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ノーザン・ストーム



 ノーザン・ストーム


1943年に入ると第二次世界大戦はその趨勢が明らかになりつつあった。

 欧州戦線では、未だにロシア帝国軍はポーランド東部で粘っていたが、オーストリアからは既に叩き出されていた。

 兵士達の遥か頭上を飛び越えてランカスター重爆がロシア帝国の鉄道交通網を破壊しており、交通マヒによって前線への補給が滞っていた。

 さらにイランからの爆撃によってバクー油田は凶悪な油田火災の中で機能を停止しつつあり、燃料不足から革命的なTー34もただの鉄くずと成り果てていた。

 シベリア戦線においても、日本軍の戦略爆撃によってシベリア鉄道は運行を停止させられ補給は滞り、開戦緒戦の勢いは見る影もなくなっていた。

 米軍による対日戦略爆撃もハラスメント爆撃レベルまで低下しており、本土防空を担ってきた精鋭の第1航空艦隊も他の戦線への兵力の転用が始まっていた。

 兵力の転出先の多くは北太平洋だった。

 日本連邦軍はレコンキスタの次なる目標を阿羅斯加県に定めて、奥千島列島を東へと進んでいった。

 攻勢開始地点は1942年8月3日に奪還した来須賀島で、多数の空軍機が進出して霧と降雪の合間を縫って航空撃滅戦を仕掛けた。

 北太平洋の濃霧はしばしば航空作戦を停止させた。

 霧の中で戦えるのはレーダーを装備した艦艇だけで、島伝いに補給を行う日米海軍はお互いの輸送船団を狙って砲雷撃戦となることが多かった。

 1942年以降、殆どの日米海軍艦艇にはレーダーが装備されたが、北太平洋の戦いは視界0の霧中の戦いとなったためレーダーの性能差が即座に戦闘結果に反映された。

 日本軍が用いたレーダーは専らイギリスのライセンス生産品だったが、ドイツから入手したパラボナアンテナ技術とイギリスの高周波マグネトロンを組み合わせることで完成されたZゼータレーダは優れた探知能力をもつ対水上レーダーだった。

 ローブスイッチング機能を搭載したZレーダによって、日本海軍の艦艇は光学測距を排除した電探のみでの射撃が可能となった。

 Zレーダーは大戦末期になると出力600KWに強化し、パラボナアンテナを巨大化したゼータプラスへと発展することになる。

 巨大なパラボナアンテナを複数搭載した連邦海軍の水上艦艇は悪魔の城のような外見を呈するようになり、旧来の美的感覚からかけ離れていった。

 しかし、素人が美しいと感じる外観よりもよほど強力な電子兵器の城だった。

 アメリカ海軍もマイクロ波レーダーは実用化していたが、光学照準と併用しなければ実用的な精度は出せなかったことから、霧中での戦闘では一般的に不利だった。

 さらに日本海軍はイギリスからPPIスコープを導入するなど、レーダーの運用法を発展させ、電探海戦の技術を磨き上げていった。

 特に日本海軍が重視したのはESM戦術だった。

 レーダーは自らの探知距離の3倍以上先から逆探知可能であった。

 日本海軍には射程の長い酸素魚雷があり、逆探知した敵艦へ積極的に先制雷撃を行った。

 ソロモン海の戦いで酸素魚雷をゲップがでるほど発射してきた連邦海軍はその運用方法にも磨きをかけており、水上艦水雷戦闘の精華ともよぶべきレベルまで戦術を練り上げていた。

 酸素魚雷の生産も射程を15,000mまで短縮して雷速を50ktに固定し、炸薬量を700kgまで増やした3型に切り替わった。

 弾頭も技術交換で手にれたイギリス製のトーペックス爆薬となっており、3型酸素魚雷は一撃で戦艦を行動不能にするほどの威力を示すことになる。

 3型の特徴はドイツから技術交換で入手した"Federapparat-Torpedo"(spring device torpedo:ばね装置魚雷)の技術が投入されていることである。

 遠距離で命中率の低い魚雷の性能向上のために開発したFat酸素魚雷は、しばしば同士討ちを引き起こしたが、回避が困難でアメリカ海軍を悩ませた。

 日本海軍は相手の予想進路を逆探知で推測すると多数のFat酸素魚雷を隠密発射して、自走機雷原を作り、罠に飛び込んだ米駆逐艦隊を壊滅させた。

 ただし、より画期的な酸素音響追尾魚雷が同時に配備されたので、Fat酸素魚雷の活躍はあまり長くない。

 酸素音響追尾魚雷は自己雑音の抑制のために雷速は25ktでしかなかったが、酸素魚雷の長射程(25ktで45,000m)と組み合わせ使用することで、これまで当たらないとされてきた遠距離での命中率を飛躍的に向上させた。

