支那の中心で愛を叫ぶ
支那の中心で愛を叫ぶ
1年戦争、或いは1年革命によって政治的な近代化を成し遂げ、国号を大日本帝国と改めた日本は、巨大なアジア・太平洋帝国であった。
多くの人々が、廃藩置県によって藩という小さな領国を離れ、その巨大な帝国の一員となったとき、改めてその広大さに驚かされたと言われている。
大阪幕府が240年かけて広げた版図はまさに広大の一言に尽きた。
まず、北は阿羅斯加から奥千島列島を経て千島列島、樺太、蝦夷まで連なる氷に閉ざされた領土が広がっていた。
しかし、そうであるがゆえに夏は素晴らしく、また未知の可能性に満ちた土地だった。
カルフォルニアでゴールドラッシュが始まると日本でも金鉱探索の機運が高まり、阿羅斯加での探鉱が実施され1855年に巨大な金鉱山が発見された。
阿羅斯加金騒動と呼ばれる大規模なゴールドラッシュによって、日本は銀本位制から金本位制への移行を成し遂げた。
5年ほどで砂金は掘り尽くされたが、その後も小規模なゴールドラッシュが続き、多くの日本人が阿羅斯加に渡ったことから、新大陸の一角は日本人の領域として国際的にも認知されるようになる。
1860年には英領カナダやアメリカ合衆国との国境確定交渉が行われ、現在の阿羅斯加県の領域が確定した。
阿羅斯加にはロシア人も居住し、毛皮貿易に従事していたが輸送費の関係で日本の毛皮商人との競争に勝つことができず、短期間で撤退に追い込まれた。
それでも一時期は4万人のロシア人が阿羅斯加に住んでいたことがあり、現在でも阿羅斯加には強い蒸留酒を飲む文化が息づいている。
北から南に目を向けると太平洋の中央にハワイ諸島があり、日本から多数の移民が押し寄せ、日本の大名家(主に伊達家)と婚姻関係を結んだカメハメハ王朝を治めるハワイ王国があった。
ハワイは各国とも国交のある独立国であったが、王族の相次ぐ病死によって統治能力が失われ、日本人移民の暴動事件をきっかけとして1879年に日本によってハワイ処分が強行され、ハワイ県として日本に併合された。
ハワイ諸島の他にナポレオン戦争の結果として、日本の領土とされた太平洋の旧スペイン島嶼領土が太平洋には散らばっていた。
これらの領土には捕鯨船の補給基地以外には殆ど利用価値がなかった。
ナウルのグアノ鉱山のような肥料や火薬の原料となる産業利用が可能な場所以外は、日本人移民の手によってサトウキビ畑が作られた程度である。
中には日本人が一人も住んでいない現地人だけの島嶼もあったが、日本は安全保障上の懸念から少しでも過去に日本の船が立ち寄ったか、上陸したことがある島嶼に関しては片端から領有宣言して自国領に編入していった。
ただし、現地への布告はなかったので領有宣言から半世紀後に自分たちが日本領に住む日本人であることを知らされた島もあるほどであった。
日本が経済的に価値がない島嶼領土の編入を急いだのも、欧米列強のアジア・太平洋進出を睨んでのことである。
1884年にドイツ主導で開催されたベルリン会議は、ヨーロッパ列強国の一方的なアフリカ領土分割、植民地化会議であった。
アフリカは沿岸部での奴隷貿易以外はさほど利益のない土地であったが、産業革命の進展により、市場としての囲い込みや原材料の供給地として価値が認められ、急速に植民地化が進んだ。
支配に抵抗する現地人国家もあったが、産業革命を経て圧倒的に進歩したヨーロッパ列強の軍隊には刃が立たず、抵抗運動は短期間で粉砕された。
アフリカで独立を維持できたのは、イタリアの侵略をはねのけたエチオピアとリベリアの2カ国しかなかった。
ただし、後者はアメリカから帰国した英語を話す解放奴隷の国家であり、実態としてはアメリカの植民地同然であった。
