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本能寺戦争



 本能寺戦争


 1848年10月17日、本能寺の変。

 大塩平八郎の乱に続く、衝撃の第二波は明智によるクーデタであった。

 クーデタを起こした明智光英は京を制圧すると新政を宣言し、幕府を廃した全く新しい政体を構築する方針を示した。

 明智が発表したのは、今日では五箇条の誓文と呼ばれる国是である。

 内容は以下の通りである。


 1 広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 2 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

 3 庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

 4 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

 5 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。


 まず第1条に議会の開設と民主主義デモクラシーの採用を謳い上げていた。

 第2条の経綸とは経済の振興を意味しており、身分の上下なく国民が団結をして経済を振興するという意味である。

 第3条は国民全員一人一人がそれぞれの人生をより良く生きるために、各々の自覚と努力を求めたものだった。

 第4条の旧来の陋習とは封建制度を指し、身分制度の打破を表す。

 第5条は学究を極めて科学技術を振興し、天皇を君主とした国家を繁栄させることを目的としている。

 大塩の乱もまだ完全な収束を見ていない状況で起きたこの大事件は新聞報道によりすぐに日本全国に広まり、大騒ぎとなった。

 将軍とその後継者が同時に殺害されるなど前代未聞であり、当時の伝統的な価値観の持ち主からすると、例えようもない禁忌だった。

 その禁忌を犯した明智が民主主義を掲げて新政を行うなど、保守反動にとっては全く理解の外にあった。

 はっきり言えば国を滅ぼす天魔の所業であった。

 自由主義者や民権論者にとっても明智の新政は、手放しでは賛成しがたいものであった。

 君主を倒して共和政体を打ち立てるのは民衆の力によってなされるべきことであり、家臣が主君を弑逆して行うことではなかった。

 革命とクーデタはどちらも非合法であったが、心の距離は大きなものだった。

 さらに自身の正当性を確保するため天皇の存在を持ち出してきたため、共和主義者から激しい非難を浴びることになった。

 主家殺しとクーデタという二つのアキレス腱を抱えた明智光英であったが、本人は至って飄々としていたとされる。

 

「謀反は、武家の習いにて」


 などと嘯き、新聞記者を唖然とさせた。


 しかし、240年間も織田家に仕えてきた明智家が、ここに至って突如として謀反を起こしたことは誰の目から見ても奇異なことだった。

 明智家の始まりは、織田信長に仕えた明智光秀に始まる。

 明智光秀以前の明智については、諸説があるが清和源氏の土岐氏支流と考えられている。

 ただし、明智光秀自身は父親の名前の不詳ということから身分の低い分家筋であったと思われる。

 信長に仕える以前の光秀がどこで何をしていたのかは不明な点が多く、本人も確たる後記を残さなかったことから現在に至るまで判然としない。

 しかし、主家である斎藤氏を離れて朝倉氏に仕え、そこで室町将軍足利義昭と接触を持ち、幕府に仕官したことが彼の転機となった。

 やがて義昭は、上洛に同意しない朝倉氏を見限り、尾張から美濃を獲った信長を頼ることになる。

 光秀は信長と義昭の橋渡し役となり、重用されるようになった。

 信長からの信頼は厚いものがあり、坂本に領地を得て、丹波・丹後を平定。丹後国の長岡細川藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属される。

 これにより光秀は、丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍の総司令官となった。

 正式ではないが、畿内管領とも称された。

 畿内は信長の本拠地であり、その差配を任されるということは、信長の最側近であることを意味してる。

 光秀が幕臣から信長の直臣となったのは、義昭と信長の対立が表面化した1571年以後のことであり、柴田・丹羽・羽柴・滝川といった後の五大老の中では最後発組である。

 にもかかわらず、信長の最側近となったのはその卓越した才覚であるが故にである。

 つまり、家中の風当たりは強かった。

 外様の多い織田家にあっても、最後発で最側近とは生半ことではない。

 信長の弟信勝は、光秀の能力を危険視し、常に監視させていたことが分かっている。

 信勝と光秀の暗闘は最終的に信勝の勝利に終わり、1583年に明智家は畿内から出雲・石見へ国替えとなった。

 光秀は、中央から外された形となったが、これは他の織田家重臣も同様であり、柴田は越後へ、丹羽は伊予・讃岐、滝川は甲信、羽柴は筑前・筑後へ移されている。

 首都である大阪近辺は一門衆で固め、遠方に大身の重臣を配置することで外様の監視と重臣謀反に備えるための措置であった。

 光秀は、信長の死から3年後の1591年1月14日に病没した。

 信長の死を機に出家し、南光坊天海を名乗っていたことで知られる。

 以後、明智家は五大老の一角として大阪幕府で重きをなしたが、その栄光は短いものだった。

 明智家の石見・出雲の統治は石見銀山の収入に頼ったものである。

 その石見銀山は玄禄年間には産出量が減少し、19世紀になるとほぼ閉山に近い状況となった。

 広大な領地に比例して大量の家臣を抱えていた明智家の財政状況は悪化し、五大老としての職務さえままならない状態となって、八代将軍の吉信の時代には五大老制は廃止される。

