将軍を継ぐもの
将軍を継ぐもの
織田将軍家八代目、織田吉信は幸運の持ち主と知られている。
吉信の生まれは、関東織田家の三男坊である。
将軍家どころか、関東織田家の家督相続からも遠かった。
だが、兄二人の死により、関東織田家の家督を相続し、紀州織田家と阿波織田家が自滅したため、八代将軍に迎えられた。
1709年、五代目将軍織田信綱が死去すると実子がいなかったため継嗣問題が発生した。
初代織田信長の遺言により、嫡流が絶えた場合、信長次男の織田信雄(紀州織田家)か、信長三男織田信孝(阿波織田家)が宗家の家督を継承することになっていた。
関東織田家は、信長の弟である織田信勝の家系であり、宗家を継ぐことはできなかった。
しかし、関東織田家の三代目織田昌信に男子がなく、宗家から婿養子(三代将軍織田秀信の7男織田光信)を迎えたことで、織田嫡流の血が入ったから相続権がないわけではない。
ただし、関東織田家は東の抑えであり、宗家の継承はありえないと考えられた。
実際に六代将軍となった織田信且は、紀州織田家からあがった。
信且は62歳と、歴代将軍の中で就任時に最も高齢で、その在位は4年で終わった。
そのため、本来なら信且の子、織田信親が将軍職を継ぐはずだった。
が、信親の嫡男(5歳)が急死したことで、紀州織田家の存続が危ぶまれた。
信親が宗家継承を辞退し、阿波織田家から織田信高が七代将軍となる。
が、信高もまたわずか3年あまりで病死した。
享年26歳で、あまりにも若すぎる死から暗殺が囁かれたが、病死と発表された。
信高の子には男子がおらず、他に適当な将軍候補がなかったことから、特例で関東織田家が宗家を継承することになる。
吉信は、血筋の上では信長の曾孫にあたり、信長と共に天下布武の立役者となった弟信勝の血を同時にひく政治的サラブレットだったことも無視できないファクターだった。
吉信の将軍就任によって、一先ず継嗣問題は収束に向かうことになった。
このことに、大阪町民はほっと胸を撫で下ろすことになる。
何しろ、吉信の将軍就任まで大阪では戦争前夜のような血風が吹きすさぶ有様だったからである。
信長次男信雄と三男信孝の不仲は有名だが、その子孫も実に仲が悪いことで有名だった。
紀州と阿波は紀伊水道を挟んで、大阪の守りを固める戦略上の要地である。
信長はそこに実子を配置して親藩を開かせ、大阪の宗家の守りを固めようとしたのだが、父親の意図そっちのけで、信雄と信孝は紀伊水道を挟んで抗争を続けた。
信長の葬式でも、席次を巡って喧嘩をして、兄信忠を激怒させている。
そして、死ぬまで不仲は治らなかった。
その子孫も抗争を続けて、将軍継嗣問題は暗闘次ぐ暗闘の果てに紀州と阿波の共倒れに終わったと言える。
五代目信綱の死(1709年)から、吉信の将軍就任(1716年)の7年の間に、紀州藩では家老や若年寄、奉行役26名が不審死した。
阿波藩にいたっては33名が死亡している。
死体が発見されていない行方不明者については数知れない。
五大老で紀州派を推していた柴田家永は1711年に松の廊下で乱心した小姓に刺殺され、阿波派であった明智光友が風呂で溺死するという不可解な死を遂げた。
大阪城では毒見役が死にすぎてなり手がなくて困っていると、まことしやかな噂が流れ、そして実際にそのとおりだった。
将軍の配膳が、全て銀食器となったのは八代目吉信の時代からである。
このような死線、暗闘をくぐり抜けて棚ぼたで将軍になった吉信は幸運な男であると言えなくもない。
言えなくもないとしたのは、吉信が然るべき手を打って、然るべくしてその地位を手に入れた、とするなら途端に全てがひっくり返りかねないからである。