ヨーロッパに近すぎたアフリカの悲劇と言えよう。
では、遠く離れたアジアはどうだったのかと言えば、ヨーロッパ列強の侵入以前から東南アジアは日本の植民地と化していた。
ナポレオン戦争を総括した1815年のウィーン議定書によって、日本は正式にスペインとオランダからフィリピンと東インド諸島を割譲されていた。
フィリピンについては、18世紀半ばから大量の移民(日僑)をおくることで日本化を図っていた地域であり、フィリピン割譲は半ば現状を追認したに過ぎなかった。
1852年には、フィリピン北部が呂宋県として正式に日本の領土へ編入された。
ただし、南部は現地のイスラム勢力が日本編入を拒んで武力闘争に突入したため、衝突と停戦が繰り返す長く治安が安定しない時代が続くことになる。
オランダから割譲された東インド諸島はさらに複雑で、各地に建設された日本人町(安南、交趾、占城、暹羅、柬埔寨、太泥)を基礎にした日本人社会と華僑、現地人国家やムスリム勢力、キリスト教勢力、ヨーロッパ商人が入り混じっていた。
日本は行政組織がないところには奉行所を建て、現地人国家と交渉、征服して保護国化することで混沌としたアジア世界を日領東印州としてまとめ上げていた。
東印州よりもさらに南には、新四国県や日領大蘭州があったが何れも本国領土に準じた扱いを受けていた。
これは現地人よりも圧倒的に日本人の割合が多く、経済植民地ではなく新しい日本の国土となるべく整備されているためであり、新四国では苦労して熱帯雨林を水田に変える土壌改良事業が200年かけて行われることになる。
21世紀現在では、新四国県は品種改良の果てに熱帯気候に適合したジャポニカ米が広く栽培されている。
熱帯適合米は食味に劣り、下米というイメージが強かったが近年の遺伝子操作技術によって農林水産大臣賞を受賞した「スコールライス」など生まれ、本国に比肩するかそれを上回る米が生産されるようになっている。
なお、「スコールライス」は呂宋の代表的な米ブランドである「マニラニシキ」と本国の「コシヒカリ」をかけ合わせたハイブリッド種であり、育成に大量の水が必要となることからスコールの降る熱帯雨林以外では育成できない新四国ならではの米といえる。
乾燥した気候の大蘭州で稲作は困難だったから、新四国の米作は大蘭州に米を供給する上で極めて重視された。
なお、
「米がなければ、うどんを食べればいいじゃない?」
という讃岐移民の力によって大蘭州では小麦の栽培が重視され、世界有数のうどんの消費国となっている。
そのため日本文化圏においては、蘭州は糖尿病の罹患率が一番高い。
それはさておき、アジアへの進出を強めるヨーロッパ列強に対抗できる力を持っているのは、当時、日本だけだった。
ヨーロッパから見て世界の果てにある島国になぜ最新の科学技術が根付き、産業革命が起きて、議会制民主主義の立憲君主国家が誕生したのかは彼らの常識では理解できないことであった。
清朝のように東アジアの平和の中に停滞している方が自然といえる。
日本が清朝のようにならなかったのは、開国政策を以て海外に誼を通じ、常に新しい情報や知識を取り入れ続けたことが大きかった。
また、長く封建社会を続けたことで、ご恩と奉公という形で社会契約システムが発達し、高度な分業体制を確立したことも発展を後押しした。
さらに金や銀といった国内資源が枯渇し、海外からの輸入を続けるために外貨獲得の必要性が増して、自然と工業化が促進されたという幸運もあった。
19世紀までに人口7,000万人を抱えた日本列島で自給自足できる資源は生糸、石灰石と石炭、硫黄ぐらいになっており、綿花や木材や塩、米といった基本的な生活資源でさえ植民地からの輸入に頼るようになっていた。
