現代にて
現代にて
第二次世界大戦は1944年8月15日に、欧州連合軍が廃墟となったエカテリンブルクを占領し、ロシア帝国陸軍参謀総長ゲオルギー・ジューコフが降伏文書に調印することで法的には終了した。
太平洋の戦いが1943年8月22日の東太平洋海戦で実質的に終了し、日米停戦が成立していたことを考えるとロシア帝国は単独で1年近くも日欧と戦い続けた計算となる。
しかし、その実態は死んでも降伏を認めないアレクサンドル4世がモスクワを捨ててシベリアの奥地に引きこもって徹底抗戦を叫んでいるだけだった。
軍は皇帝直轄の督戦隊によって無理やり戦わされている状況で、国民は秘密警察の監視によって雁字搦めにされていた。
この状況を憂いた一部の将校によって皇帝暗殺とクーデタが1944年2月15日に発生したが、失敗に終わっている。
このクーデタ未遂事件の責任を取る形でロシア帝国陸軍参謀総長のミハイル・トゥハチェフスキー元帥は毒杯を下賜され自決に追い込まれた。
後任のジューコフ元帥は、もはや何者の進言も異論を聞き入れることがなくなった独裁者の言うがままに本当の破滅を先送りにし続ける作業に疲れ果て、降伏調印の3日後に過労によって死去した。
なお、アレクサンドル4世自身は降伏の1週間前にエカテリンブルクの皇帝地下壕の中で、すべての責任を放棄して愛妻と共にピストル自殺していた。
一時期は全ロシアの希望を集め、神のごとく崇められたロシア皇帝の最期としてはあまりにも惨めなものであった。
しかし、国土のほぼすべてを外国軍に占領されるという未曾有の危機を招いた敗者の末路としては適当だったと言える。
以後、戦争の舞台は砲弾の飛び交う現実の戦場から、各国政府のテーブルの上に移動し、参戦国すべてを招いた講和会議の開催が決定される。
講和会議開催の地は紆余曲折があったものの最終的には日本連邦の古都、京都での開催が決まった。
所謂、京都講和会議である。
日本連邦では講和条約調印式が行われた本能寺国際ホテルにちなみ、本能寺会議や本能寺講和条約と呼ばれることが多い。
しかし、これは日本連邦国内のみでしか通用しないため注意が必要で、国際的には京都講和会議というのが正式である。
講和会議には各国の代表が集まったが、会議を主導したのは当然のことながら日欧だった。
議長国となった日本連邦の首相は岸信介で、戦時内閣では軍需大臣を務めて日本連邦の戦時生産に辣腕を奮った人物だった。
何れは首相と目されていた大物で、彼の組閣はほとんど既定路線だった。
欧州経済帝国は構成各国の代表が個別に会議に臨んだが、実質的なリーダーはイタリア人のベニート・ムッソリーニだった。
語学に堪能で、数カ国を同時に操るムッソリーニがいなければ、欧州経済帝国は領域内の利害調整すらままならない状況だった。
本来なら、欧州経済帝国を取り仕切るのはドイツのはずだが、ドイツは国土の大半がロシアに占領され、そのまま戦場になったことで荒廃しきっており、もはや往年の力はなかった。
さらに戦争継続のために、技術や生産設備をイタリアやスペインなどに疎開させていたことから、ドイツの工業力の優位が完全に失われた。
戦後に安い人件費とドイツから疎開した工業技術を用いて、南欧諸国が経済発展を遂げることになり、特にイタリアの経済発展は著しいものとなる。
現代のローマ帝国に称される欧州経済帝国の中心が、本当にローマになる日が来たことはほとんどの人間にとって想定外と言えた。
欧州経済帝国は、ムッソリーニの辣腕によって、1955年に国号を欧州連邦に変更。すべての国境が廃止され、完全な単一国家へと発展することになる。
ロシアという脅威に対して全欧州が一つになった立ち向かったことが欧州各国に国境を捨てる決断をさせたと言えるだろう。
明確な外敵の存在こそが、集団の結束を高める上で有効という人間集団の原則が再確認されただけとも言えるが、それは欧州だけではなくアジアにおいても同様だった。
欧州よりもさらに広大な領域に広がる日本連邦は、数多くの民族、宗教、言語を抱えており、常に分離独立の危険を孕んでいる。