 もちろん、潜水艦用にも音響追尾魚雷(電池式)の配備は進んでおり、欧州各国にも提供されている。

 日本だけ一方的に技術供与を受けているような印象があるが、日本から各国に開示されたのは専ら電気技術だった。

 電気技術に関していうなら日本は列強随一の実力を持っていた。

 戦車や戦艦の砲塔旋回装置はいうに及ばず航空機の動翼まで電動化しているのは日本連邦軍だけである。

 女性労働力活用のために家事労働時間削減を狙って戦時中に電気洗濯機や電気冷蔵庫、電気炊飯器の全国配布する国家など日本ぐらいなものだった。

 電気ネズミのマークで有名なサトシ電気は、


「電気に関することならなんでもある」


 とさえ評され、大戦末期に真空管の代わりにレーダー素子に使用する鉱石真空管ゲルマニウムトランジスタの実用化にさえ成功している。

 また、石油化学工業においてもアメリカ合衆国に比肩する技術を誇り、100オクタンガソリンを量産化した入光興産などが著名である。

 入光興産は爆薬製造に必要な硫黄の量産化のために、石油脱硫技術を1939年に実用化して、硫黄分の多い東印産原油から硫黄と低硫黄石油製品を大量供給した。

 欧州経済帝国の石油精製技術では92オクタンが限度で、それ以上は日本からの輸入と添加剤に頼っている。

 また、地味に重要なのが天然ゴムの生産であり、日本連邦の東印は天然ゴムの生産では世界一を誇り、日本連邦は全世界にゴムタイヤを供給する立場にあった。

 世界一のゴム企業とはいえば、御龍ゴムである。

 まるで人類滅亡を企む悪の秘密結社のような社名だが、サウス光太郎社長は正義感の持ち主で、社長業の傍らに私立孤児院を経営するなど、社会貢献に尽くした人物で知られる。

 御龍ゴムのゴムタイヤは第三国経由でロシア帝国やアメリカ合衆国でも使用されるなど、実質的な世界標準だった。

 ロシア帝国軍はその冷涼な国土から天然ゴムの生産が不可能であり、ゴムのストックが尽きるとあらゆる手段を用いて日本連邦からゴム密輸を図った。

 しかし、密輸では到底、需要には応えきれず、大戦後期になるとゴムの不足からトラック生産が不可能になり、馬車や鋼製転輪に退化するなど、悲惨な状況に追い込まれた。

 また、各種生産技術に関しても日本の方が欧州帝国に比べて優れていた。

 特に日本の自動車産業が日欧連合軍の兵站に果たした役割は大きかった。

 日本の自動車メーカーの最大手は清洲に本社を置く豊臣自動車だった。

 創業者一族は豊臣秀吉の末裔である。

 本能寺の変で大名としての豊臣家の政治生命は尽きたが、経済に関してはむしろ本能寺の変以後こそが本領発揮と言われるほどである。

 豊臣自動車は日本のフォード自動車たるべく流れ作業式の大量生産システム確立に大きな役割を果たした。

 二番手は馬尼剌に本社を置く呂宋産業コンツェルン、呂産るっさん自動車である。

 呂産もまたフォーディズムの影響を受けていたがフォードや豊臣自動車ほど大量生産特化せず、ブランド戦略が巧みという点ではアメリカのGMに似ていると言えた。

 三番手の鈴乃木は自動車と同時にバイクを作るという独特の戦略を採用し、日本のモータリゼーションに大きな役割を果たした。

 その他に大松や明石自動車、エルフ自動車など、多数の自動車メーカーが乗用車用の生産ラインの転用やトラック増産、兵器生産などに協力した。

 欧州標準戦闘機ユーロファイターとして、大量生産されたスピットファイアのマーリンエンジンは、豊臣自動車でOEM生産されたものである。豊臣自動車は終戦までに7万台のマーリンエンジンを欧州各国に納めている。

 豊臣や鈴乃木は人件費や労働力の確保が容易な東印や蘭州に工場を作り、現地生産と現地販売を徹底した。

 鈴乃木は至ってはインド共和国にさえ自動車とバイク工場をもっていた。

 鈴乃木は戦中から一貫して日本のバイク生産のトップシェアを誇り、戦後もそれ維持することになる。一時期、本田航空技研がバイク生産に進出したが鈴乃木の圧倒的な技術と生産力に太刀打ちできず、他のメーカーも撤退に追い込まれた。よって、日本のバイクは鈴乃木であり、鈴乃木以外のバイクは(恣意的な歴史改変が行われたので文章は削除されました。)











 ・・・インド共和国が日欧の総力戦に果たした役割は大きく、大英帝国の遺産を引き継いだインドは日欧の軍需生産によく応えていた。

 ルール工業地帯のような欧州経済の心臓を失った後でも欧州経済帝国が戦い続けられたのは、日本連邦やインドの生産力に依るところが大きい。

 1937年の朝鮮戦争以来、戦争特需で強引な拡大と発展を続ける日本経済のGDPは1943年時点で1937年の3倍以上となっており、同時期の日米の工業生産力はほぼ同等という数値にもなっていた。

 戦時という異常な状況下での成長であったものの、20年代から30年代初頭までのくよくよとした日本経済を考えれば、あれは何だったのかと首を傾げたくなるような発展であった。

 日本は充実した戦時生産で揃えた大軍で以て満州戦線を大きく前進させた。

 1942年12月までに鴨緑江に達した戦線は、春の雪解けを待って日本連邦軍の大攻勢が始まった。

 120万もの戦力を動員した日本連邦軍は、圧倒的な制空権の下で1939年のロシア帝国軍に比肩する機動戦を展開した。

 5,000機の空軍機がこれを支援し、動くものは全てが爆撃と機銃掃射の対象となった。

 シベリア鉄道の運行停止によって、ロシア帝国シベリア軍団は手持ちの弾薬が危険なほど少なくなっており、燃料の不足からT-34は動けなくなっていた。

 そのため、前進した日本軍は呆れるほど多数のT-34を捕獲することになる。

 鹵獲した戦車だけで1個装甲師団が編成できるほどであった。

 連邦陸軍は攻勢に際して日本陸軍史上初の軍集団を編成し、3個軍団を以て満州を北上した。

 最も東を進んでいるのは、外満州軍団(25個師団)だった。

 師団の全てが自動車化されており、先鋒を務める5個師団は歩兵を装甲車で運ぶ機械化歩兵師団となっていた。

 戦車師団と機械化歩兵師団に大きな違いはなく、師団を構成する3個連隊が2個戦車連隊と1個歩兵連隊なら戦車師団であったし、機械化歩兵師団なら1個戦車連隊と2個歩兵連隊といった具合である。