だが、とりあえず、吉信は幸運な男であったとして、話を進める。
上の兄二人が若くして病死して関東織田家を継承したことも幸運なら、他の将軍候補がことごとく死ぬか、再起不能になったのも、やはり幸運であり、運命だったと考える。
吉信の座右の書がニッコロ・マキャヴェッリの君主論であったことも無視するものとする。
実際のところ、大阪幕府は吉信を必要としていた。
より具体的には、吉信の財力が必要だった。
破綻寸前の財政をどうにかするには、繁栄を極める関東織田家からの持参金が喉から手が出るほど欲しかったのである。
血筋云々は後付の理屈で、結局のところ、最後にものをいうのは金だった。
織田宗家の石高(米の生産量)はおよそ六百万石であったが、そのうち直轄領は三百万石に過ぎず、直臣の領地が三百万石だった。
対して、関東織田家の石高二百万石である。
これは表石高の話であり、裏の石高は100年におよぶ関東開発で、2倍の4百万石を越えていた。
さらに東国最大の貿易港横浜を抱えており、その収入を合わせると一千万石に達するという試算もある。
経済力という点では、上方(大阪・京都)と関東は逆転しつつあり、経済力の逆転が関東織田家の将軍継承を後押ししたと言える。
なお、大阪幕府が期待した持参金については大方の予想に反し、金50万両であった。
それでも十分に巨額であったが、期待したほどの持参金が得られなかったことに落胆したものは多かったという。
だが、関東からの仕送りは小出しに続き、それを餌に吉信は幕府の権力を掌握した。
保守派の奉行衆の中には、持参金を手に入れたら吉信を暗殺し、皇族将軍を据えて傀儡化する陰謀を図った者がいたとされる。
ただし、吉信の方が一枚上手だった。
「恩恵は、人々に長くそれを味わわせるためにも、小出しに施すべきである」
とはマキャベリの政治的な名言である。
幕府を掌握した吉信は幕府の政治改革に取り組み、機能不全に陥っていた五大老による合議制を完全に廃止した。
代わりに、将軍の補佐機関として奉行衆を再編成した内閣が設置された。
将軍が直選した奉行による内閣が行政を掌握することで、人事権を握った将軍による独裁が完成することになる。
ルイ14世を模倣した信綱が最後まで果たせなかった絶対王政は吉信によって完成したと言えるかもしれない。
なお、信綱と吉信には面識があり、吉信は名君と謳われた若き日の信綱を尊敬し、その継承者であることに努めた。
さすがに生類憐れみの令は復活させなかったが、病院令や貧救令、種籾貸付令を制定し、日本で初めて公設病院の設置し、失業者や貧農の救済制度を作った。
拷問が公式に禁止されたのも吉信の時代である。
さらに書籍の事前検閲の廃止や、禁書解禁令を制定し、自由な出版を認めた。
一連の改革は、同時期のヨーロッパでも行われており、啓蒙思想が日本にも伝播していたことを現している。
故に、吉信を日本で最初の啓蒙専制君主とする意見がある。
ただし、徹底したマキャベリズム専制支配者という他ない吉信を啓蒙君主とするのは無理があるという意見もあり、現在でもその評価は定まっていない。
吉信は破綻寸前の幕府財政に大鉈を振るって、税制改革に乗り出し、間接税、関税、炭税、酒税、煙草税、塩税、土地税を制定した。
年貢も、米による物納でなく、金納へと切り替えた。
それに伴って武士の給料も米(石高制)ではなく、銭(貫高制)となった。
増税と引き換えに賦役(肉体労働による税)が廃止されるなど、吉信の税制改正は必ずしも増税一辺倒ではなかったものの激しい反発に直面した。
吉信の統治した享葆年間には、全国で600件もの百姓一揆や打ちこわし(暴動)が頻発した。