産業革命を起こして工業化する以外に近代日本が生き延びる道はなかった。
さもなくば、人口3,000万人の遅れた農業国に逆戻りするしかないのである。
故に産業革命が完成した1850年代以降、日本は植民地の防衛に多額の投資を行った。
この場合の投資とは軍拡を意味しており、特に重視されたのは海軍力であった。
そうした海軍力を効果的に運用したのが、1858年のコーチシナ戦争といえる。
鎖国政策を続ける阮朝は、キリスト教弾圧政策から密入国したフランス人、スペイン人宣教師を斬首刑としたが、これを口実にフランスが軍事侵攻を招いた。
院朝は、清朝の朝貢国(属国)であったが、宗主国の清は曖昧な態度に終始した。
清は圧倒的な列強の軍事力に対して対抗するすべがないことを悟っており、国をあげた西洋化(近代化)運動に舵をきったばかりだったのである。
それに目をつけたフランスの軍事侵攻であったが、被害者意識に固まっていた日本人は過敏に反応した。
アチェを出港したフランスの侵攻艦隊は、マラッカ海峡で待ち伏せていた日本の通報艦に捕捉され、南シナ海を北上中に三倍以上の日本艦隊に行く手を阻まれることになる。
日本艦隊の出動を知ったイギリス東洋艦隊も出撃して一瞬即発の事態となった。
日英仏の血圧が程よく上がったところで、誰も全面戦争を望んでいないことから院朝を交えた外交交渉の場が設定され、1859年8月にサイゴン条約が結ばれた。
サイゴン条約によって院朝は開国し、宣教師殺害については謝罪し、遺族に保証金を支払うことで合意したが、フランスが要求した領土割譲や国家賠償金は否定された。
院朝の強気な姿勢の背後には日本の軍事力があった。
具体的にはダナンへ入港したスクリュー推進式蒸気戦列艦12隻による威圧であり、日本はフランスのインドシナ半島進出を望んでいなかった。
だが、同時にフランスとの全面戦争をしたいわけでもなかった。
その場合はイギリスの介入が予想され、英仏を同時に相手とする愚は避けなければならなかった。
また、院朝に恩を売って開国させ、日本の市場として利用したいという思惑もあった。
フランスが魔法を使わない限り、距離の壁によって日本の輸送コストは常にヨーロッパ製品よりも安くあがることから、日本製品がアジアで負けることはありえなかったからである。
以後、院朝は日本との関係強化に舵を切り、清の冊封体制を脱して日本に留学生を送るなどして近代化を模索することになる。
さらに日本は内戦中のカンボジアにも介入して、これを保護国とした。
当時のカンボジアは統一した政体をもつことができず、フランスが介入を強めていたことから日本が先手を打った形である。
ラオスも同様だった。
こうした日本の外交攻勢に対してタイ王国は中立政策を堅持して、日本とは一定の距離をおいた。
タイ王国は山田長政以来の日本と深いかかわりのある友好国であったために、タイの中立政策は日本にとっては誤算だった。
しかし、日英の境界面に位置するタイ王国には特別なバランス感覚が必要であり、日本に深く肩入れすることは危険だった。
日本も陸続きの場所でイギリス軍と敵対する危険性を鑑み、タイの中立政策を認め、緩衝地帯として活用を図ることになる。
イギリスも同様に日本軍による陸路からのインド侵攻を阻止するためタイの中立政策を認めた。
日英の間にあってタイ王国は、ラーマ五世の指導のもとでチャクリー改革を成功させ近代化を達成し、ベトナム(院朝)と共に東南アジアで独立を維持することに成功する。
ベトナムやタイで王家に対する尊敬の念が厚いのは当然と言えよう。
ただし、タイの中立によってビルマは日本から見捨てられた形になり、イギリス軍の侵攻によって滅亡し、英領インドに組み込まれることになった。