 以後、明智は地方の貧乏大名に没落し、光英の代を迎えた。

 明智光英は、フランスに留学して優秀な成績を修めて帰国するなど、零落する明智家にあって将来を期待される逸材だった。

 その期待に、光英はよく応えたといえる。

 財政難を理由に大塩平八郎の乱の鎮圧には参加せず、柴田家と滝川家を矢面に立たせて消耗させ、機を見て将軍信慶と嫡男信定を葬った。さらに臨時政庁の二条城を電撃的に制圧し、国家の中枢を制圧した。

 他の大名家で、1848年時点で京都近辺に軍事力を展開できる者はなく、民主主義国家の建設を標榜することで大塩残党(共和主義者と民権論者)、天皇を担いだことで保守の勤王派を同時に取り込んだ手腕は見事というほかない。


「初代様の再来」


 と謳われたのも無理からぬことであった。 

 これは近世明智家の初代である明智光秀が悪辣な策略を得意とした事績を踏まえたものである。

 京を制圧した明智軍は、1849年1月3日、大阪に向けて進撃を開始した。

 鳥羽伏見にて丹羽・織田連合軍と戦闘状態に入ったが、これを難なく退けた。

 勝因は、明智軍が二条城の武器庫から奪った新式国友銃(クニトモ・ライフルM1848)であった。

 特殊な円錐形弾丸を使用するこのライフル銃は、マスケット銃の3倍近い射程と破壊力を備えており、陸軍にもまだ少数しか配備されてない秘密兵器であった。

 似たような仕組みのライフル銃が同年、フランスで開発されミニエー銃として広く知られることになるが、日本でも同じものが既に完成していた。

 丹羽・織田連合軍(紀州・阿波織田家)は、15,000の軍勢であり、明智軍の3倍近い兵力であったが武装はマスケット銃であり、新式国友銃の相手にならなかった。

 さらに紀州・阿波織田家の軍は連携が恐ろしく悪く、相互支援もなく軍を前進させたことから各個撃破の形となった。

 織田信孝、信雄の不仲は終いまで直らなかった。

 明智軍は駄目押しとして錦の御旗を投入したが、錦旗がなくとも大勢は決しており、丹羽・織田連合軍は大阪へ逃げ帰った。

 この時点で、朝廷は明智光英に錦旗を授けておらず、光英が手にしていたのは偽物であったが効果は覿面であった。

 丹羽・織田連合軍の残党は大阪に逃げたが、大塩の乱から引き続き大阪の治安維持に当たっていた幕府陸軍は彼らの受け入れを拒絶し、銃を向けた。

 幕府陸海軍は将軍直轄の国軍であり、大名に指図される謂れはなかった。

 幕府陸軍は丹羽・織田軍の逃亡兵を捕縛し、明智軍を大阪に引き入れる先導役を果たした。

 明智光英の大阪城入城は、1849年1月9日のことである。

 同月13日には、朝廷から正式に天下静謐執行権の勅許が下った。これは光英に国内の治安維持に関する全権を委任するものであった。

 主家殺しとクーデタという非合法政権であった明智に正当性を与えたのは朝廷だった。

 大阪城で記者会見を開いた光英は報道陣に対して


「下が天に、天が下になる政治にて候」


 と述べて、改めて民主主義国家の建設を表明した。

 その上で王政復古し、


「天は君臨すれど統治せず」


 という21世紀現在まで続く象徴天皇制の採用を決めた。

 新政府の立法機関として、二院制議会を開設し、上院を参議院、下院を衆議院とすることも併せて発表された。

 参議院は大名や公家を勅撰議員とし、参議院議員の投票によって首相を選出することとし、選挙開催のため全国の大名に大阪城へ登城することを求めた。

 付け加えて、これを拒否することは、朝廷に対する反逆であるとした。

 光秀の新政権構想に接した大名家の反応はまちまちであった。

 即座に参加を決めて上阪したのは明智家に連なる細川家や筒井家であった。さらに徳川家も支持を表明した。

 島津、毛利、長宗我部、上杉、伊達といった外様大名は日和見な態度に終始し、織田家に連なる柴田、丹羽、滝川、豊臣、蒲生は勅許を偽勅として明智討伐を表明した。

 関東織田家当主織田信行もまた同様に主家殺しの明智討伐軍を起こした。

 柴田、丹羽、滝川、豊臣、蒲生と関東織田家の国力、兵力は明智家を完全に圧倒しており、負けるはずのない必勝の体制であった。

 しかし、幕府陸海軍が新政府支持を表明したことで大勢は決した。

 京都に疎開していた幕府の政庁は二条城にあり、幕府陸海軍の軍監本部もまた同時に明智の手に落ちていたことから、この成り行きは当然の結末だった。

 財政難にあえぐ諸侯の軍隊など全く問題にならない軍備を備えた国家軍が直ちに反動勢力の鎮圧に出動した。

 岸和田の第1師団が、紀州織田家を制圧し、第3師団が海軍の護衛のもとで渡海して淡路島、讃岐へ上陸。第5師団が博多に上陸して豊臣軍を一蹴した。

 海軍艦艇が浦賀水道を封鎖すると江戸湾の海上交通はただちに麻痺し、横浜には飢餓地獄が迫った。横浜は食料の輸送を海上交通に頼っており、浦賀水道の封鎖は致命傷であった。

