌い文句は特にね。あの男はそれを利用したんだ」
冬華の脳裏に燃えゆく景色が過ぎる。
シュインの過去に関係があることだと察して冬華は目を細めた。
「あの男って、如月先生のことだよね」
「そうだよ。奴が栞や儀式関連を狙って動いていたことは知っていた。僕は、それを阻止したかったんだ」
「先生も、栞の力を持っているってことなの?」
冬華の言葉にシュインは難し気に頭を傾げている。
「利用した、とは言ったけど関係しているかは断言できない。能力が栞の力なのか……」
「そう、なんだね」
冷たい空気がより深まる。
小さく頷くシュインの顔はより一層青白さを増していた。言葉は途切れ壁を鳴らす音だけが響いてくれば、諦めたような笑みを冬華に向けている。
「冬華は、僕の過去を視たんだよね」
「うん。勝手に貴方の過去を視てしまったこと、本当にごめんなさい」
「冬華が僕のどの過去を視たかは分からない。けど、それはもう仕方がないことだよ」
シュインの表情は暗いままだ。栞による力は神が心を砕いて別れたもの、花嫁、花婿同様の簡単に扱える代物ではないのは明白だ。
(そもそもなんでシュインは独りでやろうとしているんだろ。さっき、僕たちに栞の力が継承されたって言っていたけど、カインにも引き継がれたってことだよね)
過去で見たシュインはカインを守りたいと決意し、誰かの幸福を願う慈しむ心から来るものだ。しかし、それはシュインの身を蝕む原因を生み、犠牲をはらっているに等しい。
(そこに理由があるなら、剣の力が私に視せた過去は必要なことだった?)
記憶を紐解き冬華は思考する。
幾つもの言葉を並べていき、答えを導き探し出す。
『カイン。僕がおかしなものからお前を守るからね』
『……ふふっ、本当に君らしいですね。幸せにしてあげるんですよ。レイン』
『僕なんかがいつも生き残ってて。冬華を守ると誓った彼が、一番幸せにならなくちゃいけなかったんだ』
(幸せ?)
冬華はその疑問に向き合うべく顎に手を乗せた。
「ねえ、シュインは幸せに繋がらない、人の行く末が恐いの?」
「――いきなり、何を言って……」
冬華の突発的に出て言葉にシュインはたじろいでいる。
相手がここまで動揺を露にするとは思わず、冬華は目を瞬かせた。頭の片隅にあった謎が確信へと変わる。
「変化することで悪い方向に進むって考えてる。だからシュイン自身が率先して前に出ているんだ。何かを失うのが恐くて、必死に自分を守ろうとしている」
「それは、冬華の、言う通りだ。僕は、大切な人たちが苦しむくらいなら、自分のことなんてどうなってもいいと思ってる。変わるくらいなら……」
シュインは両目をぎゅっと瞑り、苦し気に俯いている。
低い声色で話すシュインに冬華は複雑な気持ちで服の裾を掴む。
穏やかな彼はここにはいない。
シュインの印象は最初の頃より変わってしまった。いや、初めから隠していたのだ。心を誰にも悟られないように使い分けながら。
だが、シュインの心は今は剥き出しの状態だ。隠せるほどの余裕は消え失せている。
(心が、行ったり来たりで迷子になっているんだね)
冬華は意を決してシュインの両肩に手を添え小さく笑む。
「シュイン、人は変化を止めれない。けど、少しずつ心を受け入れることはできるよ」
「心を、受けいれる?」
「うん。変わっていくことの怖さ、難しさ、全てが初めてのことばかりで足が竦んじゃうよ。今までの私だったら突っぱねるだけで終わってた。見えているものだけを信じて、分かったふりをしてたと思う。でも、それも私の気持ちだったから、否定はできない」
困惑した表情でシュインは弱々しく冬華を見つめている。
青い瞳の中には冬華が映っていた。どこか清々しささえ覚える表情は不安や迷いが薄れている。
「過去や今までの自分を受け入れながら、私は変化し続けるよ」
短くなった冬華の茶髪が緩く流れた。
「それが、ただ苦しいものだとしてもかい? その選択が間違いでもいいの? このままじゃ手遅れになってしまうよ」
「シュイン。この状況で行けばそれこそ手遅れになる可能性が高くなる。ホープさんが赤き剣の花婿だったこともだけど、事態は極めて良くないよ」
「……彼が、赤き剣の花婿? それは、本当な――」
シュインの声は氷が割れる破壊音とぶちぶち切れる音ともに掻き消えた。
氷の一部は周囲に拡散して、同時に水の噴射と移動用四輪車とが飛び出してくる。それに続き走り込んでくる人影が見えた。
カインと運び屋だ。水に濡れた体を払いながら現れると、警戒しながら周囲に目を配らせ構えている。
「たくっ、厄介な壁だったぜまったくよ。ん、あれはお嬢さんと――」
「兄貴!」
「おい、やたらめったら出るんじゃねぇ!」
前に出ようとするカインに運び屋は大柄な体で制止をしながら両腕を大きく振っていた。
「まだお嬢さんとの契約は終わってないぜ! 俺が役に立てることはあるか?」
「向こうに人がいます。彼らだけでも、お願いします!」
返事の代わりに運び屋は行動で示し走り出している。移動用四輪車を引きずりホープと水晶がある場所に向かっていた。
運び屋の方に視線を向けているシュインは血の気が引いたような顔で立ち上がって右腕を真っすぐ伸ばしていた。
「――っ駄目だ!」
シュインの糸が鋭く飛ぶ。
が、正面にいたカインがすぐさま反応してダーツのような武器で糸を弾いていた。
「兄貴、もうこんなこと止めてくれ」
一定の距離を保ちながらカインは緊張した面持ちでシュインの元へ歩み寄っていた。
慎重に進んでいるカインに疑問を持った冬華は周囲をよく見てみる。そこには透明な糸が壁や柱に張り巡らされていた。出入り口付近にも張られた形跡があるが、先程の衝撃によって切れている。
(私の意識がない間に罠を張っていたのね)
重たい空気が流れる中、冬華も立ち上がろうとしたが濡れた地面にできた氷が足を捕らえていて動くことが出来ない。
「冬華はそこにいて! そこをどくんだ、カイン!」
「いや、どかない! 冬華のことが見えないのか! 今の兄貴は冷静じゃない!」
カインの叫びにシュインはハッとして眉間に皺を寄せ構えていた右手が僅かに揺れている。
「心の色を、読んだのかい?」
「そうじゃない。相手の色なんざ見たって今は意味がない。人の心は単純じゃないし変わっていく。俺はそんな現実を見たくなくて目を晒してきた。他人の感情や身近にいる大切な人のことも見ようとしていなかった大馬鹿野郎だ」
カインは強い眼差しを帯びた表情で静かに首を横に振りながら、右手に青い光りの粒子を纏わせ片手剣を形成していく。すらりと伸びた紺碧色の刀身は緩やかな円を描きながら左手に収まっていた。
「俺たちさ、あんま喧嘩とかしたことなかったよな。お互いにぶつかって本音言い合う何てことなかった。だから、俺のやり方で今ある気持ちを兄貴に伝える。全力を込めて」
「それが、どういう意味を持っているのか分かって言っているの?」
「ああ、俺は止めるよ。お兄ちゃん……」
カインとシュインの間には氷の結晶が煌き、辺りに漂い始めていた。
冬華がシュインの様子を窺うと彼の瞳からは色が消えている。右手にはカインが手にしている片手剣に似た物が握られていた。
「――……そう、なら僕も本気を出させてもらうよ」