日本によってインドシナ半島進出を挫かれたフランスは、1870年に普仏戦争に敗れて第2帝政が崩壊。以後、完全にアジアの覇権争いから脱落した。
そのため、19世紀後半にアジアの覇権を争ったのは、日英露の三カ国となった。
その覇権争いの舞台となったのが清朝が治める中華大陸だった。
清は19世紀に入るとその支配力に陰りが見え始め、アヘン戦争で日本が敗れヨーロッパ列強のアジア侵入を許すと軍事恫喝を受けて開国を余儀なくされた。
この時点で清がヨーロッパ列強を相手に勝てない戦争に挑まなかったのは、直近に日本がアヘン戦争に負けたことが大きかった。
日英仏の大軍がマレー半島で激突したアヘン戦争は、産業革命を経た国家の戦争がどのようなものか清の朝廷に知らしめるには十分だった。
実際のところ、清は威風堂々と腰を抜かしていると言って差し支えない状態だった。
清は1845年にイギリスと不平等な英清通商条約を結び、治外法権や領事裁判権を認め、香港など5箇所の開港地を開いた後、アメリカやロシアとも同様の条約を結んで、ヨーロッパ列強の風下に立った。
賢明な判断と言える。
唯一、清と対等条約を結んだのは日本のみだった。
急ぎ近代化政策を進めたい清は、日本との関係強化を望み、日本も貿易での便宜を求めて気前よく留学生の受け入れや武器弾薬の売却に応じた。
なお、英清通商条約以後、清は自由貿易時代に突入するが基本的には貿易黒字であった。
イギリスの物産に清国内で商品価値を持つものがなかったからである。
或いは距離が遠すぎて輸送費がかかりすぎ、日本の同種製品との価格競争に勝てなかった。
反対に大量の紅茶と陶磁器の輸出で、イギリスは巨額の赤字を抱え込むことになった。
そのため、焦ったイギリスはアヘン輸出を画策するが、清は日本の失敗を目の当たりにして薬物取締を強化しており、アヘンは全く浸透しなかった。
清の政治体制は旧弊を極めていたが、他山の石から学ぶ程度の能力は残っていた。
ちなみに日本の対清貿易は黒字であった。
これは清が洋務運動に必要な様々な工業設備や武器弾薬を専ら日本から仕入れていたためであり、海軍近代化のために日本から中古の海軍艦艇が売却された。
清の近代化改革を推進したのは、もっぱら兵器であった。
日本製の兵器は太平天国の乱の鎮圧に活躍した。
太平天国の乱は中華の王朝国家衰退期にありがちな宗教者による反乱であった。
キリスト教の影響を受けたカルトが政治に不満をもつ民衆を先導し、暴徒と軍隊のカクテルが雪だるま式に膨れ上がっていった。
南京前面にまで迫った太平天国軍を敗走させたのは、日本から購入した蒸気式河川砲艦とクニトモライフルだった。
1853年3月、清軍は南京から撤退すると見せかけて反乱軍に長江を渡らせると蒸気式河川砲艦で退路を断ち、包囲殲滅に成功した。
太平天国はこの時20万人近い大兵力を有するまでになっており、ジャンク船主体の河川水軍まで保有していた。
しかし、木造のジャンク船は蒸気式河川砲艦には全く無力で一方的に蹂躙された。
退路を絶たれた反乱軍は自殺的な突撃を敢行したがクニトモライフルや日本製山砲の砲撃によって為す術もなく全滅した。
後部装填式のライフル銃や近代的な大砲の前に、前時代のマスケット銃や刀剣で武装した軍隊は全く無力だった。
この戦いで主要な幹部が戦死した太平天国軍は組織行動が不可能になり、1854年11月までに反乱は終息に向かうことになる。
上述の包囲殲滅戦を指揮したのが、中華帝国軍初の元帥となる楊威利将軍だった。
李鴻章の腹心であった楊将軍は、この戦いで一躍時の人となり、日本にまでその名を知られるようになった。
