カラヴァリエ女伯爵
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迫力の美女が、ゆっくりとカディオに歩み寄る。
決して露出が多いわけではないのに、なぜこうも艶やかなのか。
ーーいいえ。そんなことをのんびりと考えている場合ではないわ。
言動から推察するに、彼女は過去の『カディオ・グラント』との顔見知りのようだ。
カディオの動揺ぶりが凄まじい。
このまま接し続けていれば、以前の彼との差異に違和感を覚えられるのも時間の問題だ。
ここは事情を知る者が助け船を出す場面だろう。
ローザリアは彼を庇うように、笑顔で進み出た。
「初めまして。わたくし、ローザリア・セルトフェルと申します」
セルトフェルと聞いても、彼女は動じなかった。
トロリと滴り落ちそうなほど赤い唇に、好意的な笑みを浮かべる。
「セルトフェル侯爵家のご令嬢とは、これは大変失礼いたしました。名乗るのが遅くなりました、私はレイリカ・カラヴァリエ。僭越ながら、カラヴァリエ伯爵として領地を治めております」
「まぁ……あなたがかの有名なカラヴァリエ伯爵でしたの。ご高名はかねがねお伺いしております」
家ごとに爵位継承の決まりごとは異なるが、女性が継げる家系は稀だ。
中でもカラヴァリエ家は特殊で、レイリカは正統な血を継ぐ夫亡きあと、その地位を継承した。
レイリカは前伯爵にとって後妻にあたり、もちろんカラヴァリエ家と血の繋がりもない。だからこそ、これは特殊な事例なのだ。
正統な後継者である長男が成人前であるがゆえに、あくまで中継ぎとして爵位の継承が許された。
亡き先妻との間に生まれた長男というのが、デュラリオン・カラヴァリエ。
おそらくレイリカとは十歳ほどしか変わらないだろう、レスティリア学園執行部の現会計。最近何かと話す機会のある、生真面目な青年だ。
ーーまた、カラヴァリエ……。
これは偶然だろうかと考えるローザリアに、レイリカの苦笑が届いた。
「私の噂は、なかなか斬新だろう?」
男装の麗人がほのめかしているのは、口さがない者達から流れる悪評だ。
夫を殺し伯爵位を得たとか、始めからその地位が目当ての婚姻だったとか。
けれどローザリアは、噂の無責任さというものを誰よりも知っている。
「わたくしが知っているものですと、伯爵様が真摯に領地を守り続けているという話を最も多く聞きます。領民にも慕われていると」
何より、デュラリオンの人柄が答えだった。
前伯爵が亡くなってから、およそ六年。
あれほど生真面目で、また人に慕われる青年に育ったならば、血が繋がらないとはいえレイリカがいい親だっただろうことは分かる。
ローザリアの言葉に裏がないことを悟ると、彼女は素直に笑った。若々しく魅力的な笑顔だった。
「そういえばローザリア嬢といえば、先日は迷惑をかけたね」
「わたくし?」
「うちの子猫が、あなたに無礼を働いたようだ」
スーリエ家の令嬢のことを言っているのだと、すぐにピンと来た。
そうすると、頭の中で様々な符合が一致する。
いわく、綺麗なだけじゃなく格好よく凛としている。夫が数年前に他界し、辛い境遇にもかかわらず遺された領地を毅然と守り続ける素晴らしい方。
ーーつまり彼女が言っていた『カディオ様の本命』とは……この方?
