苦い罪のエピローグ
週末になると、ローザリアはセルトフェル邸に帰省していた。
賑やかしい盛りを迎え、緑と花に溢れた庭園を眺めながら紅茶を楽しむ。
せっかく祖父といるというのに、ついルーティエから語られた『乙女ゲーム』の内容について考えてしまうのをやめられない。
続編では、『ヒロイン』であるルーティエが執行部に入っていたという。
彼女は、ゲーム通りに進んでいないから、とうにシナリオが変わっているのだと思っていたらしい。続編など始まらないと。
現在執行部にはローザリアが入っている。この場合、『ヒロイン』とはどうなるのか。
考えねばならないことは山積しているというのに、シャンタン国の殿下方を接待する準備など、現実的にも忙しい。
目まぐるしい日々に少し頭が痛かった。
木苺のマカロンをひとくちで頬張っていたリジクが、嚥下してから口を開く。
「何を悩んでいる?」
すかさずチョコレートのマカロンを放り込む祖父に、ローザリアはため息をついた。
「一体どのように説得すれば、お祖父様が甘いものを控えてくださるか、そればかり考えております」
「ならば、考えるだけ時間の無駄だ」
「まぁ。控える気はないとおっしゃる? ある日突然頭の血管がプツリと切れてしまっても、お祖父様は人生に一片も悔いはないと言い切られるのですね。可愛い孫達を遺して」
あくまで笑顔のまま問うと、リジクは途端に渋い顔になる。まるで突然菓子が不味くなったとでも言いたげな表情。
「お前は本当に本当に、底意地が悪いな」
「全ては血のなせる業でしょうね」
「ああ言えばこう言う……」
祖父は軽口をいなすと急に真面目な顔になった。
「ローザリア、お前は留学生の世話係くらいで悩むような神経をしていないだろう。何をそんなに難しい顔をしている?」
鋭い眼光は恐ろしいほどの迫力だが、真剣にローザリアを思ってのことだと分かる。
『乙女ゲーム』については、祖父に話していない。
孫が悪役令嬢として破滅するはずだったなんて、打ち明けてもいい気分はしないだろう。
ローザリアは完璧な笑みを作ると、取り皿の上のマカロンを見下ろした。
「こちらのマカロンの複雑な味わいに感心しておりました。ピスタチオの青みのある香ばしさとホワイトチョコレートのこくが融合し、華やかでありながらとろける味わいと……」
「白々しすぎるぞ、ローザリア」
半眼で指摘するリジクに、半眼を返す。
「お祖父様相手に言いわけをしたところで、意味がないですもの」
何と誤魔化しても見抜かれてしまうと思えば、頭を使うだけ労力の無駄だ。
口先だけでなく舌の上に広がる豊かな風味を味わっていると、リジクはソファに背を預けた。ため息をつきつつローザリアが勧めたマカロンを取る。
「……意地っ張りなローズ。困った時は、無理せず頼りなさい」
吐息に乗せられた言葉に、マカロンを堪能しつつこっそり笑みを浮かべた。
「おいしいでしょう?」
「あぁ。だがこちらの木苺のマカロンも中にレモンソースが入っていて……」
菓子の品評をあれこれ言い合いながら、ローザリア達は穏やかなひとときを過ごした。
ローザリアは自室で一人、紅茶を飲んでいる。
カラヴァリエ領から始まった今回の騒動。
レンヴィルドは、デュラリオンから推薦を受け選挙戦に臨むためだと思い込んでいたけれど、理由はもう一つあった。
六年前のローザリアの罪。
グレディオールとの出会いは八歳の頃。以来、何が楽しいのか分からないけれど仕えてくれていた。
何百年と眠っていたため世情に疎かった彼が、少しずつ人間の生活に馴染み始めていた、そんな時。
『薔薇姫』という危険極まりない存在を排除すべし、と唱える者がいた。
それなりに歴史のある伯爵家の当主だった。
当時は過激な動きも多く、わざわざリジクに直談判に来る者もあった。
既に政治の中枢を担っていた祖父は、その分政敵も多方面にいた。不満を持つ者からすれば、忌まわしい『薔薇姫』は恰好の標的だった。
かの伯爵はセルトフェル邸を何度も訪れていたらしいが、ローザリアはそのことを知らなかった。