吉信は社会福祉制度の制定や出版の自由を認めるなど、民衆の自由を守護したが一揆や打ちこわしに対しては容赦なく武力を投入して鎮圧した。
この点については、全く吉信は妥協しなかった。
「民衆への対処の仕方は、寛大な態度でのぞむか、それとも強圧的に対するかのどちらかでなくてはならない」
とはマキャベリの政治的な名言である。
しかし、土地税については妥協して、大土地所有の武士や寺社は免除し、改革としては不徹底に終わった。
農民や都市生活者以外に武士や宗教勢力まで敵に回すと政治的に完全に孤立するため止む得ないものと言える。
増収策を進めると同時に、吉信は幕府の経費を極限まで削減(倹約令)している。
そのため、織田将軍歴代のうち、吉信は最も地味な将軍と挙げられることが多い。
だが、倹約して浮いた資金を産業振興に使ったことが新しかった。
吉信の経済政策は完全な重商主義だった。
これまでの幕府政治が、新田開発などの農業重視の重農主義策だったことを考えると180度の方向転換に等しい。
吉信の重商主義策を理解するには、関東織田家の成り立ちを理解する必要がある。
1590年8月1日、初代藩主となる織田信勝が関東に下向。小田原城に入城した。
北条氏の拠点であった小田原城は、未だに戦の余燼がくすぶり、激しい攻防戦で半壊状態であった。
さらに北条遺臣は、織田の支配を快く思っておらず、不穏な情勢であった。
落ち武者が盗賊に化け、治安は悪化しており、戦争の荒廃が関東を覆っていた。
信勝は、北条遺臣との和解に腐心し、関東支配のために彼らを再雇用しつつ、国法についても北条時代のものを踏襲するとした。
四公六民という当時としては低い税率も維持されることが分かったので、少なからず治安の動揺は抑えられた。
なお、信勝は伊勢・長島時代から領民慰撫のために四公六民を採用しており、北条時代の税制を踏襲したというよりも、伊勢・長島時代の政策を踏襲したといった方が正確かもしれない。
信勝は融和策と同時に勝者の権利として検地を推し進め、税収の捕捉に努めた。人別帳(戸籍)の編纂が始まったのも信勝の時代である。
さらに首府を小田原から、相模の寒村に過ぎなかった横浜に移すことにした。
移すことにした、というのは実際の作業は、二代目藩主を継いだ信勝の嫡男信澄が実施したからである。
信勝の在地期間は三年に過ぎず、検地も人別帳作成も、首府移転も、ほとんどは二代目の手によって行われた。
伊勢・長島からの産業移植を行ったのも信澄の仕事である。
特に重視されたのは牧畜であった。
広大な武蔵野台地は水利の悪さから水稲耕作には不向きな土地だった。そこで牧畜が奨励され、伊勢・長島から大量の家畜が導入された。
当時の仏教的価値観から、農民は牧畜を不浄として嫌ったので、戦国が終わって失業した浪人の多くが、その隙間を埋めて牧畜に従事するようになる。
生産されたのは主に山羊・羊・馬・牛だったが、信澄時代に沖縄からもたらされた豚も加わった。
収穫された羊毛や山羊毛は、隅田川や荒川の水力を利用した紡績器によって加工され、さらに水力紡績器によって毛織物となった。
首府の横浜港、神奈川港、さらに江戸港など、神奈川二十湊が整備され、和製ガレオン船によって日本全国のみならず、明朝やインド、メキシコにも輸出された。
武蔵野台地は牧草としてクローバーがヨーロッパから導入され、飼料用のカブの栽培によって、17世紀までに六輪栽式農業が実現した地域であった。
その他の重要な輸出品としては、養蚕と窯業があった。
戦国末期から大阪時代初期の窯業の主力は織田家の故地である瀬戸や多治見にあり、戦国期に一大ブームを巻き起こした茶の湯の茶碗を焼いたのも瀬戸や多治見であった。
