第百七十二話 逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃ――嘘!! 逃げなきゃダメだ!
モーセの海割りよろしく、開けた人の波をトテトテと駆け寄ってくるクレア。昔の――入学前のクレアなら、『ひ、ひぃ!』と目の前の異常事態に怯えたであろうが……人間とは悲しき生き物、普段の皆の扱いの酷さから、既にこの扱いに慣れ切ってしまっているクレアにとっては驚く程の事でもない。本当に、可哀想な事だが。
「エルマー先輩! 13番なんですか!?」
「あ、ああ。クレア嬢も13番……なのか?」
「はいっ!!」
そう言って嬉しそうに手元の紙を見せるクレア。見せてくれた番号をマジマジと見つめた後、先程とは別の意味で情けない顔を浮かべて見せるエルマー。
「……これは……良いのか、ルディ? 俺、結構気合を入れていたのだが……」
「あー……うーん……まあ……」
エルマー的には結構気合を入れたつもりなのである。今後、社交界に出る為の――相手には非常に失礼であるが、まあ練習台代わりにしてしまおうと勢い込んでいたのである。だって云うのに、いざ蓋を開けてみれば、ペアの相方は同じ部活の後輩だ。そら、こんな顔にもなる。
「あ、あの……や、やっぱり迷惑だったでしょうか?」
エルマーの微妙な表情に、クレアの顔が曇る。
「そ、そんな事はないぞ!! 俺もクレア嬢で良かったと思っている!! 知っての通り、俺はあまり喋りが得意な方では無いからな!! 良く知った……可愛い後輩のクレア嬢で良かったさ!!」
そんなクレアに慌てた様にフォローに入るエルマーにため息を一つ。
「……まあ、ギリギリセーフという事で」
結果だけ見れば、エルマー的にはだいぶイイ感じの、普通に話すことが出来るペアであり、人間的な成長という意味ではあまり良い相手ではない。良い相手ではないが、エルマーの『今回は頑張る!』という気持ちを引き出せた事は事実なのだ。ルディは結果よりも過程を重視する人間であるし、何より。
「ほ、ホントですか!? え、えへへ~。良かったです、エルマー先輩で!! 私、あんな悪評が立っているから、皆さん私とじゃ楽しくないかと思っていて……エルマー先輩なら、そんな噂を気にせず、優しく接してくれるから……うん、嬉しいです!! やったー!」
両手を挙げて『やったー!』と喜びを露にする不憫な子、クレアの姿をみるともう、なんかエルマーの成長なんかどうでも良くなったのである。
「あ! ルディ様! ルディ様は誰とペア――ルディ様? なんで私の頭を撫でるんですか!? え? え、エルマー先輩!? なんですか!? なんで飴ちゃんをくれるんですか!?」
右手でよしよしとクレアの頭を撫でるルディと、『これでもとっときんしゃい』と言わんばかり、ポケットから取り出した飴をクレアに握らせるエルマー。
「な、なんだか二人の目が孫を見守るおじいちゃんみたいな目になってる!? え、ええ? な、なんですか!? ど、どうしたんですか!?」
あわあわと状況が把握できず視線をウロウロさせるクレアに『なんでもないよ』と言って笑顔を浮かべるルディとエルマー。そんな二人にいぶかし気な視線を向けるも、それも一瞬。クレアは『にこぱー』とでも形容したくなる素敵な笑顔を浮かべて見せる。
「あのですね、あのですね! 私、本当に嬉しくて! 絶対に肝試しの間、気まずい雰囲気になるんだろうなって思ってたんです! 不参加にしようかなって思って……でも、折角の林間学校だからって参加を決めたんです!! さっきまで、他の方にご迷惑かも、とか思っていたんですけど……」
そう言って、伺うようにエルマーを上目遣いで覗き込み。
「でも……エルマー先輩とならそんな心配無いですよね? ご、ご迷惑じゃないです……よ、よね? わ、私、勝手なこと、言ってますかね?」
「……勝手なことなんて、そんな事はない。まあ、俺はそんなに話が上手い方では無いし、クレア嬢を楽しませることが出来るかどうかは不安ではあるが……」
そう言って表情を曇らせるエルマー。そんなエルマーに、クレアはきょとんとした顔を浮かべた後、朗らかに笑って見せる。
「そんな心配、いりませんよ~! エルマー先輩はお優しい方ですし……あ、もしかして私が喋り過ぎて迷惑かもしれないです……」
「そんな事は無いさ。君の話は……聞いていて、心地よいからな。相槌くらいは出来るから、遠慮なく話してくれると嬉しい」
「ホントですか! あ、後で『煩いな』とか無しですよ!!」
「そんな事は言わないさ」
「あ、あの……ペア、本当に私でも大丈夫ですか?」
「勿論。クレア嬢がペアで……俺も、嬉しい」
そう言ってにこやかな笑みを浮かべて見せるエルマーに、クレアも照れた様な、それでいて良い笑顔を見せて微笑む。まるで一枚の絵画の様なそんな情景に、ルディも頬を緩ませて。
「――後ろにユリア先輩が居なけりゃ、凄い良い雰囲気なんだけどね……」
「………………へぇ? エルマー様、クレアっちと一緒で嬉しいんだぁ~。エルマー様大好きな私より、クレアっちの方が……嬉しいんだぁあああああーーーー!!!」
その二人の後ろで、まるで般若の様な笑顔を浮かべながらそんな事を宣うユリアに、ルディの緩ませた頬が引き攣る。舌の根も乾かない内に、と思われるかも知れないが……エルマー、逃げろ!! 逃げちゃダメとか無いから!! 本気で逃げろ!!




