祭りとは不満を減らすために必要なものでもあり、性教育の場でもある
今日は沖ででかいマグロがつれたので、祭りを開き村のみんなで分け合って食うことになった。
”チャカポコチャカポコ”
”ドンドコドンドコ”
”ピーピー”
”そいやそいや”
太鼓をたたいたり、笛を吹いたり、手拍子を鳴らしたりしながら、みなで動きをあわせて踊ることは、集落の人間に一体感をもたらし、やがて大きな土器で煮たマグロを、まずはそのマグロを取ったものや、一緒に船を操ったりなどしたものからとっていくことで皆腹を満たす。
こうすることで個人レベルで、ちょっとたまっていた不満なども解消されるわけだ。
そもそも祭りとは祀ることで、縄文時代ではおもに死んだものがちゃんと生まれ変わることを願って行われるものであるが、マグロや鯨のような大きな魚や熊や猪などの大きな動物などが取れたときには皆で分け合って食べることで、集落の人間に不公平感が広がらないように行うという理由もある。
この時代における酒はニワトコ、サルナシ、ヤマグワ、ヤマブドウなどを搾って土器で発酵させる果実酒だがま、それなりに美味い。
原始的なワインやキウィ酒みたいなものだな。
「まーこういうのもたまにはいいよな」
「ええ、こうやってみんなで集まって騒ぐのはいいことです」
俺とイアンパヌはのんびり食事をしている。
上の娘と息子は踊りに混ざってるな。
祭りということばには、踊ったり騒いだりすることのほかに、神を祀る、さらには男女が交わるという意味もある。
縄文人はさまざまな物に神が宿ると考えており、特に力が強く頭がよいとされる動物が崇拝対象と成るが、山の熊や猪、海のシャチなどともに崇拝対象となったのがヘビだ。
蛇と言うとあまりいい感じを受けない人間のほうが多いと思うが、聖書にも出てくる蛇は人間にとってなじみの生物でもあり、日本では縄文時代から蛇を信仰していた。
古代に蛇は何故信仰の対象になったのかだが、まあ理由はいくつかある。
一つは蛇の姿かたちが男性の性器を連想させるからだな、いわゆるご立派さまだ。
この時代は性行為に対してはタブーとされるような要素は無いので蛇は立派な男性器を象徴する対象になっているわけだ。
また、蝮などの強烈な生命力と、その毒も恐れられていたからこそ崇拝に対象になるわけだ。
それと脱皮という行為は古い体から、新しい体に魂が移り変わる様を表していると信じられていた。
ヘビが脱皮をするように、死んだものは新しい体で生まれてくるってわけだ。
今より前の原始時代における祭りの形は神蛇とそれを祀る集落の長である女性蛇巫が交わり、子である神蛇を生むことでもあったらしい。
まあ実際には、がヘビと交わるのは不可能なので、蛇の神体、要するに男根の形をした木柱や石柱などをもちいて、性行為もどきをすることで代用し、蛇を捕らえて育てていたらしい。
まあ、ヘビを捕らえて育てるということは今はやっていないがな。
その代わりウリンボを捕らえてきて育てることに変わってるわけだ。
そして祭りの場は性教育の場でもあったわけだ。
仲のいい男女は祭りの途中で手を取り合って、広場から抜け出したりもする。
しかしそういうことができるようになるには教える必要があるわけだ。
15歳くらいになると男女ともに成人とみなされ、結婚し子供を作るのが普通になるわけだが、そういう若い男を、ちゃんと性行為などができるようにしてやるための行事でもあるわけ。
そしてそういう若い男にそういった行為に必要なことを教えるのは、先に事故などで夫をなくしたいわゆる未亡人だな。
酒がはいって羞恥心が薄くなったりした状態で、祭りをぬけだし、雑談まじりに、手取り足取りひととおりの性行為、女の口説き方、結婚までの心得、女体の特色、大人の性生活、出産のときの手伝い方などの知識を大人となった男に教えるわけだ。
まあ、親とは一緒に寝ているわけだから性行為のやり方はわかってるやつはわかってるわけだが、わからないやつもいるかもしれんし、口説き方なんかはわからんほうが多いだろ。
そしてこれは集落の公式な行事でもあり、性は現代のように個人的な事柄でも秘め事でもなく、村の人口の維持のために必要であり大事なことでもあった。
そして夫に先立たれてしまった未亡人にとってもこの行事は、楽しみなものだったわけだ。
集落の維持をこれから担っていく若者を性的に一人前にしてやることは、責任ある役割であるわけだ。
それに、未亡人となった女性は性行為を行えないし、基本的に結婚は同年代が行うものだから再婚は結構難しい。
そういった寂しさを紛らわす機会でもあったわけ。
女のほうに対する性教育見たいなのは、母子が一緒に仕事をするなどをする中で、だんだんと教える感じだから、妻を先になくした男が性教育をするなんてことは無いがね。