それをまとめるために明確な外敵の存在と、言い訳の余地のない正義が必要だと岸首相は考えていた節がある。
本人がそう明言したわけではないが、講和会議における彼の行動は明確に戦争の正義が日本にあることを確定させようとしていた。
また、それが可能な環境が整っていた。
日米開戦の直接的な原因は、1941年3月18日に発生したエルドリッジ号事件であった。
太平洋を航行中だったアメリカ海軍の駆逐艦エルドリッジが魚雷攻撃を受け撃沈されたことは日本海軍の潜水艦の仕業とされ、自衛を名目にアメリカ合衆国は対日開戦へとなだれ込んで行くことになった。
しかし、1944年2月にモスクワが陥落し、多数のロシア帝国政府の機密文書が回収されたことにより、事件はロシア海軍潜水艦によるものであることが明らかとなった。
ルーズベルト大統領とその一派はロシアと共謀し、開戦理由を作るために自国の軍艦をロシア海軍の潜水艦に撃沈させたのである。
これは明確な国家への背信行為だった。
また、ロシア帝国のスパイによるアメリカ合衆国大統領選挙への違法な干渉についても、証拠となる書類が回収された。
ロシアの情報機関がルーズベルト大統領が有利になるように世論工作や情報操作を行っていた。さらにルーズベルト大統領の政敵に関する汚職情報をFBIに横流しするなど、親ロシア勢力が有利になるように工作していた。
アメリカ合衆国の根幹である自由で公正なはずの選挙は、ロシアの情報機関によって歪められていたのである。
すでにアメリカ政府の当事者であるルーズベルト大統領は心不全で死亡していたが民衆の怒りの爆発は凄まじく、スキャンダルがすべてを焼き払っていった。
渦中の渦中にいたアイアンマン副大統領などは国外逃亡を図って、失敗し、怒り狂った民衆によって街頭に吊るされて果てた。
全米に波及した大暴動の中で臨時大統領となっていた国務長官のコーデル・ハルもまた、この陰謀にかかわっていたことが明らかになり、やがて謎の死を遂げた。
1944年のアメリカ大統領選挙は、民主党の候補が誰も立たないという異常な状況で始まり、共和党候補同士の決選投票によって、トマス・E・デューイが大統領に選ばれている。
現代ではアイアンマン副大統領はロシア帝国のスパイだったというのが定説となっている。
近年では別の評価が浮上し、ロシア帝国のスパイだったことは間違いないが、アレクサンドル4世のコントロールを外れ、むしろアイアンマンがアレクサンドル4世を操っていたのではないかと考えられるようになっている。
それはさておき、もはやアメリカの正義が地に堕ちたことは疑いの余地もなく、京都講和条約においても明確に戦争責任がアメリカにあることが明記された。
京都講和会議に出席したデューイ大統領は、全ての責任はルーズベルトとアイアンマンの個人的なものであると反論したが戦勝国の日欧を納得させられるものではなかった。
それでも、戦争責任を負うことになっただけで、領土の削減といったペナルティは免れたのだからアメリカはまだ幸運だったと言える。
国土を完全に占領されたロシア帝国への懲罰は過酷で、賠償金の支払いこそその能力がないために免れたが、その広大な国土は分割された。
戦前から独立していたウクライナの再独立は当然として、中央アジア地域はロシアから分離独立。バクー油田のあるカフカス地方も独立を果たした。
さらにシベリア地域も3分割して独立することになり、ロシアという国家が二度と大帝国化することがないように慎重に細かく分割独立された。
東欧に住んでいたロシア人は1,200万人がシベリアなどに追放され、うち200万人が受け入れ先の食料不足で餓死するなど、悲惨な運命をたどっている。
しかし、国土を蹂躙にされ1,500万人が死亡したドイツ帝国に比べれば、まだマシだったと言えるだろう。
ドイツ帝国はドイツ30年戦争の荒廃もかくやというほどの戦塵にまみれており、1950年まで食料の配給制を続けなければならないほどであった。
