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敵はナポレオン



敵はナポレオン



 1789年7月14日、怒れるフランス民衆が火薬庫として使用されていたバスティーユ牢獄を襲撃した。

 武器を入手した民衆は、ヴェルサイユ宮殿に乱入し、国王ルイ16世を捕らえてパリのテュイルリー宮殿に連行した。

 これを日本に置き換えると大阪町民が大阪町奉行所の武器庫を襲撃し、将軍を拉致して京に連れ去ったという風になるだろうか。

 フランスは、五代目将軍織田信綱の時代からの友好国であり、日本商館や公館がパリにあったことから、情報は正確に、迅速に伝わった。

 だが、第1報を受け取った十代目将軍織田定信は、これといった反応を示さなかった。

 定信の日記にも、


「なにごともなし」


 としか書かれてない。

 単なる民衆暴動であると判断したためである。

 民衆暴動は日本でもしばしば起こっており、天梅の大飢饉(1782~1788)の時は、日本全国で百姓一揆や打ちこわしがおきている。

 この時、定信はまだ将軍ではなかったが、父織田信武を補佐し、連枝処の一員として飢饉の対応に奔走している。

 定信は呂宋米や泰米などの外米緊急輸入を献策し、米価を安定させることに成功。さらに日本全国でのサツマイモやジャガイモの栽培を奨励。飢饉の爆心地であった東北を中心に、大量の移民船団を編成し、危機を乗り切った。

 これが天梅の民と呼ばれる人々で、1782年から1792年の10年間で当時の日本の人口の一割にあたる300万人が海を渡った海の民族大移動である。

 東南アジアや大蘭大陸のあちこちに、日本の東北地方の地名があるのはこのためである。

 蘭州に東北民が残した足跡は数多く、蘭州の日本語は概ね、東北の方言に準じており、日本語の中でも特に聞き取りづらいことで知られる。

 また蘭州の特産品に豆類があるが、それを利用した緑色の餡を使用した餅が蘭州で広く食用されるのも概ね天梅期の移民により東北地方の文化が伝わったためである。

 蘭州に根付いたのは東北民だけではなく、狩猟犬として越後から移入された蘭州犬がある。

 大型の蘭州犬は本国では交雑が進み絶滅したが、蘭州で純血種が保存され20世紀後半に本国に逆輸入されて秋田犬として復活を果たした。

 話がそれたが、定信は危機対応の手腕を高く評価され、他の後継者候補を押しのけて将軍の座を射止めることに成功した。

 そんな定信をしても、フランス革命の意義を第1報で正確に読み取ることは不可能だった。

 しかし、第2報、第3報が届くに従って、それが単なる民衆暴動ではなく、唐の国に見られる易姓革命であると認識するようになった。

 よってすぐに新しい王が立つと思われた。

 細かい問題は、新王と交渉すればよいのである。

 しかし、その予想は裏切られ、どれだけ待っても新しい王が立つことはなかった。

 民衆革命により、共和制国家が誕生したことに定信は恐怖した。

 封建制軍事独裁政権の日本で、共和制国家というのは禁忌の存在である。

 そういう意味では、アメリカ合衆国も同じぐらいに日本にとって理解不能な存在であり、1783年に独立戦争が終わっても未だに国交がなかった。

 黙殺といっても過言ではなかった。

 可能なら友好関係にあるブルボン王家のためになにかしたいと考えていたが定信だったが、遠いヨーロッパを相手に地球の反対側にいた定信ができることは何もなかった。

 とりあえず、幕府の対応は様子見とパリの公館と商館をロンドンに移し、邦人を脱出させるぐらいしかなかった。

 以後、日本のヨーロッパでの政治拠点はロンドンに移る。

 革命政権から距離をとる日本外交は功を奏してグレートブリテン王国から1793年第一次対仏大同盟の参加打診があった。

 第一次対仏大同盟の参加国は以下のとおりである。


 オーストリア

 南ネーデルラント

 グレートブリテン王国

 ナポリ王国

 プロイセン王国

 サルデーニャ王国

 スペイン王国

 日本(大阪幕府)