上役の李鴻章もまた清朝の重臣筆頭として躍進し、同治帝の母・西太后から厚い信頼を寄せられ、洋務運動に奔走することになる。
それまで清朝は洋務運動に否定的な保守派が幅を利かせていたが、太平天国の乱で力を見せた圧倒的な列強国の兵器を目にして、ようやく保守派も軍備や産業の近代化に同意した。
清朝にとって幸いだったのは、太平天国の乱と同時期、ヨーロッパ列強のイギリス・フランス・ロシアはクリミア戦争を戦っており、内乱に介入することが不可能だったことだろう。
そうでなければ、中華世界は列強の草刈場になっていた。
唯一、同時期に中華世界を蚕食できる能力を持っていたのは大日本帝国だけだった。
当時の日本は独自の思惑から大陸への進出を自粛していた。
清が弱体化することで他の列強国の植民地に転落することを警戒していたのである。
特にロシアの南下に対する防波堤として、清の利用価値は大きかった。
大陸に同盟者を欲していた日本は、清の洋務運動を歓迎し、最大の援護者となった。
ベトナム(院朝)や台湾王国、琉球王国といった冊封国についても、清との緩衝地帯として利用できるため日本は植民地化を避けている。
ただし、日本国内にも帝国主義や大陸進出を主張する人物がいないわけではなかった。
だが、アジアへの進出を強化するロシアの圧力を単独で支えられると考えるほど日本人は自信過剰ではなかった。
アヘン戦争の記憶はまだ生々しい時代である。
イギリスが敵に回る可能性もあったから、日本の危機感は切実だった。
当時の日本の国家安全保障上の悪夢とは、イギリスとロシアが手を組んで日本を挟撃することである。
イギリスと同盟を結びロシアの南下を抑える戦略は国内世論が許さなかった。
国家の毒であるアヘンを撒き散らしたイギリスと手を組むことは不可能だった。
ロシアは日本と妥協するそぶりがなく、陸でロシアに向き合う同盟者が大陸には絶対必要だった。
陸で清がロシアを食い止め、日本はイギリス海軍に対抗できるだけの海軍を建設することが日本の基本的な国防方針だった。
この方針は、21世紀現在でも日本の基本的な国防政策であり、日本陸軍の総兵力が20万足らずで済んでいるのは中国との友好関係に依るところが大きい。
日清の紐帯に対する最初の試練は、1860年の清露戦争であった。
清露戦争はロシア帝国東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフが武力を背景に外満州の割譲を迫り、それを清が拒否したことで勃発した。
それまで列強国との全面衝突を巧妙に避けてきた清であったが、父祖の地である満州に食指を伸ばすロシアに対しては忍耐の限界に達しており、戦争回避は不可能だった。
開戦前夜の状況で、李鴻章は日本から武器援助と参戦の確約を取り付け、ナポレオンを倒した軍事大国ロシアとの戦争に備えた。
当初、軍事恫喝によって清から簡単に譲歩を引き出せると考えていたロシア帝国は、清の強い拒絶姿勢に驚かされた。
さらに日本が、
「我々は決して座視しない」
と強い口調で警告を発したため、焦ったロシア帝国皇帝ニコライ1世はムラヴィヨフの恫喝を止ようとした。
しかし、遠いシベリアに命令書が届く前にコサック騎兵が国境を突破し、なし崩し的に宣戦布告せざるえなくなっていた。
開戦初期、12,000人のコサック騎兵が、速やかに外満州に侵攻して各地で清軍を撃破していった。
あっけない勝利にニコライ1世はムラヴィヨフにさらなる進軍を指示している。
しかし、撃破された清の兵士は降伏せず逃散して後方でゲリラ活動を開始し、補給線を締め上げていた。
ムラヴィヨフは不安を感じていたが、皇帝の命令には逆らえずにコサック騎兵にさらなる前進と戦果拡大を指示したが、その不安は的中することになる。