 八州を爆撃していたアメリカ陸軍航空隊もB-17の残骸を残して撤退していた。

 北鎮市も2年ぶりに解放された。

 解放軍として北鎮に入城した日本軍は、あまりにも出迎えの声が少ないことに不審感を覚えた。

 中国軍に占領された北鎮市は脱出の際に、殆どの市民が海路脱出したが都市に残ることを選択した者も多かった。

 多かったはずであった。

 しかし、日本軍が北鎮市に入城すると市内にいたのは中国人やロシア人の敗残兵ばかりで、町に残った日本人の姿はどこにもなかった。

 捕虜を尋問しても彼らの行方はわからないままだった。

 しばらくして真実が明らかになると日本全土に衝撃が走ることになる。

 北鎮に残った3万人の日本人は、北鎮郊外の林の中の大きな穴からむごたらしい死体となって発見されたのだった。

 所謂、北鎮大虐殺である。

 一般市民の虐殺は、明確な戦争犯罪である。

 その首謀者とされた蒋介石には逮捕状が請求され、日本軍は偽満州国首都のハルビンに向かって前進することになる。

 ハルビンに向かうのは第1軍団と第2軍団で、それぞれが東西からハルビンに迫った。

 第1軍団は、安東で鴨緑江を渡って北上し1943年6月までに瀋陽を占領した。

 遼東半島の先端にある旅順には軍港要塞があり、ロシア帝国軍と偽満州国軍が立て籠もった。しかし、日本軍はまともに相手にせず、封鎖を後からやってきた中国軍に任せるとさっさと前進している。

 瀋陽は満州の大都市であり、交通の要衝としてロシア帝国軍20個師団が防衛していたが、第1軍団の先鋒である第5装甲軍と第2軍団の先鋒である第1装甲軍が東西から防衛線を迂回して包囲した。

 教科書どおりともいえる両翼包囲戦であった。

 第5装甲軍の先鋒部隊とロシア帝国軍の戦車旅団が激突したのが、瀋陽戦車戦でありアジア最大規模の大戦車戦となっている。

 最大といっても400両程度の戦車が激突した程度であり、欧州戦線を考えれば牧歌的と言える規模でしかない。

 山岳戦専用ともいうべき一式中戦車が平原でT-34と戦うのは、些か不安なところがあったが事前の予想を覆して一式中戦車は平原でも十分T-34に対抗可能だった。

 長く朝鮮半島の山岳で戦ってきた日本連邦陸軍の戦車兵達は、ほんの僅かな地形の起伏を巧みに利用し、ハルダウンして戦う術を心得ていた。

 起伏がなければ、爆薬や重機を投入してでもハルダウンできる起伏を作りだして突撃するT-34を巧みに迎え撃った。

 一式中戦車は1個中隊につき、1両は必ず装甲ドーザー付きの土木戦車が配置されており、急速な野戦築城を助けた。

 また、9cm戦車砲の破壊力は十分だった。

 しかし、しばしば穴掘りを厭う戦車兵や迂闊な者がまともにT-34と戦って、50mmしかない車体前面装甲を貫通されて昇天することになった。

 また、攻勢作戦においては最終的に安全な地形から出て戦わねばならず、防御ならともかくとして攻勢作戦においては使いづらい戦車であることは間違いなかった。

 それでも大きな問題とならなかったのは制空権の掌握が圧倒的であるからだった。

 空にロシア空軍機の姿はなく、爆弾やロケット弾を抱いたHd190Bが戦場を往復して片っ端から動くものを吹き飛ばしていった。

 日本空軍は長い戦いの後に近接航空支援に習熟しており、陸軍からの信頼を回復していた。

 対地攻撃に威力を発揮したのはロケット弾や成形炸薬弾を内蔵したカセット爆弾で、タンクデサントの歩兵を戦車ごと薙ぎ払うのに役立った。

 頑丈なHd190は地上攻撃機としても優秀で、多少の被弾でも動き続ける頑丈な空冷エンジンのおかげで多くのパイロットから愛された。

 瀋陽につづけて、長春が再び日本軍機甲部隊の両翼包囲によってロシア帝国軍ごと包囲され5万人の兵士と共に陥落した。

 それでシベリア戦線は総崩れとなった。

 ロシア軍は各地で場当たり的な抵抗をしたが、日本軍の侵攻を止めることはできなかった。

 戦線崩壊を早めたのは満州国軍の士気の低さだった。

 満州国軍に名前を変えた中国軍の士気は最低以下まで下がっており、ほとんどの場合、日本軍は銃を構えることなく勝利することができた。

 ロシア帝国軍は逃げる中国軍兵士を射殺したり、督戦隊によって無理やり戦わせたが、全体としては焼け石に水という状況だった。

 大半の中国人は長過ぎる戦争にうんざりしており、食べるものにさえ事欠く有様で、やる気を失っていた。

 1943年8月までにハルビンが陥落し、蒋介石はロシアへの逃亡を図ったが、輸送機が墜落して他の亡命者ともども墜落死した。

 蒋介石の死体は高度3,000mからの墜落によってモンゴルの大地に五体投地してバラバラとなり、発見することはできなかった。

 そのため生存説が20世紀末まで繰り返し囁かれることになる。

 なお、墜落の原因は長らく謎とされたが、最終的にはバードストライクによるエンジントラブルであることが判明している。

 近代中国を地獄に引きずり込んだ独裁者の最後は空からの墜落死だった。

 蒋介石の死によって、日中戦争は一つの区切りがついた。

 さらに北太平洋で最後の日米艦隊決戦が生起し、太平洋戦争も概ね決着がついた。

 1943年8月22日、日本海軍の空母機動艦隊が米軍占領下の阿羅斯加を空襲した。

 日本海軍は阿羅斯加奪還作戦において、瑞鶴、翔鶴といった歴戦の空母を中心に18隻の空母を投入した。


 ・日本海軍連合艦隊

 