 全周包囲であり、間違いなく必勝の態勢であった。

 さらに復権を狙うルイ16世の内通があり、フランス軍の動きは筒抜けである。

 それでもイギリスが日本に同盟参加を打診したのは、日本がフランスに与して、東南アジアのネーデルラントの植民地を侵略しないようにするためだった。

 定信にそのつもりは全くなかったが、イギリスの外交筋は強かだった。

 対外戦争に対する忌避感や慎重論もないわけではなかったが、援軍の派遣なども求められなかったので同盟に名前を貸しただけでということで、幕府や国内の調整も落ち着いた。

 この大同盟により、フランスの王政復古は迅速になされると予想された。

 実際に革命軍は各地で連戦連敗し、対仏同盟軍はあっという間にフランス国内へ侵攻していった。

 だが、フランス国内の戦いで革命軍は脅威的な粘り強さを発揮する。

 革命の熱気冷め止まないフランスでは、全国民を対象に徴兵制を敷いて兵士を次から次へと供給し、外国軍を押し返した。

 それどころか、フランス軍は反攻に転じ、1795年4月にはプロイセンとバーゼルの和約を締結してラインラントを獲得。同年5月にはオランダに衛星国のバタヴィア共和国を建国した。戦いはフランス優勢となり、1797年10月にオーストリアはカンポ・フォルミオの和約の締結し、大同盟から脱落した。

 結果、交戦国はイギリスと日本の二カ国のみとなった。

 

「どうしてこうなった」


 と定信が大阪城天守閣で頭を抱えているところを小姓は目撃している。

 こうして、バタヴィア共和国と日本の日蘭戦争の幕を開けることになるのだが、その前に18世紀末の日本の海軍力について確認するものとする。

 1628年1月に横須賀海軍奉行所が設置されてから170年、幕府海軍は西太平洋最大最強の艦隊へ成長していた。

 ただし、ヨーロッパ各国が保有していた戦列艦は持っていない。

 そんな船はアジアの海に必要ないからである。

 朝鮮は170年前とさして変わりばえしない川船もどきしか持っていなかったし、清朝も海禁政策を墨守して小型のジャンク船しかもっていなかった。

 そもそも幕府海軍は、海賊から商船を防衛するために建軍され、170年後もその役割はもっぱら水上警察であることだった。

 船名にもそれが現れており、概ね1,000t以上の大型船は巡察艦と称し、それ以下の800t級の船を巡視艦として多数整備していた。

 2,000t級の帆走商船を作る能力があったから、日本が戦列艦を持たないのは、持てないのではなく、もつ必要がないからもっていないだけのことだった。

 幕府海軍の最大の艦船は1,200tの巡察艦幡龍までだった。

 搭載するカノン砲は、幡龍でも36門。800t級の船なら24門が限度だった。

 日本の巡察艦や巡視艦はイギリスやフランスではフリゲートに該当する。

 そのような船を幕府海軍は100隻近く保有していた。

 海軍基地も平戸・神戸・横須賀・舞鶴に海軍奉行所を整備し、呂宋の馬尼剌にもスペインと協定を結んで軍港を構えていた。

 日本海軍の巡察艦や巡視艦は、概ね2~3隻の戦隊か、もしくは単艦で行動し、艦隊を組むことはなかった。

 艦隊を組んで当たらなければならない敵が、アジアの海にはいないからである。

 また、砲撃戦よりも海兵隊を使用した接舷切り込み戦を得意とした。

 水上警察である幕府海軍は、敵艦を撃沈するよりも、生け捕り(逮捕)することを主眼においていた。

 撃沈は抵抗が激しく拿捕が不可能な場合に限られた。

 また、水兵になるのは食い詰めた町民か、農村の次男、武士の三男坊だったから、高額の報奨金がでる生け捕りは彼らの人生設計のために必要不可欠だった。

 才能のある艦長は、俸給250年分の報奨金を得るほど多くの船を拿捕したが、拿捕に失敗して返り討ちにあうこともしばしばあり、報奨金もよし悪しであった。

 バタヴィア共和国が建国されると幕府海軍はすぐに戦闘状態に突入し、各地でバタヴィア共和国の商船を拿捕した。

 1796年7月には、ジャワ島に海兵隊が上陸して現地の総督府を占領した。

 この間に、バタヴィア共和国の抵抗は殆どなかった。

 本国を失った植民地にできることは何もなかったし、200年近く友好関係を築き上げてきた日蘭は裏取引を行って、東南アジアのオランダの権益を保護すると約束していたのである。