 さらに横須賀鎮守府から海兵隊が出動し、織田軍の抵抗を排除して横浜城を占領した。

 織田一門衆であった会津の蒲生家は最後まで抵抗したが1849年4月までに会津若松城が陥落し、日本国内から抵抗勢力は一層された。

 武士の軍隊は近代的な国家軍には全く刃が立たず、内戦は明智の完勝に終わった。

 日和見を決めていた外様大名達は急ぎ上阪して、朝廷から勅撰議員の任を拝した。

 参議院による第1回首相選出選挙は、1849年5月3日に行われ、全会一致で明智光英が初代首相に選出されることになる。

 首相就任に際して光英は、


「時代は下剋上にて候」


 と述べて、実力がある者、能力がある者がしかるべき地位に就ける実力本位の社会を目指すことを宣言した。

 自分自身がそうであるように、社会のあらゆる階層から立身出世を目指すことを肯定したのである。

 大塩平八郎の乱から本能寺戦争を経て、明智光英の首相選出までの1年間の内乱と政変を1年戦争とするのが一般的である。

 自由主義者や民権論者の立場からすると1年革命となる。

 内乱が僅か1年で終息に向かったことから、諸外国が介入することはできなかった。

 また、呂宋や大蘭州、東南アジアの植民地についても、独立運動家が動き出す前に決着したことから、分離独立とはならなかった。

 海外の植民地は基本的に幕府天領であったから、そのまま日本の領土に編入された。ミンダナオ島やボルネオ島のイスラム教国保護国についても同様である。

 240年前の戦国時代とは異なり、近代軍隊の展開速度と火力は圧倒的だった。

 蒸気船は風向きや天候に関係なく輸送を可能とし、ライフル銃の圧倒的な火力と射程はマスケット銃や刀剣で武装した武士の軍隊を容易く粉砕した。

 産業革命が武士の時代を終わらせたと言っても過言ではないだろう。

 以後、明智光英の統治は22年間に及ぶが、この間に殆どの政治的近代化が成し遂げられた。

 1851年には全ての藩を廃止して、県に置き換える廃藩置県が断行され、藩という小さな領国は消えてなくなった。

 大日本帝国憲法の発布は1853年である。

 憲法では天皇を主権者と規定しつつも統治者とはせず、フランス憲法を参考にして自由主義と民主主義を取り入れ、天皇の元に全国民の平等と権利の保護を規定していた。

 併せて施行された普通選挙法によって25歳以上の男子全員が選挙権を得た。

 同年の第1回衆議院選挙では、与党が勝利し、第二次明智内閣が発足している。

 憲法発布に併せて近代的な法体制が整備され、アヘン戦争から10年目の不平等条約改正交渉によってイギリスは治外法権を失った。

 クリミア戦争でロシアと戦っていたイギリスは、条約改正交渉がこじれて日本が復讐戦争を挑んできた場合、最悪の事態に陥るため譲歩するしかなかったのである。

 フランスも同様だった。

 日本はクリミア戦争中にロシア帝国に武器弾薬やフリゲート艦を売却するなど、ロシアを背後から支援していた。

 1853年7月8日、憲法発布を祝してアメリカ合衆国から親書交換のために軍艦が浦賀に来航した。

 浦賀に現れたのは蒸気フリゲート艦サスケハナ(2,450t)であった。

 サスケハナは外輪式の蒸気フリゲートで、防腐防錆のため船を黒く塗装していた。

 そのため非常に目立ったことから見物人が多数押し寄せた記録が残っている。