 第1機動艦隊(第1群) 角田覚治大将直卒 旗艦「大鳳」

  第1航空戦隊 翔鶴、瑞鶴

  第2航空戦隊 尾張、紀伊

  第3航空戦隊 大鳳、祥鳳

  第9航空戦隊 アトランティカ

  第5戦隊 那智、羽黒、妙高、高雄

  第11軽巡戦隊 最上、三隈、利根、筑摩

  駆逐艦 24隻(秋月級12隻、陽炎級12隻)

  艦載機 480機 


 第1機動艦隊(第2群) 旗艦「魁皇」

  第4航空戦隊 白鳳、神鳳

  第5航空戦隊 幡龍、龍鳳

  第8航空戦隊 グラーフ・ツェッペリン、ドクトル・エッケナー

  第9軽巡戦隊 石狩、十勝、波岸、束尾

  第14軽巡戦隊 曽呂、風呂護、真羽加夢、至瑠

  駆逐艦24隻(秋雲級16隻、秋月級8隻)

  艦載機 400機


 第1機動艦隊(第3群) 旗艦「隼鷹」

  第10航空戦隊 隼鷹、瑞鷹

  第11航空戦隊 海鷹、神鷹

  第12航空戦隊 翔鷹

  第3軽巡戦隊 那珂、神通、川内

  第12軽巡戦隊 七瀬、綾瀬、初瀬、高瀬

  駆逐艦24隻(朝潮級12隻、陽炎級12隻)

  艦載機 330機


 第1艦隊 栗田健男中将

  第1戦隊 大和、加賀、土佐

  第2戦隊 長門、陸奥、呂宋、蝦夷

  第3戦隊 伊勢、日向、出雲、蘭州

  第11戦隊 フリードリヒ・デァ・グロッセ、比叡

  第7航空戦隊 飛龍、蒼龍  

  第7戦隊 高雄、愛宕、摩耶、鳥海

  第8戦隊 青葉、衣笠、伊吹、八島

  駆逐艦22隻(島風級4隻、名雪級10隻、村雨級8隻) 


 艦載機の総数は1,000機を超えており、日本海軍史上最大の侵攻艦隊であった。

 この作戦から、機動艦隊から戦艦が外された。

 戦艦はその対空砲火から空母の護衛に使えると考えられてきた。しかし、実際には運動性の低さから空母についていくことができず、戦艦1隻よりも防空駆逐艦3隻の方よほど防空に適していた。

 そのため、防空駆逐艦の量産配備が進むと戦艦は機動部隊から外されて攻撃吸収のために前衛部隊として一纏めにされた。

 主力艦隊他に上陸船団の護衛艦隊や上陸支援を行う商船改造の軽空母なども投入されており、圧倒的な大戦力で日本軍は阿羅斯加に押し寄せた。

 対するアメリカ海軍も、この戦いを決戦と考えて最大兵力を投入した。

 高速戦艦だけで、ウィンシスコン、イリノイ、アラバマ、ユタ、サウスカロライナ、フロリダ、レキシントン、サラトガ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスダコタ、インディアナの12隻に加えて、新鋭のジョージア級巡洋戦艦4隻(ジョージア、ヴァージニア、ロードアイランド、ネブラスカ)を投入していた。

 大改装を施した旧式戦艦部隊も総動員されており、コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、ワシントン、ニューメキシコ、ミシシッピ、アイダホの7隻が別働隊として戦線投入されている。

 戦艦は合計23隻となり日本海軍の2倍の数字だった。

 だが、今次大戦において海戦の主役となるべき空母は、歴戦の空母エンタープライズに加えて正規空母オリスカニー、レプライザル、軽空母インディペンデンス、プリンストン、ベローウッドの6隻に過ぎなかった。

