一章 青き剣の花嫁13話
最初に視界に入ったのは、天蓋付きベッドの天井だった。
窓からこぼれる光に目を細め、冬華は腕を顔に当てて遮る。
視線を逸らせば乳白色のレースカーテンが小さく揺れていた。扉が開いているのか、風が冬華の肌に心地よく当たっている。
柔らかなベッドに身を預け、規則正しい状態で寝ていた冬華は目を擦り、はっきりしない頭を無理矢理動かし思い出す。
(私、図書館から抜け出してきたんだ)
薄紫色の図書館で起きた出来事が脳裏に過ぎる。夢から覚めて現実へと帰ってきたのだ。
夢から覚めた喜びよりも冬華は今の現状が気になった。
体から浴びる熱を確認しながら気だるげに首を横に向ける。今は昼過ぎなのだろうか、日差しが強くカーテン越しからでも眩しい。
照りつける窓際には軍服を着たニクロムが小さいナイフを手に持ち果物と格闘していた。
丸テーブルと椅子を用意し、座りながら黙々と青くて分厚い皮を丁寧に剥がしていく。
テーブルの上にある皿には蜜の詰まった黄色の果実が幾つも盛られている。果物の香りのせいか、甘酸っぱい香りが部屋を満たして漂っていた。
集中している彼に声をかけようか迷ったが、冬華は小さく戸惑いがちに呼びかける。
「ニクロム」
冬華の声を聞いたニクロムは手を止めた。
ゆっくりと傾いていた頭を上げて、目を瞬かせながら顔をクシャクシャに歪ませている。
「……冬華さん?」
ニクロムはナイフと実を台に置いてベッドまで駆け寄って来た。
「冬華さん! やっと起きてくれた!」
眉を八の字にさせ、瞳を潤ませながらニクロムは膝をついている。
冬華は上半身だけを起こし彼の顔を覗き込んだ。
「どうしてここに……」
「館に戻ってきたんです。冬華さん、二日間眠り続けてたんですよ」
「戻ってきたって、イグネス局長の話はどうなったの?」
「それがですね、日を改めることになってしまいまして。ミカエルが貴女を抱えてた時は心の臓が飛び出るところでしたけどね」
ニクロムが首を両手で押さえて苦々しい顔をしている。
何とも言えない顔で冬華は彼を眺めてから、自分が身に着けている服をまじまじと見た。
あの時着用していた生乾きの服とは違う服を着ている。触りごごちが良い紅茶色の前開きパジャマに着替えられていた。
「この服は?」
「あー、着替えは女性管理局員さんに手伝ってもらいました。すみません、勝手なことして。ほら、ここにちゃんと証拠もあります」
ニクロムから薄い半紙を手渡される。
証拠と言われても冬華は文字が読めない。だが、数字らしき文字が書かれていることから察するに領収書の類だろう。
だが、なぜ領収書のようなものがここにあるのかが分からなかった。管理局員なら普通に頼めるのではと冬華は眉を顰める。
「あ、もしかして疑ってます?」
「う、疑ってないよ。気にしてないし、ありがとう色々してくれて」
ニクロムが口を尖らせ、ふくれっ面で腕を組んでいる。
冬華が苦笑いで口元を引きつらせていると、扉を二回叩く音が聞こえてきた。
「ニクロム。新しい水、入れかえてきましたよ」
そう言いながら声の主が入室してくる。
冬華は相手の顔を見て額に汗を流した。
細目金髪男性が佇んでいたからだ。
彼は軍服は着ておらず、縦線が入った茶色のタートルネックに黒いズボンと革靴とラフな格好だった。片手には瑠璃色の硝子製水瓶を持ち、首を傾げている。
「ありがとうございますハリス。そういえば彼の自己紹介がまだでしたね。ほら、挨拶してください!」
「……」
急かすニクロムを無視し、金髪の彼、ハリスは無言で冬華を見つめていた。
何かを確認し、腹の中を探っているような視線に冬華は耐え切れず自分から名乗り出る。
「あ、あの時謝れなくてごめんなさい。私の名前は冬華です。お名前、聞いてもいいですか?」
初めて会う相手ではなかったが、今まで散々な出会いかたをしていることもあり冬華はハリスに謝罪した。
ハリスは小さく鼻で笑い、冬華の元まで歩いて来る。水瓶をニクロムに手渡し、腰に手を当てていた。
「……あの時って、何時のことですか?」
「!?」