 ちなみに幕府海軍はアヘン戦争以後、スクリュー推進船の建造に励み、外輪式推進のフリゲートは一隻も建造していない。

 防御上の弱点を船体中央にさらす外輪船のような旧式なものをわざわざ作る意味はないのである。

 黒の防錆塗装も非常に目立つため戦術的に不利であり、とっくの昔に廃止されていた。

 サスケハナは特徴のない旧式艦であったが、祝賀の使者であることから丁重に遇され、最新鋭スクリュー推進式蒸気フリゲート艦「雲龍(2,615t)」がサスケハナのホストシップを務めた。

 ただそれだけの話である。

 後に太平洋を二分する超大国日本とアメリカにも、このような細やかな時代があったことは記憶されるべきだろう。

 明智光英は1871年まで首相の座にあり、引退した2年後の1873年11月5日に馬車の暴走事故によって死去した。

 日本の近代化を成し遂げた不世出の英雄とされる者の死としては平凡なものであった。

 ・・・なお、近年の歴史研究の進展によって、上記の評価は見直されつつある。

 というのは、そもそも本当に明智光英は近代化改革のため権力を簒奪したのか、疑問視されるようになったからだ。

 本能寺の変は、光英が改革が進まない現状に業を煮やして、将軍を排除してドラスティックに体制を転換させるために行ったと説明されてきた。

 こうした通説に対する反論として登場したのが、借金返済説である。

 光英が明智藩の当主となった1835年時点で藩の借金は500万両にも上った。

 明智藩の年間歳入が12~15万両で程度であったことから、これは返済不能だった。

 借金返済のために藩営のアヘン販売所や地下銀行を経営するなど、藩主時代の光英はなりふり構わない増収策を推し進めた。

 本能寺の変に際して明智軍は二条城を占拠、城に蓄えられていた織田家の軍資金240万両余りを持ち出している。

 さらに京の公家衆や寺社、富裕層からも革命資金の調達と称して資産を没収している。

 廃藩置県の段階でも、明智藩には120万両の借金が残っていたが、廃藩置県によって借金を全て国庫に肩代わりさせている。

 藩の借金を国庫で返済したのは、他の藩も同様であり、廃藩置県を円滑に進めるためには止む得ないものではあったが、何事か違和感を覚える話である。

 さらに光英が推進したとされる近代化改革も、その殆どは大阪幕府によって事前に準備し、実施されようとしていた改革であった。

 憲法に関しては、1845年の時点で幕府官僚によって草案が作成されており、大日本帝国憲法はそこから民権論者に配慮した内容に書き換えたものである。

 民権論者が問題しなかった部分については、幕府の草案と一字一句同じままだった。

 近代法令に関しても幕府で作成されていた草案がそのまま使用されている。

 このようなことがなぜ起きたのかといえば、明智が標榜した新政府は実際には大阪幕府の官僚組織の看板を付け替えただけの存在だったからである。

 新政府内部においては、


「奉行が大臣に変わっただけ」


 と揶揄されるほどであった。

 本能寺の変とは、明智による幕府の乗っ取りで、政府の存在そのものを破壊する革命とは全く異なるものだったと言える。

 クーデタとはそういうものといえばそれまでの話だった。

 日本の一地方領主に過ぎなかった明智家に、西太平洋全域に広がった巨大な日本の国家運営など不可能なのは言うまでもないことであり、新政府とは幕府の看板の付け替えにすぎなかった。