当初、横浜で焼かれたのは、瀬戸で流行していた織部焼と呼ばれる作品群であり、これは専ら信勝の好みによるものだった。
これは余談だが、信勝は自らの茶の湯頭として古田重然を重用し、従五位下織部助に任じている。
「古田左介は天下のへうげものなり」
と述べて、古田織部の創作活動を全面的に後援した。
だが、織部焼は外国への輸出では全く振るわなかった。当時のヨーロッパでは持て囃されたのは明朝の白磁器であり、日本の妙な形をした陶器は全くウケなかったのだ。
このことに落胆した古田織部を慰める書状を信勝はしたためており、その書状が古田家に現存している。
横浜焼の転機は、17世紀半ばの明朝滅亡によって訪れた。
多くの浪人から傭兵として大陸に渡り、その多くは戦地で死に絶えたが、帰国した者の中に景徳鎮の美しい白磁器を持ち帰ったものがいた。
海外貿易によって、ヨーロッパで明朝の白磁器が持て囃されていることを知っていた横浜焼の陶工達は、景徳鎮の再現に挑戦することになる。
そのために編み出されたのが骨灰焼と呼ばれる技法で、関東の牧畜業によって大量に廃棄される家畜の骨を焼成してリン酸カルシウムを精製し、陶土に混ぜて焼き上げるというものだった。
焼成温度の低い骨灰焼は、高温による退色を回避できるという点で、景徳鎮よりも多彩を誇り、17世紀末にヨーロッパにもたらされ大流行した。
五代将軍織田信綱も、横浜白磁を気に入り、大量に買い上げている。
横浜白磁の最高峰が伊那楠で、陶工の伊那家と絵師の楠家による合作である。
ヨーロッパ諸国では伊那楠の食器は同量の金と同じ値段で取引され、太陽王ルイ14世の食卓を飾ったことで有名である。
ヴェルサイユ宮殿にも伊那楠のタイルが日本から輸出されて使用された。
養蚕業もまた、明朝滅亡のドサクサにまぎれて強奪された蚕の卵や蛹が横浜に持ち帰られ、中国産に比肩する高品質なものが関東一円に広がった。
足利や桐生の生糸や絹織物は、メキシコやヨーロッパ、インド、東南アジアに輸出され、高級衣料として珍重された。
輸出品を運ぶ船は、横須賀や横浜、神奈川の造船所で建造された。
18世紀初頭の和製ガレオン船は、100年に渡る巨大化と高速化の果てに2,000tに達しており、大量の輸出品を一度に運ぶことができた。
船は機械部品の集合体であり、横浜の機械工業技術は日本一であった。
近代ガラス工業の創始や反射炉の建造、蒸気機関の製造も、横浜が日本初である。
二代目藩主信澄は、父信勝が伊勢・長島で培った殖産興業の息吹を関東に吹き込み、育て上げた名君として歴史に名を残した。
そして、吉信の代となり、その力を日本のために使う時が来たと言えた。
吉信は関東織田家が100年かけて築いたものを日本全国に応用し、産業の振興と商業を保護し、海外貿易の黒字転換に成功した。
海外からの金銀の流入により、通貨流通量も増え、経済成長が促進された。
吉信は、幕府の政治機構を近代化し、税制を改め、財政再建と経済成長を成し遂げた中興の祖として名高い。
そして、幕府政治以上に日本の歴史に大きな影響を与えた政治家である。
吉信よって日本の歴史は大きく変化の時を迎える。
それは移民政策であった。
「蝦夷移民掟百箇条」
とは、蝦夷地に渡る移民に配布された蝦夷地での生活や守るべき規範を定めたものである。 この他に、
「南冥移民掟百箇条」
のように南方へ渡る移民に配布されたものもある。
当初は十二箇条程度でしかなかったのだが、初期の移民が餓死や凍死、疫病で全滅するなど散々な失敗で終わったことから、内容が拡充され百箇条となった。
実際には140箇条ほどあったのだがそれはさておき、吉信は強力に移民政策を推し進めて、日本という国家を外部へ拡張しようとした最初の政治家である。