 オリスカニーとレプライザルは新鋭艦であったが、そうであるがゆえに練度が低かった。

 軽空母のインディペンデンスやプリンストンも同様であり、乗り込んでいるのは新兵ばかりで、とても歴戦のツワモノが揃った日本海軍機動部隊に勝てる陣容ではなかった。

 そこで米海軍が立てた迎撃作戦は、空母を囮にして敵機動部隊を誘引して、その間に戦艦部隊を上陸船団へ突入させるというものだった。

 一見すると無謀な作戦のように思えるが、阿羅斯加に展開した基地航空部隊による航空支援があれば実現可能だった。

 問題は阿羅斯加の基地航空部隊が、米艦隊の到着前に日本海軍機動部隊の攻撃ですり潰され、壊滅してしまったことだろう。

 最寄りのメインランドであるシアトルから阿羅斯加は3,000kmも離れており、陸続きの場所ではあったものの、航空戦力の補充は容易ではなかった。

 間に挟まるカナダは中立を盾にあらゆる領土内通行を拒否していた。

 そのためにアメリカ軍内部では、密かにカナダ占領作戦まで計画されたが阿羅斯加防衛のためにカナダを敵にまわすなど、本末転倒でしかなかった。

 阿羅斯加を空襲した日本海軍機動部隊は奥千島列島を荒らし回り、アメリカ軍の哨戒圏内から離脱した。

 再び、アメリカ軍が日本製のサイクロンを捉えたのは、8月29日のことで米軍が在阿羅斯加の全航空戦力を投入して、反撃を行ったことから奥千島列島沖航空戦が生起した。

 この戦いで、米陸軍航空隊はB-25やB-26、B-17を中心とした反跳爆撃戦法によって、多数の日本軍空母を撃沈したと報道発表した。

 なんと11隻の日本空母が沈んだのである。

 それが本当なら戦況が一度にひっくり返るほどの大戦果だった。

 アメリカ陸軍航空隊は日本海軍の対空防衛網を突破するために、濃霧や悪天候を利用した特別攻撃の訓練を重ねており、それが功を奏したと考えた。

 しかし、実際には日本海軍の空母で沈んだ船は1隻もなく、それどころか8,800t級巡察艦が1隻大破した程度の損害でしかなかった。

 アメリカ軍攻撃隊は、濃霧の切れ間を利用して攻撃を行ったが、そうであるがゆえに戦果確認が著しく困難だった。

 対空砲火で撃墜される友軍機の火柱が、敵艦への攻撃に見えてしまった。

 つまり、全ては誤報でしかなかった。

 逆に霧の中での長距離攻撃によって、在阿羅斯加の航空戦力9割が事故と対空砲火による同士討ちで壊滅するなど、散々な結果に終わっている。

 もちろん、誤報の可能性を指摘する声は米海軍を中心にあるには、あった。

 しかし、ホワイトハウスでアイアンマン副大統領が自信満々に大戦果を報道発表したあとで、誤報を指摘するなど政治的に不可能だった。

 1943年9月11日に、上陸部隊を乗せた大船団が阿羅斯加の新根室に殺到した。

 無傷の日本海軍機動部隊がこれを空から援護していたが、ホワイトハウスは最後まで誤報に気づかないままに米海軍に迎撃を命令。

 北の暴風作戦ノーザンストームが始まってしまう。

 三方に分かれて新根室に向かった米太平洋艦隊は、第1機動艦隊の激しい阻止攻撃に直面することになった。

 もっとも激しい攻撃を浴びたのは、巨大なモンタナ級戦艦4隻を抱えた米太平洋艦隊キンメル長官直卒の第11任務部隊だった。

 第5次に渡る攻撃で戦艦ルイジアナが撃沈され、イリノイ、アラバマ、レキシントン、ユタが自沈処分されるなど、艦隊が半減するほどの損害が生じた。

 対する日本軍の損害は極めて軽微だった。

 撃墜された攻撃機は40機足らずだった。述べ1,000機を投じた大規模攻撃の割に損害が少ないのは、米艦隊に直掩機がいなかったことや、対空砲火が無力化されていたことが大きい。

 日本海軍は対空砲火をアウトレンジするため、滑空魚雷に音響追尾機構を組み込んだ滑空誘導魚雷を大量使用した。

 滑空魚雷そのものは開戦当初から使用されていたが、200発以上の大量発射でしか命中が期待できないなど、コストパフォーマンスの悪い兵器だった。

 戦時下であっても許容限度ギリギリの兵器であった滑空魚雷の効率化は急務であり、様々なアプローチが模索された。

 その中でも本命と考えられたが、魚雷に誘導装置を組み込むことだった。

 ドイツからの技術供与で水上艦艇用の酸素魚雷や潜水艦用魚雷には音響追尾装置が組み込まれており、航空魚雷に搭載するのは難しい問題ではなかった。

 水上艦用に比べて小型の航空魚雷に誘導装置を組み込む場合、弾頭威力を削るしかなかったが、日本空軍は炸薬をTNTからトーペックスに変更することで弾頭威力を維持した。

 滑空誘導魚雷を抱えたNk197艦上雷撃機は、キンメル艦隊の対空砲火の射程圏外から一方的な攻撃が可能だった。

 皮肉なことに、キンメル艦隊の対空戦闘で最も活躍したのは、それまで対空戦闘で役立たずとされてきた戦艦の主砲で、高角砲の射程圏外から攻撃する雷撃機を対空榴弾で撃墜することに成功している。

 キンメル艦隊が全滅しなかったのは、エンタープライズを中心としたハルゼー機動部隊の出現を受けて、第1機動艦隊が攻撃を途中で切り上げたからだった。

 日米最後の機動部隊決戦は、ハルゼー艦隊が先制し、215機の艦載機を発進させた。

 しヵし、相次ぐ敗戦で平均練度が低下した米攻撃機群は、第1機動艦隊の対空防衛網を突破することはできなかった。

 それどころか、航法ミスで海没する機体が続出するなど、戦い以前の問題だった。

 故に、囮に使えないと判断された米機動部隊は、日本軍偵察機に発見されると全速で南下した。

 そのフェイントに第1機動艦隊はまんまと乗せられてしまう。

 日本海軍史上最大の航空機動艦隊を率いることになった角田覚治大将は、猛将と名高く闘志で艦隊を率いていくタイプだった。

 それは彼の生来の性格であったが、ミッドウェー戦後は特にその傾向が強まった。

 自身の判断ミスであわやということになりかけたことを角田提督は引きずっており、ミスを帳消しをするために以前にまして戦果を求めるようになっていた。

 そのため、


「大規模作戦の指揮官としてはどうか?」


 という声も作戦開始前にはあった。

 しかし、ミッドウェーの英雄である山口多聞は病休で出撃可能な状態ではなく、他に適当な空母部隊指揮官もいなかったことから角田提督が充当されたという経緯がある。

 艦隊参謀の中には、


「空母は囮で、戦艦突入こそ彼らの本命」


 という完全に正しい分析もあったが、角田提督は空母こそ艦隊主力と考えていた。

 あるいは、そう信じたかったといえた。

 結果、第1機動艦隊は上陸船団の護衛を放り出して、全速で南下。


「カクタ・チャージ」


 という戦史に名高い最悪の前線指揮官暴走を引き起こしてしまった。

 角田提督は連合艦隊司令部からの作戦介入を避けるために故意に無線封鎖を行って、艦隊の位置を味方に連絡しないままに南下していった。

 そのため、1943年9月18日の早朝に上陸部隊を支援する護衛空母部隊(シーマ艦隊)が水平線上に多数のマストを発見したとき、シーマ清英提督は


「なんだありゃ、味方か?」


 と素っ頓狂なセリフを言い放つ羽目になった。

 シーマ艦隊が遭遇したのは、壊滅したはずの米戦艦部隊(第11任務部隊(キンメル艦隊))だった。

 キンメル艦隊は第1機動艦隊の攻撃で戦艦の半数を失うという悲劇に見舞われ、後続部隊と合流して戦力を補強するために一旦後退していた。

 角田提督はそれを都合よく撤退と解釈して、連合艦隊司令部に報告を上げていたことから、現地の日本軍はキンメル艦隊は撤退中だと思い込んでいた。

 ちなみに夜間の間に後続の低速戦艦部隊(キンケイド艦隊)と合流したキンメル艦隊もまた、目の前に突然に現れた日本軍機動部隊に驚き、小型の護衛空母を正規空母と誤認するという錯誤を犯している。

