第八十話 君は――お前は、何時も逃げる。
一瞬、エディは何を言われているのか分からなかった。『クレアを頂戴』と、まるで物の様にクレア・レークスをあつかうこの幼馴染の――何時にない、この幼馴染の言葉に戦慄を覚えたから。
「……すまない。よく聞こえなかった。エドガー、今、君はなんと言った?」
「若いのに耳が遠くなったの、エディ? クレア・レークスという天使をスモロア王国に頂戴って……そう言ったんだよ?」
聞き間違いでは無かった。その事実にエディは胸の中の空気をゆっくりと吐き出して椅子に深く腰掛ける。
「……クレアは物ではない」
「そんな事は分かっているよ。僕が言いたいのはそういう事じゃない。無論、人攫いの様に連れて帰ってしまおうだなんて思ってもいないさ。彼女が自分の意思で、自分の想いで僕の側に居てくれるようにするだけだよ?」
「……はい、そうですかという訳には行かないな。クレア・レークスはラージナル王国の男爵位を持つれっきとした貴族だぞ?」
「まさか、王命でダメとか言うつもり? ナンセンスだし、それってエディが無理矢理クレアを縛っているって事じゃないかな?」
エディと同様、ゆっくりと腰を深く椅子に沈めるエドガー。
「……そもそもさ? エディ、クレアを守り切れるの? さっきも言ったけど、メルウェーズ家を敵に回してこの国で生きていくのは難しいんじゃない? それに、クレアはとても素晴らしいレディだけど……ラージナル王国の王妃はちょっと荷が重いんじゃないかな?」
「どこの国の王妃だって荷が重いだろう。クラウディアは五歳の頃から王妃教育を受けているんだ。この国一番の大貴族であり、他の貴族よりも素養があるメルウェーズ家の姫が、王城で最高の教育を受けて作り上げられたその『作品』に……クレアが及ぶとは思えない」
もっとも、そんな事で彼女の価値は落ちないがと付け加えて、もう一度ため息。
「スモロア王国の王妃だって難しいだろう?」
「まあね。でもさ? よく考えてよ? クレアがこのまま君の所に嫁いだらどうなると思う? メルウェーズ家は大きな家だ。クレアがどんなイヤガラセを受けるか、分からない君じゃないよね?」
「それは……」
「エディ、君はクレアを王妃として迎えて守ってあげられる? 彼女の望む生活を送らせてあげる事が出来る? どんな強大な敵からも、命懸けで守ってあげられるの?」
「……」
言い淀み、黙って下を向く。そのままの姿勢で、エディはポツリと。
「…………王位は、兄上に継いで貰おうと思っている」
瞬間。
「――ふざけてるの、エディ?」
ついぞ見た事の無いほどの形相で、エドガーはエディの胸倉を掴み上げる。慌てた様子でそれを止めようとした専属侍女のティアナを手で制し、エディは口を開く。
「ふざけてなどいない。現実的に、私がこのまま王位を継ぐのは不可能だ。この国の『王妃』はメルウェーズ家の子女で無ければならない。そのメルウェーズ家の子女を――クラウディアを一方的に、公衆の面前で恥を掻かせたんだ。私がこの国の王になる目は無いさ」
「……」
「……そうすればクレアは『王妃』ではない。私だって王子だ。まあ、『婚約破棄』なんて事をした以上、公爵や侯爵は無理だろうが……それでも伯爵位くらいは頂けるだろう。クレアは田舎育ちで社交界には縁が無かったと聞いているし、二人で隠遁生活でも良いかもしれない」
言い切り、じっとエドガーの目を見つめて。
「その生活は……クレアにとっては幸せな生活ではないか? どう思う、エドガー?」
エディの言葉に、ゆっくりとエドガーはエディの胸倉から手を離すと、呆れた様に肩を竦めて見せる。
「それで? 君はルディにぜーんぶ丸投げして自分だけ幸せな生活を送るっていうつもり? 流石にそれはルディに申し訳ないとは思わないの?」
「……クリスにも同じことを言われたさ。でもな、エドガー? お前だって知っているだろう、兄上の優秀さは! 国家の事を考えた場合、兄上が王位を継ぐのが一番良いのは分かるだろう!!」
「……まあね。その言葉自体は別に間違ってないよ。間違ってないけど」
本当に、ムカツク、と。
「良いね、エディは。優秀な兄上が助けてくれて」
「……それはお前もだろう?」
「いいや。僕は違うさ。ううん、クリスに助けては貰っているけど、結局のところ我が国は『女王』を認めていない。だからまあ、どんなに僕が泣いても拗ねても、王位を継ぐほか無いんだよね。まあ、どっかの分家に継いで貰う方法もあるだろうけど……クリスが許さないだろうしね、そんな事」
「……」
「エディ、君は僕とよく似ている。双子で、どちらも自分以外が優秀で――でも、僕と君で徹底的に違う所は」
君は何時だって『逃げる』事が出来る。
「君のは――お前のはただの『逃げ』だよ。難しい事、困難な事から全部逃げて……優秀なお兄ちゃんに助けて貰うんでしょう? いいね、羨ましいよ。変われるものなら変わりたいね。優秀な片割れに全部丸投げ出来るんだったら……僕だってそうしたいよ」
「……」
「クラウディアの事だってそうでしょ? 色々言ってたけど、結局クラウディアから逃げただけじゃないか。そんな気持ちでクレアが欲しいなんて」
僕は、認めない、と。
「……お前に認めて貰う必要はない」
「うん、そう思う。だから僕もさっきの言葉を取り消すよ。クレアを頂戴って言ったけど……アレは無し」
にっこりと微笑んで。
「絶対に、クレアを奪って見せるさ。お前の意思なんて、お前の許しなんて必要がないくらい――完膚無きまでに君を叩きのめしてね?」