 バタヴィア共和国建国を奇貨として、イギリスはオランダの植民地占領を狙っていたから、友好国の日本による保障占領はオランダとしても渡りに船であった。

 さらにスペインがフランスに降伏すると呂宋島を占領し、太平洋にあったスペインの島嶼領土を占領してまわった。

 なお、既に呂宋島は日本の移民によって実質的に日本領と化していたため、戦闘らしい戦闘は発生しなかった。

 これらの戦いに日本陸軍が参加した跡がないのは、当時の日本に常設の陸軍が存在しないからである。

 ジャワ島上陸も、海兵隊をかき集めて編成された臨時の小規模兵力によって行われた。

 日本に常設の陸軍が存在しないのは、国内の平和により大規模な軍隊が必要とされていなかったことや、未だに封建制度による武士の軍隊が幅を利かせているからである。

 だが、ヨーロッパの大規模地上戦は幕府に根本的な認識の修正を促すことになる。

 特に幕府中枢を驚かせたのはフランスの平民の軍隊がオーストリアやプロイセンといった伝統的な諸侯や貴族の軍隊を圧倒したことだった。

 フランス軍の強さは、新聞を通じて日本国内でも広く知られるようになり、ナポレオン・ボナパルトの名は子供でも知っているほどになった。

 平和な日本において遠い異国の戦争は、格好の新聞ネタであり、新聞各社は連日、フランスの戦争を大きく取り上げた。

 当時、大阪や、横浜のような大都市で生活する富裕層ブルジョワの子弟といえば、親の金で大学に通いながらカフェでコーヒーを飲み、新聞を片手にナポレオン戦争を論じ、共和制の未来や封建制の限界といった国家論を交わし合うのが常であった。

 170年前には織田信長のような大大名でしか手に入れられなかった砂糖やコーヒーは、東南アジアのプランテーションで大量生産され、一般庶民にも手が届くものになっていた。

 日本料理において砂糖の大量使用が一般化するのは18世紀初頭である。

 砂糖の大量使用は日本人の摂取カロリーを飛躍的に拡大し、肉類の増産もあって18世紀以後、日本人の体格は大型化していた。

 また、砂糖を大量使用した保存食品の生産が広まり、大量の砂糖と餡と寒天を使用することで1年以上常温で保存できる羊羹がアジア太平洋地域で作られるようになった。

 呂宋や東南アジア各地で栽培される香辛料を使用した呂宋羊羹や加拉巴羊羹といった土産物の定番の原形が現れるのも同時期である。

 話が逸れたが、ルソーの「社会契約論」やロックの「国富論」などは近代思想が流入し、貸本屋にいけば翻訳本を廉価で借りることができた。

 日本国内に住む外国人向けに英語やフランス語、オランダ語の新聞が発行されており、大学に通うエリートたちはカフェでこれみよがしに外国語新聞を広げて、知識をひけらかすのが流行った。

 そうしたインテリゲンチャに反発した貧乏旗本の書生が、国学に走り、過激な王政復古論を唱えるところまでがワンセットである。

 横浜の繁華街は3~4階建ての洋式建築が当たり前になり、石畳の道を駅馬車が走って、洋服を着た散切り頭の武士がメイドを連れてすき焼き屋に通うのが日常風景になっていた。

 大名や将軍、家老といった高級武士は未だに丁髷を結い、羽織袴姿であったが、これは典礼のためのもので、普段は洋装というものは多かった。

 十返舎一九は東海道中膝栗毛を書き、続編で弥次喜多は平戸からロンドンを目指して、ユーラシア大陸横断の旅に出て、葛飾北斎はリトグラフで少女が蛸に犯される春画を書いて発禁処分を食らい、小林一茶は金がなくて駅馬車に乗れない我が身を儚み句に詠んだ。