戦後にドイツが欧州において主導権を完全に喪失したのは当然と言えるだろう。
なお、日本連邦の戦死者は200万人とドイツに比べれば少ない方だった。
1937年から7年間も戦っていたことを考えれば、確実に少なかった。
海軍同士の激突であった太平洋の戦いは地上戦の連続であった欧州の戦いに比べて、戦死者が少なくなるのは当然といえば当然であった。
戦死者の大半は、朝鮮半島で発生しており、中国やロシアとの戦いで命を落としていた。
それでも極東の戦いは朝鮮半島の防衛戦に終始し、対中戦略爆撃は空軍の戦いであったことから戦死者は少なく抑えられた。
少ないと言っても、対中戦略爆撃やシベリア爆撃で命を落としたパイロットは35,000名を超えており、撃墜や事故で失った戦略爆撃機は8,000機を超えているのだから、決して楽な戦いをしていたわけではない。
しかし、欧州の地上戦を考えれば、死屍累々の地上戦を拡大させるよりは、工業力に物を言わせて戦略爆撃機を大量生産し、空中から中国経済を爆砕した日本の戦略は正しく、結果的に戦死者を大幅に減らしたといえる。
なお、国土の隅々まで爆撃された中国の戦死者は日本よりも少なく120万人とされているが、資料が不正確なために実際にはより多いと考えられている。
死者の多くは地上戦によるもので、日本は都市部への無差別爆撃を回避して、インフラのみに的を絞って爆撃したため空襲による死者は少なかった。
しかし、それは人道に基づくものではなく、交通マヒによる経済破綻を狙った結果であり、物流の崩壊から直接的な破壊よりも大量の餓死者を発生させることを目的としていた。
そうなる前に、結庵元帥による救国クーデタが成功したのは、近代中国にとって幸運なことだった言える。
戦争後半のシベリア戦線は、戦略爆撃で補給線を破壊されたロシア軍を掃討する一方的なものであったことから、よほど不運なものでないかぎり、命を落とすことはなかった。
そのために開戦当初から前線にいて辛酸なめ尽くした古兵と大戦後半に参戦して物見遊山気分で戦勝を迎えた新兵の意識の差は大きなものであり、しばしば復員船の中でトラブルとなった。
日本は主要な参戦国の中では、最も長期間戦っており1937年から1944年まで7年も戦っていたのだから、開戦初戦と大戦末期では兵士も将校も装備も何もかも違っていて当然といえた。
戦争最初の年には、1,000馬力級の液冷レシプロエンジン機が最新鋭戦闘機として紹介されていたのが、大戦最後の年には練習機扱いとなり、シベリアをジェット戦闘機が飛んでいるほどの発展があった。
世界初の実用ジェット戦闘機Ho262は、日独のジェットエンジン技術の集大成で推力855kgのNE004エンジンを主翼にポッド式に左右に1基ずつ搭載し、高度10,000mで時速885kmを発揮した。
しかし、Ho262が実戦配備されたころには日米は停戦しており、シベリアからロシア空軍機は掃討された後だった。
エンジンの信頼性の低さから、その存在はデモンストレーションの域をでなかったがレシプロエンジンを完全に過去のものとする性能から、戦後に主要国はジェットエンジンの開発競争にしのぎを削ることになる。
また、東太平洋海戦で威力を発揮したロケット兵器は、戦争終了後も各国で開発が続けられ、やがて弾道ミサイルという戦略兵器として一つの完成形に至った。
宇宙空間から音速の10倍以上の速度で落下する弾道ミサイルは迎撃不可能な絶対兵器であり、戦後に実用化された熱核兵器と組み合わされる形で全人類が自らを絶滅させられる状況を作り上げることになってしまう。
そして、講和条約によって悪の烙印を押され、国際的に孤立するに至ったアメリカ合衆国と日欧連合が大洋を挟んでにらみ合う冷戦と呼ばれる時代が訪れることになる。
ムッソリーニ初代欧州大統領による鉄のバスタブ演説が有名だろう。
北米大陸は巨大な鉄のバスタブに浸かっており~という下りは、冷戦を象徴する言葉となってその後、半世紀近く繰り返し政治的タームとして使用されることになった。