 その他、光英の功績とされてきたものの大部分は剽窃だったことが判明している。

 経済関係の諸改革については、薩摩藩の島津斉彬公によって実施された。

 島津公は外様大名として初期から新政府に関わった人物の一人で、商務省大臣として辣腕を振るった。

 1858年に急死するまでその地位にあり、島津公によって引き上げられた西郷隆盛、大久保利通らの若手官僚・政治家は数多い。

 光英は同盟者として外様大名を重用し、積極的に人材を登用した。

 織田家やその親族、重臣の多くを粛清した関係上、外様大名を頼る他なかったとも言える。自分自身の側近と呼べる家臣にこれといった人材に恵まれなかったことも大きかった。

 明智新政府によって推進された鉄道事業に関しても、光英はこれといった指導力を発揮した形跡はない。

 毛利家から中央政界にあがった吉田寅次郎という若手官僚が、猛烈な勢いで鉄道を日本全国に敷設したのを掣肘しなかっただけである。

 日本は島国であったことから海運は盛んであったが、陸上交通はさほど重視されなかったため鉄道敷設が遅れていた。

 吉田はイギリスに留学した毛利家の若手官僚の一人で、鉄道の普及を強く訴え、光英がそれに乗ったという構図である。

 最終的に吉田は鉄道大臣を12年も務め、数多くの毛利家家臣を新政府に引き上げて、長州閥と呼ばれる派閥を作り上げるほどになる。

 長州閥は桂小五郎や高杉晋作などといった人材を輩出し、新政府内の一大勢力となった。

 これは余談だが、日本の鉄道建設は吉田の留学先であるイギリスの国鉄を殆どフルコピーする形で行われた結果、日本の軌間は国際標準軌 (1,435 mm)となった。

 より工事の容易な狭軌を推す声もあったが、吉田が断固として標準軌にこだわったことは、工事費用を増大させることとなったが、後に輸送需要が逼迫した際に吉田の判断が正しかったと証明されている。

 蒸気機関車や客車はイギリスからの輸入であったが、平行して国産機関車も用意されており、イギリス一辺倒というわけではなかった。

 日本で最初に蒸気機関車を製造したのは北崎重工で、日本初の鉄道路線開通は1860年の大阪神戸間であった。

 さらに余談だが、新政府内部で長州閥、薩摩閥に比肩する派閥を作り上げたのが、徳川家である。

 大阪時代の240年のうちに徳川家は三河一国まで縮小していたが、海外投資に成功してジャワ島やスマトラ島に広大な農園をえていた隠れ大大名であった。

 本能寺の変において、細川や筒井と並んで早期に明智支持を打ち出して勝ち馬に乗ることに成功し、徳川慶喜は初代家康の再来と讃えられた。

 徳川閥は海外に資産を持つ関係で、外交や投資に明るく小栗忠順、渋沢栄一といった人材を輩出している。

 徳川慶喜自身は純日本人であったが、ジャワ島に土着していた関係上、徳川閥の有力者は混血が進んでおり日本人としては顔が濃いものが多かったことで知られる。

 徳川閥の旗手であったジャワ海舟などは肖像が残っており、西大西洋全域に散った日本人の有り様をよく示している。

 話が逸れたが、明智光英の自由主義・民主主義革命者としての評価も、今日においてはほぼ完全に否定されている。

 何しろ光英は議会制民主主義国家において必ず通過するはずの選挙の洗礼を一度も受けていないのである。

 最初から最後まで光英は勅撰議員のままで首相であり続け、引退するまで一度も議会答弁に立っていない。

 光英は選挙をつまらないものとみなしており、ただの一度も立候補しなかったし、投票にいくこともなかった。

 明智光英は、結局のところ、偉大な機会主義者でしかなかった。

 巡ってきた機会を最大限に活かすためには、自由民主主義の守護者を演じることもできたし、主家殺しの汚名をそそぐために尊王家として振る舞うこともできた。

 将軍殺しについても、


「不慮の儀である」


 と後述しており、クーデタが成功したのは殆ど運であった。

 たまたま目の前に将軍がいて、前後の状況からクーデタが上手くいきそうだったので殺したというのが真相であった。

 その後の諸政策や民主化政策については、後付の理屈であり、そうすることで世論の支持を集めることが目的で、彼自身は自由民権論に対する理解はなかった。

 尊王家であったことも、政権の正当性を後付するための方便であり、光英自身には全く尊王の念はなかった。

 そうでなければ、


「あれは正月の飾り」


 などという言葉は出てこないだろう。

 光英は権力を権力として愛する漢だった。

 それを手に入れるためには将軍を殺すし、手に入れた権力を保持するためには自由民権論も尊王も憲法制定でも、鉄道建設でも、手当たり次第に利用できるものを全て受け入れる人間であった。

 明智光英が端倪すべからざる政治家であるのは、その一点に尽きるといえる。





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― 新着の感想 ―
[一言] むしろ不純な動機の方が人間らしくて信用できるわ
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