 18世紀初頭に一つの頂点に達した日本文化の潮流が賀政文化である。

 賀政文化がナポレオン戦争と期を同じくしているのは、ヨーロッパの戦争特需が日本に押し寄せ空前の好景気であったことと無関係ではない。

 フランス革命戦争は、アミアンの和約(1802年)から1年の休止期間を挟んで、ナポレオン戦争へと突入していった。

 ナポレオン戦争は、1815年まで断続的に休止期間を挟んで戦闘が続き、その間に日本はヨーロッパ各国に大量の武器弾薬を売りさばき、莫大な利益を得た。

 日本はイギリスとの協調外交を展開し、一貫して反仏の立場を取り続けた。

 フランスと具体的な利害関係がなかったことから対仏大同盟に参加し続けることに政治的な支障はなかった。

 また、唯一日本を攻撃可能な戦力をもつイギリス海軍を敵に回さないことが、日本の安全保障戦略上、重要だった。

 定信は、1804年にナポレオンが帝位につき共和制国家が消滅したので、フランスに対する悪感情はなくなっていたと言われる。

 むしろ共和制国家がなくなったのだから、講和したらどうかと考えていたほどだった。

 だが、個人感情で無用な横槍をいれて国家の利益を失うほど愚かではなく、せっせとヨーロッパ各国や植民地に武器を売り続けた。

 対抗措置として1806年にナポレオンは大陸封鎖令を敷いてイギリスとその同盟国である日本との貿易を禁止した。

 イギリスはヨーロッパ諸国との貿易が途絶えたことから苦境に陥ったため、対日貿易に活路を見出し、1807年に日英通商条約を締結した。

 日英の関係が深まると様々な貿易のやり取りが生じ、イギリス文化に反映された。

 同時期に日本からイギリスへ持ち込まれたのが天ぷらであった。

 産業革命で急速に都市化が進んだイギリスでは、すぐに食べられ、腹持ちがいい食事が工場労働者の間で求められており、日本から流入した天ぷらは調理が簡単で、油脂分が多く効率的にカロリーを摂取するのに適していた。

 北海で漁獲された鮮魚を利用した天ぷらはロンドンっこの間で流行し、テンプラーバーはイギリスの代表的なファーストフードに発展することになる。

 また、フランスからのワインやコニャックの輸入が途絶えたことから、イギリスでライスワインを飲む習慣が広まった。

 日本もまたフランスからのワイン輸入が途絶えたことから、独自にワイン製造に乗り出し、葡萄栽培に適した乾燥した気候の蘭州でワイン製造が始まることになった。

 話が逸れたが、この通商条約で日本はイギリスからスペインやオランダの太平洋領土の割譲を承認された。

 さらに日本はロシア帝国に接近し、それまで未確定であった国境の確定交渉を行った。

 ニコラエフスク条約(1806年)により、既に日本の植民が進んでいた蝦夷地、樺太、千島列島、阿羅斯加は日本の領土とされ、シベリアやカムチャッカ半島はロシアの領土と確認された。

 カムチャッカ半島にも日本人の植民都市はあったのだが、陸続きの場所に国境をもつことを日本側が忌避したため、ロシア領に編入された。

 また、相互不可侵協定により、ロシアは対仏戦に全力注げることになった。

 それでもロシア軍はナポレオンを相手に連戦連敗し、焦土作戦でモスクワまで失陥することになるのだが、なおロシアが戦い続けられたのはシベリア経由で送られてくる日本製の武器弾薬があればこそであった。

 日本はヴァタビア共和国の先例に恐怖し、ロシアがフランスの属国となって日本に攻めてくることを恐れていた。

 そのため援軍をロシアに送っている。

 これが間宮騎兵隊である。

 間宮林蔵率いる洋式騎馬隊5,000名が、シベリアを踏破して1810年10月にロシア軍の指揮下で撤退するフランス軍の追撃戦に参加している。

 なお、シベリア横断の最中に騎馬隊の半数が脱落し、その後の戦闘で援軍の9割が死亡して無事帰国できたものは200名足らずであった。

 結局、ロシアがフランスの属国になるというのは全くの杞憂で終わった。

 間宮は将軍直轄の諜報機関御庭番衆の一人であり、援軍としてフランスと戦う傍らに、詳細にロシア帝国、ロシア軍の情報を調べ上げ日本に送り届けた。 

 間宮が極秘に作成したロシア地図はロシア帝国が持つものよりも正確なものであった。

 測量・製図に関しては、伊能衆の助力があったことも判明している。

 幕府は国防上の理由により地図の作成と管理を重視しており、測量・製図能力は世界的に見ても最高水準に達していた。

 17年かけて日本列島を網羅する地図を作成した伊能忠敬の製図事業は、国家事業として継続され伊能衆と呼ばれる測量・製図技能集団によって19世紀末までにアジア・西大西洋全域の詳細な地図が作成されることになる。

 間宮はロシア軍と共にパリに入城し、1817年までヨーロッパに留まり、スパイ活動を続けた。

 その後、間宮の事業を引き継いだ高野長英は、些細なミスからフランス警察に逮捕されたが刑務所から脱獄し、顔面を硝酸で焼いて容貌を変えて当局の追跡を振り切り本国に帰国したエピソードが有名である。

