アレイシスの初恋
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彼女を初めて見た時、こんな綺麗な人間が存在するのかとひどく驚いた。
絹糸のように艶やかなシルバーブロンドに、透き通ったアイスブルーの瞳。内側から光がにじんでいるのではと錯覚するほど透明な肌。何より、人を惹き付けてやまない完璧な微笑。
まだ五歳という年齢にして、ローザリア・セルトフェルは自らの魅力を理解する淑女だった。
それが、アレイシスには空恐ろしかった。
同い年なのに同じ人間とは思えなかったのだ。外見も、中身も。
今日からこの美しい邸宅がアレイシスの家で、目の前の少女が義姉になるらしい。
理由を説明しないまま、父と母はアレイシスを送り出した。誇らしいことなのだと無理やり言い聞かせながら。
ようしえんぐみ、というのが何なのか、五歳にしては賢いアレイシスでも分からなかった。
リジクお祖父様はセルトフェル侯爵といって、傍系の父よりずっと偉い人なのだという。その直系の孫娘であるローザリアも。
「お初にお目にかかります。私は、アレイシスと申します」
失礼があってはいけないと、正式な挨拶をする。
両親ではなくなった父と母が、満足そうに見下ろしているのが分かった。
しばらく言葉を交わすと、彼らは丁重に辞居の挨拶をする。アレイシスをこの屋敷に置き去りにして、帰ってしまうのだ。
たまらなくなり振り返った。
――父様、母様……。
いけない。今後顔を合わすことがあっても、二度とそう呼ぶなと言い付けられている。
アレイシスはきつく歯を食い縛り、遠ざかっていく背中を見つめ続けた。
◇ ◆ ◇
セルトフェル邸での生活は、何不自由なかった。
優しい使用人達、冷徹な雰囲気をまといながらも言葉少なに見守ってくれる義祖父、適度な距離で接してくれる義姉。
厳しく高度な教育には四苦八苦しているが、同い年のローザリアはこれを難なくこなしているというのだから弱音など吐けるはずもない。
自習の時間中。彼女と並んで数学の問題を解いていると、数問目で行き詰まった。
――うぅ。足し算引き算以外、ほとんど学んでなかったから……。
こめかみを揉みほぐしながらこっそり嘆息していると、横から伸びてきた指が教科書をなぞった。
「この問題は、こちらの公式に当てはめた方が簡単に解けるわよ」
「!」
つまずいていたことがすっかりばれていて恥ずかしく思うが、確かにローザリアの言う通りにしてみると簡単に問題が解けていく。
彼女は時々、教師よりも教えるのが上手い。
「ありがとうございます、義姉上。私のために貴重なお時間を割いていただき、感謝いたします」
きちんと礼を告げてから、再び問題と向き合う。
アレイシスにとって、忙しく学ぶことはむしろ都合がよかった。没頭している間は、会えない両親のことを忘れていられるから。
深夜、アレイシスはベッドの上で飛び起きた。
両親と過ごす何気ないひとときを夢に見た。
談話室で絵本を読み聞かせる母と、膝の上で目を輝かせるアレイシス。父は少し離れたソファでワインを飲みながら、母子を見守っている。
愛に満ちた、というと言い過ぎだが、決して険悪な家族仲ではなかった。父は寡黙だが優しく、母はいつも控えめに微笑んでいた。
顎を冷や汗が伝い落ちる。とても寝直す気になれず、アレイシスはベッドから飛び降りた。
戻らない日々を、もう夢に見たくない。
ふらふらと、あてもなく歩き出す。どこにも居場所なんてないのに足は勝手に進んだ。
空には冴えざえとした三日月がかかっていて、青白い夜の景色がくっきりと浮かび上がっていた。
足音を殺して行き着いた先は、皮肉にもセルトフェル邸の談話室だった。
生家のものとは比べるべくもない規模だが、どこか温もりを感じる点は同じだった。リジクとローザリアが紅茶を共にしているところを、よく見かけるからだろうか。
一人掛けのソファに腰を下ろす。膝を抱え、小さくなって丸まった。
胸が千切れそうだ。
いっそ恥も外聞もなく泣き叫んでしまえば楽になれるかもしれない。
けれど住人に気付かれるわけにはいかない。何より、アレイシスの矜持がそれを許さなかった。
道具のように、息子をあっさり手放した両親。
彼らに泣かされるなんて死んでも嫌だった。
「…………ぐぅ……ぅうっ……」
必死に押し殺そうにも漏れ出る声が、獣のうなりのように響く。
何も考えたくない。もう、楽になりたい……。
「――泣いているの?」
思考が闇に落ちようとしていた、その時。凛然とした声が耳に届いた。