冬華はぶつかった時のことを謝ったつもりだったが、彼は浴室で会ったことも含めて言っているようだ。
みるみる内に顔を赤くしていく冬華を眺めて、ハリスは意地悪気にニヤリとしている。
「ああ、名前でしたね。俺の名前はハリスです。これからは貴女の護衛として務めますのでよろしくお願いします」
「ハリス、そんなつっけんどんに言わなくてもいいじゃないですか」
「うるさいですね。蹴り飛ばしますよ」
乱暴な言葉に衝撃を受けたのか、ニクロムは「ひどいです」と小さく呟き丸くなっている。
爽やかな顔で暴言を言い放つハリスを見て、冬華は口を半開きにさせた。最初に会った時と今とで印象がガタガタに崩れ落ちる音が脳内で響き渡る。
「俺はやることがあるんで行きます。用がある時は呼んで下さい。それでは……」
ハリスは悪びれる様子もなく、後ろを向き退室していく。
ピシャリと扉の閉まる音とともに、ニクロムが水瓶をベッド側の台に置き乾いた笑い声を発していた。
「あはは、冬華さん。彼、いつもはあんな機嫌悪くないんですよ」
「そう、なんだ。びっくりはしたけど、たいしたことないよ」
お互い微妙な顔を向けて同時に項垂れる。
「起きたばかりだったのに申し訳ありません」
「いや、ニクロムが何で謝ってるの、むしろ私の方が……」
出かかった言葉を飲み込んだ。
謝罪しなければいけないのはむしろ自分の方なのだと、冬華は唇を噛み締める。
「私、あの時逃げ出したりして、ごめんなさい」
冬華は頭を深々と下げ、両手を合わせて目蓋を思いっきり瞑った。
ニクロムの顔は見えないが身動きする音と指の弾きが聞こえる。すると、冬華の膝上に白い本が落ちてきた。
「これ、待合室に忘れていたので持ってきましたよ」
頭を上げてニクロムに視線を移す。
彼は窓際に置いてあった丸椅子をベッド側に持って来て、姿勢を低めてから座っている。優しい顔つきは消え、真剣な面持ちで話し出す。
「冬華さんが逃げ出したことに対して非はありません。死ぬかもしれないと分かれば誰だって取り乱します。それが、普通の反応です。だから、そんなに自分を責めてはいけません」
冬華は白い本を両手で持ち握りしめる。そして、喉から声を出そうと搾り出した。
「私、イグネス局長に偉そうなこと言ったのに。自分が死ぬって分かったら怖くなっちゃって、足がどうしようもなく震えてた。でも、代わりに死んじゃった子だってきっと怖かった筈なのに……」
ニクロムは視線を逸らさず聞いている。
瞬きすら忘れ、凝視した瞳は濁りなく純粋に冬華をとらえていた。
「優しいですね。ですが、他人を気にする余裕は今の貴女にはないと思いますよ」
冷静な態度と口ぶりが何時ものニクロムと違い、冬華は目を大きくさせ驚く。
「な、他人って、死んじゃった子の仲間だったんでしょ? どうしてそんな言い方するの?」
「ええ、仲間でした。私の一番身近にいた子でしたよ。とても悲しいことでしたし嘆きもしました。だからこそ、貴女は生きなくてはいけないのです」
「ニクロム……」
ニクロムは表情を殺していたが声だけは少し掠れていた。
そんな彼にどうこう言う資格が、冬華にはない。
「冬華さん、選択して下さい。本当のことを知ったうえで帰りたいですか? それとも、そらしたまま逃げ出したいですか?」
その問いに冬華は目を伏せ頷く。
選択する答えはもう決まっている。身を乗り出し、ニクロムを見据えた。
「確かに私は逃げちゃったけど、知りたいんだ。知ったうえで帰りたい。それは嘘じゃない」
ひた向きな瞳で必死に言葉を伝えると、ニクロムは柔らかく微笑んでいた。
「……そうですか。それが聞けて安心しました」
部屋全体に流れていた緊迫な空気は薄れていく。
そして、真剣な眼差しでニクロムは右手を差し出していた。
「冬華さんがどんな選択をしたとしても私はついていきます。だから、帰りましょう。貴女が、望んだ世界へ」
彼は冬華を信じようとしてくれている。言葉の節々に感じられる強い意志を感じさせ、冬華は拳を握り締めた。
(卑屈になって否定するのは、もう止めだ)
冬華はニクロムの手を取り、力強く握った。