冷戦は幾多の代理戦争を挟みながらも、最終的に日欧の仕掛けた軍拡競争に敗北したアメリカが財政破綻し、1989年に終了した。
そして、世界は20世紀最後の10年を多くの民族紛争や宗教対立を抱えながらも大きな破綻や大戦争を経験することなく、21世紀を迎えることになるのである。
「めでたし、めでたし」
何も目出度くはなかったが、加藤明日香は読了した歴史書を閉じるとそう呟いた。
「何がめでたいの?」
「別に何もおめでたくないよ。そういうもんだよ」
そう・・・と明日香の友人のフジワラは気だるげに返事をした。
日暮れも終わりかけた時間になると高校の図書室からも流石に人気が少なくなる。
明日香はしんと静まり返った図書室の空気が好きだった。
日焼けした紙と椅子のフェルトの混ざった静寂に満ちた匂いが漂っている。
別に寂しいとは思わない。
明日香は一人ではないからだ。
「何の本?」
フジワラが読了した歴史書をつまみ上げた。
あまり本を扱うには適しているとは言えない持ち方だった。
図書委員のくせに。
「歴史の本だよ」
明日香がそう答えると、フジワラはそう・・・とだけ答えた。
日焼けしているわけでもなく、常に小麦色の肌に大きな目を乗せた小作りなフジワラの横顔は実に気だるげで、感情らしい感情がない。
口ぶりも実にぞんざいな感じだ。
別に彼女は無口というわけではない。
感情表現が苦手というわけでもない。
八州風の日本語が苦手なだけだった。
東印のケヨスから来た転校してきた彼女は、やや独特の日本語を使うので、油断して八州人のような速度で話すと猫が鳴いているような可愛らしい話し方になるのだった。
具体的には、語尾のイントネーションが、~NYAという変化の仕方をする。
それを彼女はとても恥ずかしがっているのだった。
200年前に八州の中部地方からジャワ島に移民して土着した日本人は、そういう日本語を話していたらしい。
チャーミングなフジワラによく似合っていると思うんだけどね。
「帰ろうよ」
「そうだね」
図書室を施錠して、学校の正門を潜ると丘の上に立っている高校から、海に沈んでいく太陽がよく見えた。
その手前にある横須賀海軍記念公園には、大昔の巨大な軍艦が浮かんでいて、大きなマストが長い影を地面に落としていた。
「フジワラ、あれが大和だよ」
「見れば分かるよ」
もちろん、そんなことは分かっている。
フジワラの両親は日本海軍の水兵さんなのだった。
彼女が明日香の高校に転校してきた日、どんな船に乗っているのか聞いてみたことがある。
そうしたら答えてはいけないことになっていると言われた。
軍港の街に住んでいる関係で、そういう話の終わらせ方には経験があった。
ただし、彼女はその後、秘密めかした口ぶりでこう言ったのだった。
「海の中で、世界を終わらせる日が来るのをずっと待つ仕事なんだって」
その言い回しが実に私の琴線に触れるところがあり、加藤明日香とフジワラユリは友達になることになったのだった。
「見に行く?」
「そうだね」
海と太陽に向かって丘を降りていくと、風にのって海の香りがした。
もう夏は終わって、そろそろ冬服に着替えなければならない季節だった。
金木犀も香りが漂うのはいつ頃だろう。
ああ、それにしてもお腹が空いた。
女子高生だって、腹が空くのだ。
「何か食べない?」
「ケンタッキーがいいな」
「フジワラは変わったものが好きだよね」
ケンタッキーとは、アメリカから上陸したあちら風の唐揚げのことだ。
経済破綻して合成麻薬が主要産業になった国の食べ物にしては、なかなかに美味い。
セットで売っているルートビアという、薬品の匂いがする飲み物も、フジワラの好みだった。
何がそんなにいいのか尋ねたところ、
「麻薬みたいなものかな」
と真顔で言われたことがある。
フジワラは変なものが好きなのだ。
「フジワラ、私のこと好き?」
「嫌いじゃないよ」
だが、あまり素直ではないのだった。
坂道を下りながら、とりとめもなくフジワラと下らないことを話した。
一番好きな色は何色か?逆に一番嫌いな色は何色か?