談話室の入り口には、精巧な人形のような少女が佇んでいた。銀色の髪が、闇夜にほの明るく光って見える。
義姉となったばかりの、ローザリア・セルトフェルだった。
「何か辛いことがあるのかしら? それとも、不自由でも?」
動かない表情のまま問われ、アレイシスは慌てて居住まいを正した。
努力の甲斐あって頬は濡れていない。
ならば、悟られるわけにはいかない。完璧な義弟を演じなければ――。
静かに歩み寄るローザリアに、アレイシスはそつのない笑みを浮かべた。
「すみません、義姉上。夢見が悪かったもので気分を変えようと思っていたのですが、起こしてしまいましたか」
義姉は歩みを止めない。どうか、それ以上近付かないでくれと願った。
「私のことは、どうかお気になさらないでください。恵まれたこの環境で、まさか不自由など……」
アレイシスの言葉は、ひたりと頬に当てられた手によって遮られた。
あくまで透明な、感情の窺い知れないアイスブルーの瞳。
もしそこに同情や哀れみを見つけていたら、アレイシスは何が何でも本心を隠し通しただろう。
けれどローザリアは、月のようにただそこにあるだけだったから、仮面を被り続けることができなくなってしまった。
アレイシスは、喉を震わせながら俯いた。
「……もう、父様も母様も、俺にはいないんだって、思ったら……悲しくて……あの人達が、憎くて……こんなの、よくないのに……」
噛み締めた唇の隙間からこぼれる本音を受け止めても、彼女の表情が変わることはなかった。
「そう。わたくしにも、両親はいないの。あなたと一緒ね」
「え……」
そういえば、この邸宅で紹介されたのはローザリアと、彼女の祖父であるリジクのみ。自分のことで頭が一杯で、そんなことにすら気付かなかった。
「馬車の事故で亡くなったの。半年前のことよ」
雨の夜、屋敷に帰る途中だったという。激しい事故で遺体は損傷が激しく、幼いローザリアは最期に立ち会うことすら許されなかった。
「あなたもきっと、両親が大切だったのでしょうね。そこも一緒だわ」
人形のようで恐ろしかった瞳の奥に悲しみを見付け、アレイシスはハッとした。
感情がないわけでは決してない。
辛さも寂しさも孤独もある。その上で、彼女は真っ直ぐに立っているのだ。
アレイシスの両親は会えなくとも健在だ。自分の悩みが、ひどく贅沢なもののように思えてきた。
「ごめん……」
咄嗟に口を衝いた謝罪に、ローザリアは首を傾げた。アレイシスはたどたどしく言葉を続ける。
「だから、無神経だったと思って……。俺の両親は、まだ生きてるのに」
「両親が死んでいるわたくしの方が、あなたよりずっと不幸だと? その謝罪の方が余程無神経で、傲慢だわ」
「そ、そんなつもりは……!」
「冗談よ」
頬に触れたままの手が、確かめるように輪郭をなぞった。
「どちらがより不幸かなんて、比べることじゃないわ。あなたの悲しみは、あなただけのものだもの。……一人で、辛かったわね」
アイスブルーの瞳を冷たいとすら思っていたのに、慈悲深く感じるなんて。
彼女がなぞったのは輪郭ではなく、流すことのできなかった涙の跡なのかもしれない。
反射のように、コロリと一粒涙が転がり落ちる。けれどそれ以上、アレイシスが頬を濡らすことはなかった。
心を許せる存在を、確かに見つけられたから。
◇ ◆ ◇
翌日の昼下がり、アレイシスはローザリアと談話室にいた。
昨晩の記憶が甦ると気恥ずかしくもあるが、ここでのんびり紅茶を飲める嬉しさが大きい。今までは馴染もうと必死で、ゆっくりする暇もなかった。
「ところであなた、本当の一人称は『俺』なのね」
ローザリアの言葉に、アレイシスは紅茶を噴き出しそうになった。
態度には気を付けていたつもりだったが、昨晩知らぬ内にぼろを出していたらしい。
言い訳も思い付かずにぱくぱく口を動かすアレイシスに、彼女はクスッと笑った。
「とても自然だし、わたくしはそちらの方がいいと思うわよ」
浮かぶ笑みの柔らかさに、呼吸が止まった。
まるで凍てついた冬が、春の暖かさに溶けていくようではないか。
胸が熱くて苦しい。息が詰まっているみたいだ。
この感情が何なのか、今のアレイシスには想像すらつかない。
けれど義姉が目の前で微笑む姿に、この上ない幸せを感じていることだけは確かだった。
「じゃあ……これからは、普通に話すことにするよ。義姉さん」
照れくさくて少しぶっきらぼうになってしまったが、ローザリアはふわりと笑みを深める。
その日アレイシスは、心から笑うことができた。