また、そうしなければならない事情が日本には存在した。
日本国内は100年に渡る国土開発の末に、人口が飽和状態に達したからである。
大阪時代の始まる17世紀初頭の日本人口は推計によると1,200万人だった。
これが100年後の18世紀初頭には、3,300万人達する。
国内の内戦は絶えて久しく、新田開発によって食料増産が進んだ結果である。
化学肥料や農薬、機械力を駆使しない近世の農法で日本列島が維持できる人口限界が、3,300万という数字と考えられている。
現代でこそ、1億5,000万人の人口を抱える日本列島であるが、これは科学技術により本来なら居住不可能な場所を居住空間に変えてきた結果であり、自然に近い状態では3,300万人が限界だった。
そして、限界に達した日本列島では、無理な新田開発によって山野の洪水調節機能が低下し、大規模な水害が頻発するようになった。
特に木材資源の枯渇は深刻なものがあり、関東や大阪には禿山が広がっていた。
宝塚宮殿のような巨大建築や和製ガレオン船の建造、横浜や大阪といった都市の拡大、そして燃料用の伐採が原因であった。
そうした禿山は保水力が乏しいため、ちょっとした降雨でも水が斜面を駆け下り、土砂災害を起こした。
吉信は山林に保護条例を出して、植林事業を幕府の公式な政策としたが、根本的な解決として養えない人口を移民として海外へ送り出す他なかった。
ただし、吉信は移民政策を窮余の策としてはいない。
「国家の指導者たる者は、必要に迫られてやむを得ず行ったことでも、自ら進んで選択した結果であるかのように、思わせることが重要である」
というマキャベリの政治的名言にあるように、吉信は新たな支配原理として移民政策や対外膨張政策を位置づけた。
戦国から100年間、織田将軍家の支配原理は、初代信長の発した惣無事令に拠っていた。
天下静謐を至上の価値と位置づけ、その守護者である織田家への全権委任を求めるものであり、国内の平和こそが支配の根幹であった。
吉信は将軍独裁制を推し進めるため、新たな支配原理を求め、
「経世済民」
を天下静謐に代わる支配原理にした最初の将軍といえる。
平たくいえば、国民生活の向上を至上の価値とし、その守護者である将軍に全権委任を求めるものである。
経済の発展こそが支配の根幹であるという発想である。
実際に、吉信の治世において、経済発展により富裕都市生活者が急増し、彼らはその後、織田将軍家の強力な支持者となった。
故に大阪幕府の政治はやがてブルジョワ政治へと堕ちていくことになるのだが、それはもう少し先の話である。
食い詰めた都市の貧民や、農村からあぶれた流民を食えるようにするには、食える場所へと誘うよりほかなく、その地を日本は北と南に求めた。
西の朝鮮や清朝は論外だった。
発展と膨張を続ける清朝の力を大阪幕府は正確に掴んでおり、清朝とは可能な限り友好関係を保つことに腐心していた。
東は果てしなく続く海原であり、新大陸はまだまだ遠かった。
現実的な移民先として候補にあがったのは、松前藩より北に広がる蝦夷地と東南アジアの日本人町、特に呂宋であった。
蝦夷地開拓令が出たのは、1724年である。
最初の移民船が横浜から出港したのはその時の3月のことであり、函館に上陸した彼らは3年目の冬を迎えることなく全滅した。
開拓計画があまりにも楽観的すぎて、松前藩が苦言を呈すほどであったから、最初から失敗は約束されているようなものだった。
だが、あふれでる人口とヨーロッパや清から輸入したジャガイモやサツマイモと言った開拓初期の耕作に適した穀物の流入によって、半世紀かけて日本人のテリトリーは蝦夷地全域から樺太、千島列島へと広がっていくことになる。