 しかし、たとえ護衛空母であっても垂涎の獲物であることには変わりなく、シーマ艦隊の護衛空母は飢えた狼の前に差し出された羊の役を演じる羽目になった。

 シーマ艦隊が即座に全滅しなかったのは、護衛駆逐艦の自殺的な突撃に寄るところが大きいが、それ以上に装甲皆無な商船改造の船体を徹甲弾がすり抜けてしまうという幸運があった。

 巡洋戦艦サラトガの16インチ砲弾が降り注いだ護衛空母雁米(艦名は阿羅斯加の雁米湾にちなむ)は砲弾が船体を突き抜けて起爆しなかったから爆沈を免れた。

 逃げ惑うシーマ艦隊は全周波帯で救援を求め、ハワイに進出した連合艦隊司令部もようやく戦況を把握することになった。

 撤退したと報告(誤報だった)を受けていた米戦艦部隊がシーマ艦隊を追いかけ回していることを知った小沢連合艦隊司令長官はただちに第1機動艦隊に救援を命じたが、第1機動艦隊は200kmも南にいて囮のハルゼー艦隊を攻撃中であり、救援どころではなかった。

 シーマ艦隊から戦艦の足で北に半日の場所には、揚陸作業中の阿羅斯加上陸船団(25個師団)が新根室湾を埋め尽くしており、控え目に言っても戦況は絶望的だった。

 シーマ艦隊の悲劇は角田提督の無思慮な暴走が引き起こしたものであり、角田提督が終戦を待たずに予備役編入となったのは当然だろう。

 彼が銃殺ではなく、予備役編入に留まったのは最終的に日本軍が勝利したからである。

 もちろん、キンメル提督が突然、臆病風に吹かれて反転して逃げ出したわけではない。

 反転してきたのは、栗田健男中将率いる第1艦隊であった。

 キンメル艦隊がシーマ艦隊を今まさに全滅させる寸前で戦場に出現した栗田艦隊はおおよそ軍事的な意味でありえない奇跡だった。

 何しろ、第1艦隊は第1機動艦隊と共に全速力でハルゼー艦隊を追撃しているはずだったからである。

 しかし、栗田提督は夜半すぎに突如として追撃を中止して艦隊を反転させた。

 この反転は連合艦隊司令部も第1機動艦隊も把握しておらず、完全に栗田提督の独断による反転だった。

 通常なら、敵前逃亡として銃殺刑にもなりかねない独断専行である。

 第1艦隊司令部の全ての参謀が反対する中で強行された栗田提督の謎の反転は、第二次世界大戦での最大のミステリーとなった。

 所謂、栗田ターンの謎である。

 通説ではハルゼー艦隊が囮であることを見抜いた栗田提督の名采配とされる。

 しかし、栗田提督は自分自身の判断について一切語らなかった。

 それこそ後付でもいいから何かしらの証言でも残しておいてくれた方が、まだマシだったと言えるほど栗田提督はこの反転について説明することを拒んだ。

 それが好事家や歴史家の興味を惹きつけることになり、栗田ターンは第二次大戦最大のミステリーとして成立することになる。

 栗田提督が臆病風に吹かれたという説も有力視されたことがある。

 しかし、栗田提督の軍歴は殆どが最前線での戦闘指揮に終始しており、その判断は慎重すぎることもあったが臆病ではなかった。

 精神医学者が反転衝動なる精神病理説まで使って説明を試みたが、結局、21世紀現在でも説得力のある説明は見つかっていない。

 ともかく、栗田艦隊の反転で日本軍は最悪の戦略的敗北を免れた。

 シーマ艦隊の救援要請を受けて急行した栗田艦隊はキンメル艦隊の後方から戦場に出現した。

 キンメル艦隊は栗田艦隊の出す水上レーダーの電波を受信しており、シーマ艦隊追撃を切り上げ反転して、日米最後の艦隊決戦に臨むことになる。

 なお、栗田艦隊と最初に対戦したのは、キンメル艦隊と合流したキンケイド提督率いる低速戦艦部隊だった。

 キンメル艦隊と合流したキンケイド提督の低速戦艦部隊(コロラド、メリーランド、ウェストバージニア、ワシントン、ニューメキシコ、ミシシッピ、アイダホ)だったが、シーマ艦隊を追撃するために速度を上げた高速戦艦部隊(ウィンシスコン、サウスカロライナ、フロリダ、サラトガ、ノースカロライナ、サウスダコタ、インディアナ、ジョージア、ヴァージニア、ロードアイランド、ネブラスカ)には追随できず、後方へ置き去りにされていた。