明日死ぬとしたら今から何をするか?
宝くじがあたったら、何をしたいか?
紅葉の対義語は何か?
アイスキュロスは本当にハゲだったのか?
今まで食べたもの中で一番美味しかったものは何か?逆にまずかった食べ物は何か?
猫のうんこを踏んで死んだやつは本当にいるのか?
そんなこと下らない話をしているうちに、日が暮れて、見下ろしていた巨大戦艦が見上げるほどの近くあった。
「これって動いたんだよね」
「船だからね」
何度見ても、これが動いていたのが不思議に思える。
だが、動いたのだ。
実は動いているのを見たことがある。
まだ小さいころの話だ。
冷戦が終わって、ペルシャ湾で最後の戦いに参加した大和が博物館になるために横須賀に来るのを見たことがある。
「もう動かないのかな」
「もう動かないよ」
大和はもう動かない。
動かない大和を見る人々が向こうからやってくるのだ。
博物館になった大和には、日本全国から多くの観光客がくる。
それこそ、大和を見るためだけに阿拉斯加県や布哇からツアーで来る人たちがいるぐらいだった。
ちなみに明日香は地元の人間なので、学校の遠足で何度も来たことがある。
小学生の頃には、この大和に乗ってアメリカ軍と戦ったお爺ちゃん達が、船の案内人として残っていた。
彼らは艦隊決戦で如何に勇敢に自分たちが戦ったか、アメリカの新型戦艦が途轍もない強敵だったのか、沈んでいく友軍の船を見るのはどれだけ悲しかったのか、カタパルトの上に乗っているロケット爆弾がどれほど物騒で危険なものだったか、停戦の後でアメリカの戦艦と交流してラムネとアイスクリームを作る機械を交換した話を詳しく教えてくれた。
そんな彼らも、明日香が高校に上がる頃には皆、どこかへ行ってしまった。
小さいころ、大和で飲んだラムネの味は、どんなだったか。
そもそもあれはラムネだったのか。
「でも、これは動いたし、今も在るんだよ」
「なにそれ?」
馬鹿を見るような目でフジワラが言ってきたので、私はどう答えたらいいのか分からなくなった。
我ながら、馬鹿みたいだなと思った。
こんな巨大戦艦が在ることも馬鹿みたいだし、ちょっと信じられないことなのだ。
この信じられなさをどう伝えたいのか私は悩む。
この船がただ在るということが、どれだけの不思議なことなのか、あり得ざる可能性の果ての、そのまた向こうにあるのか。
巨大戦艦と女子高生。
この組み合わせがどこからどのようにしてここに来たのか。
この国の、400年にも及ぶすべてが、ここの一点に在るのだ。
国破れて山河”在り”
そうだ。
ただ在るということ、続いているということが一つの驚異なのだった。
ただ、私の語彙力ではこういうのが精一杯だった。
「あり(在り)おり(居り)はべり(侍り)、いまたそがれ・・・」
「はぁ?」
フジワラが呆れているようだった。
空を見上げると大和の艦橋に紫色に輝く夜の帳が降りてくるところだった。
するとぼんやりと夕暮れの最後の残光が雲に反射して赤く輝いていたのだった。