全ては対ロシア戦の全権を任された楊威利将軍の計略であり、得意の誘引包囲殲滅戦に持ち込むため満州奥地へとコサック騎兵を誘っていたのである。
さらに警告どおり日本がロシアに宣戦を布告、日本海軍の主力艦隊がニコラエフスク沖に現れ、同地のロシア極東艦隊を一日で全滅させた。
帆船スクーナのような小型船主体のロシア極東艦隊を相手に蒸気戦列艦を投入した日本のオーバーキルだった。
ニコラエフスクには海兵隊が上陸して占領した。
日本の河川砲艦がアムール川を遡上し、満州奥地に入り込んでいたコサック騎兵の背後を遮断した。
コサック騎兵は、分散して撤退を試みたが引き返してきた楊将軍直卒の洋式装備満州騎兵に各個撃破される結果に終わった。
馬を失って徒歩で撤退するコサック騎兵の末路は悲惨で、ゲリラとなった清軍歩兵に捕まると死よりも恐ろしい運命が待っていた。
日本海兵隊と河川砲艦隊はシベリア奥地にまで進撃し、防備の整っていないロシア軍を撃破していった。
シベリアへの逆侵攻を招いてしまったムラヴィヨフは解任され、ニコライ1世は日清との停戦交渉に入らざるえなかった。
シベリア鉄道開通前の極東は、ロシアにとって遠すぎる場所だった。
日清もイギリスの動きが気になっていたので早期停戦は望むところであった。
新たに結ばれた北京条約によって、清はアムール川左岸とウスリー川以東の外満州の領有をロシアに認めさせ、治外法権や領事裁判権などの不平等条約を解消することに成功した。
露清戦争は、結局一年足らずの局地戦に過ぎなかったが、清が時代遅れの王朝国家ではなく、強力な牙を備えた獅子であることをヨーロッパ列強に知らしめることになった。
「眠れる獅子が目覚めた」
として欧米列強国は清に対する評価を改め、日本の海軍力が強力であることを確認した。
ロシア軍はクリミア戦争に続いてその前近代ぶりを示し、国威を落とすことになった。
なお、日本は助太刀と武器の代金として、外満州の一角に租借地を得た。
中国語でナマコの入江を意味する海参崴は、冬季にも凍らない天然の良港であり、貿易港としても軍港としても一級の立地条件を備えていた。
さすがにこの名称はどうかという議論があり、租借からしばらくして北を鎮めるという意味を込めて北鎮と名付けられた。
もしもロシアがこの戦争に勝利して、外満州を支配していたら「東方を支配する町」(ウラジヴァストーク)といった品のない名付けになっていたかもしれない。
北鎮には日本の手によって近代的な要塞と軍港が建設され、満州における日本の一大拠点に発展することになる。
父祖の土地である満州の一角を日本に明け渡すのは清国内でも異論があったが、
「夷を以て夷を制す」
という中国古来の政治的な格言により最終的に認められた。
北鎮から内陸へ日本の借款によって鉄道路線が敷かれ、満州の開発が大きく進むことになる。
借款は株式という形で返済され、日清共同経営の満州鉄道株式会社となった。
なお、初代満鉄の日本理事には吉田寅次郎が就任した。
吉田は日本で鉄道大臣を歴任した人物であり、鉄道建設のスペシャリストであったからこの人選は当然の結果であった。
しかし、吉田は武力による大陸進出論を唱えるナショナリストとして有名な人物であり、不安がないわけではなかった。
吉田は満州に鉄道を張り巡らすことによって日本の経済進出を加速させ、持論の大陸進出論を実現しようとしていたとされる。
しかし、清の近代化の実情を知り、理事職の後半には武力による大陸進出論から日清共栄圏へと持論を転換した。
吉田の事業は弟子の高杉晋作に引き継がれた。
ちなみに吉田の大陸進出策の変形として、朝鮮を同盟者として朝鮮半島北部でロシアの南下を食い止める朝鮮盟友論がある。