 ナポレオンの威信はロシア遠征失敗で大きく傷つき、第六次対仏大同盟が結成された。

 フランス軍はライプツィヒの戦い(1813年10月16日)の戦いに破れ、フランス本土が戦場となり、ナポレオンは失脚を余儀なくされた。

 同盟国は戦後のヨーロッパ政治秩序を討議するためウィーンで会議を開催したが、各国の利害が絡んで会議は遅々として進まなかった。

 その間に、ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリに凱旋する。

 同盟国は軍を撤退、解散させていたため、ナポレオンのパリ入城は絶妙のタイミングであった。

 なお、この時日本の代表団を乗せた船は、未だ航路の途上にあり、ウィーン会議に間に合うかどうかは微妙なところであった。

 最終的にワーテルローの戦いにナポレオンは破れ、セントヘレナ島へ流刑となったが、日本代表団はこのゴタゴタによって議定書調印に間に合うことができた。

 最初から最後まで、ナポレオン様様といったところだろう。

 ちなみにナポレオンは日本という国家、民族を意識した発言は殆どない。

 主戦場に日本軍が殆ど現れなかったこと(前述の間宮騎兵隊はナポレオンと直接対決したことがない)が大きいと言える。

 唯一、ナポレオンが日本を意識したのはエジプト遠征時が優勢であったころに中東、印度侵攻の後に中国、日本へと攻め上る夢想を部下に語った時と睡眠中のナポレオンに部下が日本の発酵食品(納豆と思われる)を近づけると


「ジョセフィーヌ、今晩は勘弁してくれ」


 と寝言を言った逸話ぐらいしか出てこない。

 ウィーン議定書は、その後のヨーロッパの国際秩序を形成した。

 正統主義による復古調の協調体制は、各国の自由民権運動や民族主義を抑圧するものだったが、20年近く続いたフランス革命・ナポレオン戦争に疲れた人々からは歓迎された。

 ナポレオン戦争によって、オランダ・スペインのアジア・太平洋領土が日本に編入され、ロシアとの国境確定によって、北は阿羅斯加から南は大蘭大陸、西はマレー半島、東はハワイ・ミクロネシア諸島に及ぶ広大な日本の勢力圏が確立された。

 後に、フランスの政治家・外交官のタレーランは、


「あの戦争で笑ったのはサダノフただ一人だけだ」


 と述べている。

 優れた外交官であったタレーランは、日本が殆ど戦争をすることなく、漁夫の利を貪ったことに一言言っておかないと気がすまなかっただろう。

 当の定信は、急に広がった領土の統治をどうするか頭を悩ませており、それどころではなかったのだが。

 また、ヨーロッパから齎された最新の地上戦に関する情報は、日本古来の軍制を完全に旧式化させた。

 日本においても国防体制刷新のため軍制改革を求める声が集まり、ナポレオン戦争中に洋式軍制の導入が決定した。

 ただし、農民・町民からの徴兵は定信が絶対不可としたため、武士の子弟からのみの限定徴兵制とし、1818年4月11日に陸軍奉行所が岸和田におかれた。

 しかし、柔弱化が進んでいた武士の徴兵はうまく行かず、徴兵逃れが横行して実態としては兵卒クラスは殆どが平民の軍隊となってしまった。

 また、大名家はそれぞれに旧来の武士の軍隊をそのまま維持しており、軍政の近代化は不十分なままだった。

 以後、日本全国9箇所(岸和田・清洲・横浜・熊本・仙台・広島・函館・呂宋・星洲)に陸軍奉行所が置かれ、1828年にフランス式師団編成が導入されて9個師団体制となった。

 幕府陸軍は、最終的に敗北したもののその神話的な強さからナポレオンに学ぶことを良しとし、多くのフランス軍将校を招聘し、軍備近代化に役立てた。

 王政復古したフランスでは、フランス軍部は政府から全く信頼されず、骨抜きにされたことから、日本陸軍を大陸軍の直系子孫とする意見は数多い。

 そして、そうしたものが必要な時期がアジアに到来しようとしていた。

 ウィーン体制はヨーロッパでの協調体制であり、ヨーロッパ各国同士が相争うのをやめるということは、その力は外部へと展開することを意味していたのである。





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