 そのため、米艦隊は二群に分かれており、栗田艦隊は各個撃破の好機にあった。

 さらに栗田艦隊は砲火力の劣位をひっくり返すための新兵器を戦場に持ち込んでいた。

 距離38,000mから、栗田艦隊の重巡以上の全ての大型艦は一斉にMb163C(艦対艦誘導噴進弾)を発射した。

 これは世界初の艦対艦ミサイルの実戦投入であった。

 Mb163CはT液(過酸化水素)とC液(メタノール+ヒドラジン)の爆発的な燃焼反応を推進力に利用する高温ヴァルターロケットで、時速1,000kmまで加速。各艦からのラジオコントロールでキンケイド艦隊の戦艦群へと突入していった。

 高温ヴァルターロケットは、元はドイツ帝国で次世代の航空機動力として開発が進んでいたものである。

 しかし、国土の大半をロシア軍の占領されたドイツでは開発を継続することは不可能だった。

 そこでドイツ政府は最新技術をロシア人の手に渡る前に脱出させることにした。その中でも特に機密度が高く、高度な技術が必要なロケット兵器関係技術を日本連邦へ脱出させた。

 日本でも独自にロケット開発は進んでいたが、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士やヴァルター・ドルンベルガー少将などのドイツ人研究者の参加は、ロケット兵器を一気に実用段階に引き上げるほどの効果があった。

 その中でも航空機動力用の高温ヴァルターロケットの利用は、経空脅威にさらされている水上艦にとって福音になる可能性があった。

 日本海軍の巡察艦以上の船には、水上偵察機用のカタパルトを装備していた。

 そのカタパルトから発進するロケット防空戦闘機があれば、エアカヴァーなしで水上艦を展開できる可能性があったのだ。

 実際には、空母の増勢や基地航空隊の整備で水上艦がエアカヴァーなしで作戦行動する必要はなくなり、カタパルト発進するロケット防空戦闘機は机上の空論でしかなかった。

 しかし、試作機Mb163Aは技術開発のため各種評価が行われた。

 最大の問題は稼働時間の短さで、Mb163Aは燃料満載でも5分しか飛べなかった。また、機体は使い捨てにするしかないことが判明した。

 一応、ソリをつけることで海上への不時着は可能だったが、海水に浸かったロケットエンジンを再使用することは暴発の危険があり、機体はともかくエンジンは再利用はできなかった。

 再利用不可能な使い捨てならば、無人化して自爆攻撃に使用する方が理にかなっており、対艦攻撃用に転用されたのがMb163Cであった。

 MB163Cは有人式であったMb163Aを無人化したもので、コクピット部分に200kgの徹甲弾頭と母艦からのラジオコントロール装置を搭載した以外は、Mb163Aと同じものだった。

 Mb163Cはカタパルトとロケットを併用して母艦から発進し、母艦からの指令誘導で敵艦に突入する。母艦はレーダーで目標を照準しつづければ、あとは自動攻撃だった。

 発射された23発のMb163Cのうち、半数がロケットモーターの作動不良と誘導装置の機能不全で命中しなかった。

 しかし、残りの11発は時速1,000kmでキンケイド艦隊の戦艦群に突入し、舷側装甲を貫通して艦内で200kg徹甲弾頭を起爆させた。

 その効果は劇的で、弾薬庫に直撃を受けた戦艦コロラドは爆沈し、ワシントンは機関爆発で行動不能になり、2発が命中したアイダホは艦全体が火の海になった。

 Mb163Cのロケットモーターの稼働時間は5分だったが、38kmから発射されたことから残燃料は半分以上残っていた。

 そのためキンケイド艦隊の各戦艦は過酸化水素とヒドラジンという最悪の艦内火災に襲われ、火だるまになった。

 攻撃した側の栗田艦隊があまりにも酷い船舶火災に戦いたほどだった。

 しかし、栗田艦隊もそのような危険物をカタパルトに2~3機ずつ搭載しており、一刻も早く射出してロケットを使い切ってしまわなければ、次に火だるまになるのは自分の方であるため、容赦なく追加のロケット攻撃が行われた。

 一般的な砲戦距離である25,000mに接近するまでにキンケイド艦隊はさらに2回のロケット攻撃を受けることになり、なんら戦闘に寄与することなく全滅した。

 目の前で、味方のキンケイド艦隊が瞬く前に全滅させられたのを見たキンメル艦隊は、艦隊が出しうる最大速度で栗田艦隊に接近し、砲撃戦へと突入した。

 栗田艦隊のロケット攻撃で味方が主砲を撃つまもなく全滅させられたのを見た彼らは、接近戦に持ち込むことでロケット攻撃を封じようとしていた。

 実際には、栗田艦隊は各艦に2~3発しかMb163Cを搭載していなかったから、キンケイド艦隊を全滅させた時点で栗田艦隊はロケットを使い尽くしていた。

 平均以上に勇敢な日本人が集まった日本海軍であっても危険物の塊であるロケットを3機以上、自分の船に乗せる勇気はなかった。

 日米艦隊の戦艦はそれぞれ11隻ずつで数的には互角の戦いだったが、船の陣容は日本側が見劣りしていた。

 栗田艦隊の戦艦のうち、半数が36cm砲搭載艦(伊勢、日向、出雲、蘭州、比叡)であり、41cm砲搭載艦(長門、陸奥、呂宋、蝦夷、加賀、土佐)も20年以上前に建造された船だった。

 新世代と呼べるのは、大和型戦艦唯一の生き残りである大和とドイツからの購入艦であるフリードリヒ・デァ・グロッセしかなかった。

 ロートル艦で戦わなければならない栗田艦隊は危険を承知でMb163Cを搭載したのは、船のコンディションを考えれば止む得ない選択だった。

 対するキンメル艦隊は、巡洋戦艦サラトガ以外は新鋭艦だった。しかも、46cm砲搭載艦の大和級ですら持て余すモンタナ級戦艦3隻が(ノースカロライナ、サウスダコタ、インディアナ)が残っていた。