苦難の連続であった北方開拓に比べて南方は順調だった。
既に東南アジア各地には、日本人町が存在し、彼らは現地社会において確固たる地位を築いていた。
移民はその下部構造に組み込まれ、その多くはそのままで終わったが、中には自らの才覚を以て社会の上層部へ食い込むものも現れた。
大河ドラマ「ジャワ島の葵」で有名になった徳川宗春は、享葆年間で最も有名な日本人移民の一人であろう。
三河徳川家の傍流に生まれた徳川宗春は、故郷の赤味噌をフランスへ輸出して財産を築き、それを元手にジャワ島に広大な農園を築いて、現地で領主として振舞った人物である。
東南アジアを支配するVOC(オランダ東インド会社)は基本的に日本人移民の流入を歓迎した。
日本との貿易を独占することが、VOCの力の源泉であった。
また、18世紀以後、東南アジア各地で始まったプランテーション経営には大量の労働力が必要だった。日本からの農業移民の受け入れは、VOCのプランテーション拡大に貢献した。
同じ移民である華僑が商業に長けて都市生活を送ったのに対して、日本人は土着化し、土地所有に拘る傾向があった。
鎌倉以来の一所懸命の伝統である。
そのためなら陰謀を巡らし、武力行使を厭わないのが、日本人のいいところである。
呂宋島では、スペインの退潮により支配力が低下していたことから、日本人移民が激増すると現地のスペイン人総督はこの制御に失敗した。
呂宋島の全てを水田に変える勢いで新田開発が日本人の手によって進められ、新しくできた日本人の開拓村は武装して、税の徴収を拒否した。
18世紀の呂宋島に現れた日本人の開拓村は、全周を水郷と空堀、土塁で固められた戦闘要塞のようなものであり、生半可な攻撃は通用しなかった。
また、日本人移民が手にしていたのは、横浜や大阪で作られたフリントロックマスケット銃で、スペインの銃と遜色ないものだった。
故に、スペインの常套手段である最新兵器で刀剣しか持っていない現地人を圧倒するという手法はとることができないし、そんなことを日本人相手にやろうものなら彼らの本国が邦人保護の名目でフィリピンを占領してしまうのは目に見えていた。
フィリピン総督が泣き寝入りを余儀なくされたのである。
スペインのフィリピン支配が容認されたのは、日本がアカプルコ貿易で少なくない利益を得ていたためでしかなく、その支配の実態は空文化させられた。
さらにオランダ人から情報を得ていた南方大陸にも移民が送られた。
オランダ人に敬意を評して、大蘭大陸と名付けられた無主の土地に最初の日本人移民が降り立ったのは、1740年のことである。
1770年にスコットランド人のジェームズ・クックが新大阪湾に来航したが、これは不法入国であったため蘭州奉行所で取り調べを受けている。
移民事業や政治機構改革、重商主義政策や将軍独裁制の始まりを指して、享葆の改革と呼び表し、その後の政治改革のモデルにされた。
吉信は、1745年に家督を次男、織田信武が引き継ぎ、大御所として死去まで国政に参与し続けた。
なお、吉信嫡男の織田信重は障害を理由に廃嫡されている。
これは初代信長以来の長幼の序を崩すものであった。
吉信は自ら築き上げた将軍独裁制が、暗君を担ぐと害悪でしかないことを危惧していたと言われている。
また、子弟を競わせることで、よりよい後継者を育むことを考えていたともされる。
次男の信武と三男宗信は甲乙つけがたいとされるほど優秀であったが、最終的に宗信が遠慮したため信武が九代将軍となった。
信武もまた、父の先例にならって子弟から最も優秀なものを将軍につけた。
それが十代将軍、織田定信である。
定信が将軍に就任したのは1786年であり、フランス革命の3年前のことだった。