リジクが手早く追い払ってくれていたためだ。
だがその日は、伯爵がいつもより粘った。
折り悪く、ローザリアも書物庫へ向かっていた。
二人が行き合ってしまったのは、不幸な偶然としか言いようがない。
突然知らない男性から、憎々しげに見下ろされる。ローザリアは咄嗟に状況が理解できず、動けなくなってしまった。
知らなかったのだ。排除すべしとの声が上がっていることも、それを訴える者が屋敷にいることも。
『おぞましい! 貴様など滅びればいい……!』
男性がそう叫んで手を振り上げた時も、馬鹿みたいに突っ立っていた。
幼子に躊躇いもなく振り下ろされる手。
それは、呆然としている間に消えていた。
手だけじゃなく、腕も、体も。憎悪に歪んだ恐ろしい顔も、全て。
ローザリアも、制止すべく動いていたリジクも、目を見開いた。
『ーーご無事ですか、ローザリア様?』
男性が忽然と消えた場所に立っているのは、いつも通り無表情なグレディオール。
『…………今、のは……』
『あれは排除しました。『薔薇姫』を疎んでいるらしく、何度も屋敷に足を運んでおりましたので』
震える声で問うと、彼は淡々と答える。
そこには怒りや悪感情さえなく、まるで羽虫を潰した程度の熱量。
『排除って……どういうこと? どこか別の場所に移動させた、とかではなく?』
『存在そのものを抹消したという意味です。あれは、少々煩わしかった』
グレディオールの答えに目眩がした。
ドラゴンである彼も、この二年の間で人の営みに溶け込み始めていると思っていた。
けれど根本的なことを分かっていなかったのだ。
邪魔だからといって殺してはならない。そんな、当たり前の道理さえ。
消えてしまったものを元に戻すことはできない。
伯爵は、行方不明とされた。
足取りが途絶えたセルトフェル家を怪しむ者もいたけれど、男性が文字通り消されたために犯罪の証拠など出てくるはずもない。
真実を知っているのはローザリアとリジク、そしてグレディオールだけ。
それは、ローザリアが負うべき咎だった。
グレディオールを側に置くと決めたのに、制御しきれなかった。伯爵と、彼にまつわる者達の運命を簡単にねじ曲げてしまった。
一生、消えない罪。
「ーーローザリア様、こちらを」
横合いから、湯気の立つ紅茶を差し出される。
音もなく近付いてきたのはグレディオールだ。
見れば、ローザリアの持つティカップはすっかり冷たくなってしまっている。
「……ねぇ、グレディオール。あの時わたくしが言ったことを、覚えている?」
ローザリアは金緑の瞳を見上げて儚く微笑む。
答えなど欲しない、独白のような問い。
けれど彼は、全てを察したように首肯した。
「私のあやまちを、真正面から諭してくださったのはローザリア様です」
「『自らを厭う人間を残らず消していけば楽になれるとは決して思わないの。それは、運命に負けたのと同義なのよ』。今思えば、青臭い綺麗事ね」
あの日、消された男性の名は、ディエム・カラヴァリエ。カラヴァリエ女伯爵の亡き夫であり、デュラリオンの実父。
今回の一件、役員であるデュラリオンに恩を売りたかったのも本当だ。
けれどローザリアは、カラヴァリエ家が関わっていることに気付き、あえて首を突っ込んだ。デュラリオンとレイリカに立て続けに遭遇し、何かあるのではと考えて。
罪が償えると思ったからではない。これは、ただのお節介として。
「グレディオール。今のわたくしならば、あなたにこう言うわ。ーー『罪悪感や苦しみが付きまとう人生なんて願い下げ。わたくしは、圧倒的な幸せを手にしたいの』」
笑みを勝ち気なものに代えると、グレディオールは珍しく口端を引き上げた。
「……あなたはどこまでも、あなたらしい」
共犯者のような笑みに肩をすくめ、ローザリアはふと手元の紅茶を見下ろした。
新しいカップに交換せず、それを一息にあおる。
……冷めた紅茶は、いつもより苦い。
ひとまず完結とさせていただきます!
皆さまお付き合いありがとうございました!m(_ _)m