 最新鋭のジョージア級巡洋戦艦4隻に至っては、高速戦艦のアイオワ級よりも2kt早い35ktの超高速戦艦であった。その超高速を発揮するためにアイオワ級の船体を流用し、28万馬力の機関を搭載し、主砲を特別設計の12インチ砲としていた。

 16インチ砲から12インチ砲への後退は、一見して砲火力を犠牲にした設計と思えるが、特別設計の12インチ60口径砲の最大砲戦距離は大和型戦艦の46cm砲とほぼ同等であり、軽量高速弾を使用することで15km前後で大和の船舷装甲を貫通可能だった。

 実際に巡洋戦艦ジョージアはロケット攻撃を阻止するために40km時点で砲撃を開始しており、栗田艦隊を驚かせた。

 何しろ、砲弾の全てが明後日の方向へ飛び去ったのだから、驚くより他なかった。

 高速戦艦同士の戦いで、40kmというのは現実的な砲戦距離ではなく、誘導兵器でもなければ命中は不可能だった。

 そのため、栗田艦隊が応射したのは25kmまで距離を詰めてからであり、新技術の電探射撃も合さって旗艦の大和は初弾からキンメル艦隊の旗艦であるノースカロライナに命中を得ている。

 キンメル艦隊も応射して、本格的な砲撃戦が始まった。

 それぞれの旗艦である大和とノースカロライナの撃ち合いは、ソロモン海の焼き直しで16インチ砲12門のノースカロライナが手数に勝り、一発の威力では46cm砲の大和が上回っていた。

 16インチ砲弾を多数浴びた大和は艦全体が廃墟のようになったが、バイタルパートへの貫通は許さず、反対にノースカロライナに突き刺さった46cm砲弾は確実にバイタルパート内部へのダメージを与えていった。

 1年ぶりのリターンマッチで先に根負けしたのはノースカロライナだった。

 大和の第5斉射で46cm砲弾2発を浴びたノースカロライナは機関部を撃ち抜かれて戦列離脱を余儀なくされた。

 最後まで大和が耐えられたのは、ソロモン海の戦いで大量の16インチ砲弾を浴びて艦をボロボロにされた経験から、防御上の弱点を徹底的に改修し、さらに実践的なダメージコントロールの訓練を徹底していたからだった。

 そうした実践的なハードウェアとソフトウェアの改善を施された栗田艦隊の戦艦は年相応以上のしぶとさをみせた。

 明らかに格上のインディアナ(モンタナ級戦艦)と撃ち合った戦艦加賀も上部構造物が修理不能と判断され戦後に廃艦となったほどだが、主砲は全門射撃可能だった。

 アイオワ級のウィンシスコンと撃ちあった比叡でさえ、主砲2基を破壊されながらも最後まで戦場に踏みとどまった。

 ドイツから購入艦であるフリードリヒ・デァ・グロッセは42cm砲搭載艦ということでサウスダコタとほぼ互角の撃ち合いを演じた。

 日米最後の艦隊決戦のハイライトとなったこの砲戦は、日米独の最強戦艦同士の対決であったが勝敗を決したのは格下同士の対決だった。

 ジョージア級巡洋戦艦と撃ち合った36cm砲搭載戦艦(伊勢、日向、出雲、蘭州)は、その主砲火力でジョージア級を打ち負かしたのだった。

 アイオワ級戦艦の船体に超長砲身12インチ砲を搭載したジョージア級は防御も12インチ防御まで削減されており、36cm砲とまともに撃ち合える船ではなかった。

 軽量高速弾を使うことで大和型並の砲戦距離を実現していたものの、12インチ砲は12インチ砲であり、20~25km前後の砲戦距離では36cm砲10門の伊勢型戦艦に比べると遥かに弱火力だった。

 ジョージア級はそもそも格下の日本重巡の掃討や艦隊決戦時の遊撃部隊であることを求めており、敵戦艦とまともに撃ち合える船ではなかった。

 ジョージア級4隻が戦列から脱落すると米戦艦を守っていた巡洋艦部隊に36cmが降り注ぐことになり、歩調をあわせた日本海軍水雷戦隊の突撃が始まる。

 日本海軍最後の統制雷撃戦を敢行した第4水雷戦隊は、144本の酸素魚雷を距離5,000mから発射し、米戦艦群の下腹に大穴を空けた。

 この雷撃戦でサウスダコタが轟沈し、ウィンシスコンが機関停止に追い込まれた。

 これで日米最後の戦艦対決の勝敗は決し、米艦隊の残存艦艇は撤退を決意したことで、東太平洋海戦は終結することになる。

 日本軍の追撃により、出撃時に23隻もあった米太平洋艦隊の戦艦は幸運にも逃げ切った巡洋戦艦サラトガを除いて尽く水底に沈むことになった。

 逆に囮役だったハルゼー艦隊は、連合艦隊司令部の厳命によって角田艦隊が途中で攻撃を引き上げたことで、空母エンタープライズを含む4隻が西海岸のエアカヴァーに逃げ込むことに成功した。

 それどころか、反撃によって空母海鷹を撃沈し、翔鶴を大破させたのだから実力以上に健闘したと言えるだろう。

 しかし、アメリカ海軍がこの戦いで喪失した海軍将兵は4万人を超えており、もはや再起不能だった。

 一度の海戦で戦艦22隻が沈むことを許容できる海軍などこの世のどこにも存在しない。

 なによりもルーズベルト大統領の心臓が保たなかった。

 敗報を受け取ったルーズベルト大統領はすでに健康状態が悪化しており、太平洋艦隊の壊滅的な敗北に耐えることができず、急性心不全で死去した。

 大統領の死により、アメリカ合衆国政府は政変が発生し、政治的な混乱から戦争どころではなくなってしまった。





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― 新着の感想 ―
[一言] 明らかに関わってるのがわかる名前だなぁ
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