心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、ローザリアを襲った。
領民のために尽くす姿勢は尊敬していたし、何かと批判されることの多い立場を思えば、どことなく共感すら覚えていたのに。
美しく聡明で、民を思いやる慈悲深さを持つ非の打ち所のない完璧な女性が、カディオと関係を持っていたかもしれない。
指を絡め、親密な距離感で寄り添い、癖のある赤毛に顔を埋める姿を想像してしまうとーー。
とぐろを巻くように身体中を駆け巡るこの感情は、一体何なのだろう。あまりに大きすぎて全貌を捉えることすらできない。
頭の中はかつてないほどに真っ白で、ローザリア自身戸惑うほどだ。
それでも、毅然と受けて立たねばならない。
手も足も出せずに敗北を認めるのは、ローザリアの矜持が許さなかった。
「まぁ、彼女はカラヴァリエ伯爵の飼い猫でしたの。失礼ですが、少々躾がなっておられないように感じましたけれど」
「困ったことに、そこがまた可愛らしくてね。つい甘やかしてしまうんだ」
「……」
大人の魅力を見せ付けられているようだった。器の広さも、何もかもが敵わない。
レイリカは、背後で待たせている男性を振り返る。制服からして、彼女の家に仕える従者だろう。
「すまないね、所用の途中だったんだ。あの子がしたことへの謝罪は、また日を改めて」
彼女はローザリアからカディオに視線を移すと、いたずらっぽく片目を瞑った。
「それではカディオ殿。今後も夜会で会うことがあったら、よろしく頼むよ」
「は、はぁ……」
レイリカは、そのまま颯爽と歩き去っていった。
その背中を見つめながら、ローザリアは呟く。
「わたくしは、何度こうして絡まれるのかしらね」
スーリエ家の令嬢といい、何だか街に出るたびに憂鬱な思いをしている気がする。
放心状態だったカディオが、サッと青ざめた。
「す、すみません……!」
「いいえ。カディオ様を責めても仕方がないことくらい、理解しておりますわ」
だが、理性と感情は別物だ。
過去の『カディオ・グラント』の女性関係にこれほど翻弄されては、八つ当たりの一つもしたくなるというもの。
謝ろうにもそれ以上の言葉が見つからないカディオに視線を定め、アイスブルーの眼差しを細めた。浮かべるのは氷の微笑。
「とはいえ何かしらの仕返しをしなければ腹の虫が治まらないのも事実ですし、どうしたものかしら。ねぇ、カディオ様?」
不気味なほどの静けさをまとわせ、一歩一歩近付いていく。迫力に圧された彼はほとんど半泣きだ。
そうして子羊のように怯えるカディオの前で立ち止まるとーーローザリアは不穏な笑みを消した。
「……なんて、冗談ですわ。わたくしにあなたを怒る権利など、ありませんもの」
「ローザリア様……」
感情を映さぬ透徹とした眼差しに、カディオは目を見開いた。
「あの……」
「戻りましょうか。このままでは、門限に間に合わなくなってしまいます」
口を開きかける彼にあえて気付かぬふりをして、ローザリアは歩き出した。
振り返ることなどできなかった。
ミリアとグレディオールは、主人であるローザリアを暖かな部屋で出迎えた。
「お帰りなさいませ、ローズ様」
普段ならば笑顔で応えるはずが、なぜかローザリアはドアの前から動こうとしない。
怪訝に思ったミリアは、そろりと近付いた。
もしかしたら、何か傷付くような出来事でもあったのかもしれない。
幼少の頃から聡明で理知的だった主人であるが、まだ十代の少女なのだ。落ち込むことや悩むことがあって当たり前だろう。
「……ローズ様?」
悲しみに触れぬよう慎重に声をかけると、ローザリアがゆっくり顔を上げる。
そこには悄然とした表情がーー微塵もなかった。
「ミリア。確か、乾燥がひどいローザンランド王国から取り寄せた温泉水があったわね。それに熱砂の国アバトゥから仕入れた蜂蜜を練って固めた美容液、月下美人の花から成分を抽出した香油も。今ここにある基礎化粧品、ありとあらゆるものを用意してちょうだい」
「は、はい。……あの、何を始められるので?」
そこにいるのは、恋する乙女と呼ばれるような優しい生き物ではなかった。
シルバーブロンドを背中に払い、悪辣に笑む姿は極悪令嬢そのもの。
「敵はかなり素晴らしい女性だったわ。わたくしこれから緊急で、身も心も磨き上げる必要があるの。まずは手近でできる、美の追求よ。精神の美については、追々考えましょう」
ローザリアは、不撓不屈だった。
燃え上がる主人を見て、侍女は諸々を察した。すぐさま頷き、収納棚をひっくり返していく。
「それでこそローズ様です! 他にも、泥パックなるものもご用意できますよ! 髪の艶を出すというツバキ油も!」
「いいわね。どんどん試しましょう」
「お待ちください、肌に合わない成分があるかもしれませんので、まずは腕などでお試しをーー……」
一気に戦時の最前線のような様相を呈してきて、ついていけないグレディオールは半眼になった。
女性とは、いつの時代どの世界であっても、たくましいものだ。