しかし、朝鮮との外交交渉がことごとく失敗に終わったため空論に終わった。
1864年7月1日に、日本は朝鮮に外交団を送って開国交渉と近代化援助を申し入れたが、拒絶された上に外交団を朝鮮軍が襲撃するという最悪の結果に終わった。
襲撃があったのが7月7日だったことから、血の七夕と呼ばれるこの殺傷事件は、日本国内世論を憤慨させた。
報復に江華島にあった砲台を日本海軍の戦列艦12隻が徹底的に砲撃、破壊した。
所謂、江華島事件である。
その後、台風接近により艦隊は一時、江華島から撤収したが、それを朝鮮王国は日本艦隊撤退と受け取り、一方的に勝利宣言をして謝罪と賠償を要求する始末だった。
これには明智光英も失笑したとされる。
李鴻章が慌てて仲介に乗り出したこともあって、日本は朝鮮から手を引いた。
ただし、賠償として済州島を占領し、島民を全員追放して領土へ編入した。
その後、朝鮮は清によって植民地化が進み、1885年に独立派によるクーデタが勃発した。
クーデタ首謀者の金玉均は一時的に政権を掌握したが、清と保守派による巻き返しに遭って日本に介入を依頼した。
事件当時、首相を務めていた徳川慶喜は、
「御冗談仕る」
と一蹴した。
その後、亡命してきた金玉均を不法入国で逮捕し、朝鮮当局に引き渡した。
金玉均は漢城で凌遅刑に処されて果てた。
徳川慶喜の政治的な冷酷さにまつわるエピソードは数多いが、金玉均引き渡しはその最たるものの一つとして記録される。
以後、朝鮮は独立性のあった朝貢国から完全な植民地に成り下がった。
初代朝鮮総督として、清から派遣されたのは袁世凱であった。
李鴻章の腹心であった袁世凱は、派遣先の朝鮮があまりにも貧しい国であることに驚き、日本に朝鮮を売却することを李鴻章に提案している。
現地の実情を知った袁世凱は、この地を治めることが清にとって重荷にしかならないことに気がついていた。
歴代の清朝皇帝が朝鮮を朝貢国に留め、完全に征服しなかったのはそれなりに理由があったわけである。
しかし提案直後に袁世凱が朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺されたため、この構想は実現しなかった。
また、朝鮮売却が実行に移された可能性は低いと思われる。
タイやベトナム(院朝)、台湾王国、琉球王国が朝貢を停止して、日本との外交関係を構築して、冊封体制の崩壊に直面した清朝にとって朝鮮という植民地獲得は大きな政治的得点だったからである。
保守派の首魁であった西太后が李鴻章の説得を受け入れ、憲法制定と立憲君主制導入に同意したのも朝鮮獲得がなければ不可能だっただろう。
1895年8月6日に中国初の近代憲法(中華帝国憲法)が制定され、一院制の帝国議会も設置され政党政治も始まった。
国号も、王朝国家からの決別という意味を込めて大中華帝国と改められた。
中華帝国憲法はドイツ憲法を模範としたもので、君主権が強く、統帥の独立や議会に対して皇帝が拒否権を持ち、勅令で予算編成が可能なため議会の力が弱いことや、皇帝親族で構成される枢密院が違憲審査権や条約審査権を持ち内政・外交に口出しができたりするなど、近代憲法としては不完全な部分も多かった。
しかし、半世紀に及ぶ洋務運動の結果としては大きな意義のあるものだった。
李鴻章は初代首相に選出され、1898年までその地位にあった。
その死後、政治的な資産は部下の楊威利が引き継いだが、軍事的な才覚と反比例して政治的には全く無能であった楊威利は、発展著しい政党政治に道を譲った。
21世紀現在、李鴻章は中国において救国の宰相として広く尊敬を集めている。




