ミッドウェイ
ミッドウェイ
中道島の発見は、1849年のことである。
発見者は捕鯨船の立花丸で、ちょうど日本では大塩平八郎の乱が起きて大阪城籠城戦が始まるところである。
日本初の民衆革命の時代に発見された中道島だったが、島そのものは平和であり、革命とは全く無関係だった。
だが、立花丸の船長は几帳面にもその島の存在を日本海軍(当時は幕府海軍)の航路局に通報し、後日、幕府海軍の巡察艦が日本の領有を示す石碑を建ている。
太平洋の中央航路に近いことから、中道島というあまりオリジナリティや文学性のない名前をつけられた島は、20世紀なかばまで海鳥の楽園であった。
それが変わったのが1941年4月12日のことでアメリカ軍海兵隊が上陸し、サンゴ礁が堆積してできた島に滑走路を作り始めた。
彼らは母音の発音が強すぎるため使いづらい日本語名の島を直訳して、ミッドウェー島と呼び始めた。
この島はアメリカ軍占領下にある布哇の西の前哨であることを期待されていた。
戦争がアメリカの不利に傾くとその役割は一層重要となり、島全体が高度に要塞化された。
といってもサンゴ礁が堆積した島は起伏がほぼ皆無に等しく、さらに固い珊瑚の堆積物を掘るのは米軍の機械力を投入しても困難だった。
しかし、発達したサンゴ礁が一種の堀と阻塞の役割を果たしており、うかつに上陸用舟艇が接近しようものなら船底に大穴が空くのは必至であった。
実際によく似た立地条件の上行島の戦いは、日本軍がサンゴ礁の突破に手間取り大損害を被った。
1942年12月8日、太平洋の南と北の戦いで勝利した日本連邦軍は開戦緒戦で失った領土の奪還に動き出した。
目指すは布哇。
しかし、その前にはアメリカ軍に占領された上行島と中道島が前哨として存在しており、放置して進むことは危険だった。
そこで日本軍は最初に上行島の攻略に取り掛かった。
真田諸島の整備された航空基地から重爆撃機が出撃し、絨毯爆撃で上行島を掘り返し、潜水艦すら接近不能なほど厳重に封鎖を実施した。
その上で戦艦長門以下4隻(長門、陸奥、伊勢、日向)と重巡洋艦4隻が艦砲射撃を3日間に渡って実施した。
「島が海に沈んでしまうかもしれない」
と思わせるほどの爆煙に島全体が包まれた。
しかし、米軍は死滅していなかった。
彼らが頑丈な珊瑚の堆積物をコンクリートで補強した地下陣地に潜んでおり、日本軍が上陸してくるのを待っていたのである。
上陸作戦が始まると日本軍は地獄へと放り込まれた。
アメリカ海軍海兵隊1個連隊はサンゴ礁で上陸用舟艇がかく座すると37mm対戦車砲やM2重機関銃の一斉射撃を浴びせた。
米海兵隊3,500名の10倍の戦力(3個師団)を上陸させた日本軍だったが、上陸第1波の日本海軍海兵隊は死傷者多数で壊滅、続く第2波は戦艦からの弾幕射撃をカーテンに上陸を試みたが機雷原で大打撃を受けた。
第3波によって漸く上陸に成功したものもトーチカに立て籠もって頑強に抵抗する米海兵隊を相手に日本軍は手を焼いた。
最終的に日本軍はトーチカを一つ一つを火炎放射器とダイナマイトで爆砕して漸く上行島を占領した。
上行島の激戦はガダルカナル島に匹敵する恐怖の代名詞として長く記憶されることになる。
だが、レコンキスタに燃える日本軍の歩みを止めるほどではなかった。
占領された上行島にはただちに空軍機が進出し、ミッドウェー島への偵察が開始されている。さらに哨戒のための飛行艇や水上機も前進して、日本軍の前哨基地として機能し始めた。
哨戒や偵察で活躍したのは日本連邦海軍が誇る大型飛行艇で、Kh2は偵察飛行時は8,000kmに達する長距離飛行が可能だった。
Kh2は北崎重工の飛行艇デザイナー菊原静男が手がけた大型4発飛行艇で、その後に開発された日本海軍大型飛行艇の全ての原型となるものであった。
第二次世界大戦で使用された全ての飛行艇の中でも最優秀とされるKh2は対水上レーダーを搭載してミッドウェー方面への偵察へ投入された。
また、水中にも多数の潜水艦を配置して、偵察力を強化された。
日本連邦軍情報部の電波偵察部隊も上行島に進出して、電波傍受と解析、さらに周辺海域に展開する友軍部隊への通報体制を整えた。
これほどまでに日本軍が綿密に索敵手段を整えたのは、中道島奪還阻止のために現れるだろう米空母機動部隊の動向を掴むためだった。
開戦以来、日本海軍と激闘を続けてきたアメリカ海軍太平洋艦隊の中核にあったのは、彼らが軽視してきた航空母艦だった。
CV-1ユナイテッド・ステーツとCV-4エンタープライズは敵手である日本連邦海軍も敬意を評するほどであった。
「あの2隻には単純な兵器を超えた威厳があった」
と戦後に連合艦隊司令長官堀悌吉大将も述べている。
連邦海軍第6艦隊を率いるディエゴ中将は私費でユナイテッド・ステーツとエンタープライズに100万円のもの懸賞金をかけて部下に発破をかけるほどだった。
大卒者の初任給が2万円の時代に100万円である。
なお、ディエゴ中将の実家は東印に所領をもつ大貴族であり、戦後に老朽化した潜水艦を私費で買い取って博物館を開くほどの金持ちである。
それはさておき、米空母機動部隊は北太平洋海戦での損傷から復帰すると太平洋各地をゲリラ的に空襲し、日本軍を撹乱する作戦に出た。
所謂、ヒットエンドランである。
この攻撃は軍事的には無意味で、日本軍の損害は軽微だったが、アメリカ海軍の勝利として新聞報道され、停滞気味のアメリカの国内世論を盛り上げる効果があった。
ミッドウェー島攻略には、この米空母をおびき出して撃滅するという副次目標が設定されたのは、当然といえば当然だった。
1942年12月には、パナマ運河を通過して、大西洋から空母ワスプが回航され、太平洋艦隊の空母戦力は限界まで強化された。
1942年12月末時点のハルゼー機動艦隊の戦力は以下のとおりだった。
第38任務部隊 指揮官ウィリアム・ハルゼー中将 旗艦「エンタープライズ」
空母 エンタープライズ、ユナイテッド・ステーツ、ワスプ、
タイコンデロガ、バンカーヒル
戦艦 ウィンシスコン、イリノイ、アラバマ、ユタ、サウスカロライナ、フロリダ
レキシントン、サラトガ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスダコタ
重巡洋艦 6隻
軽巡洋艦 8隻
駆逐艦 38隻
艦載機数 476機
この他に護衛空母もあったが、最前線で使える代物ではないため除外して考える。
日本軍のミッドウェー攻略において、最大の脅威は米空母であり、歴戦の空母航空戦の指揮官であるウィリアム・ハルゼー提督だと考えられていた。
決戦を前にして、日本海軍は艦隊の再編成を行って、主力艦隊をトラック環礁へと集結させた。
ミッドウェー島決戦前の戦力は以下とおりである。
第1航空艦隊 指揮官山口多聞中将 旗艦「大鳳」
第1航空戦隊 翔鶴、瑞鶴、千鶴
第2航空戦隊 尾張、紀伊
第3航空戦隊 大鳳、幡龍
第8航空戦隊 グラーフ・ツェッペリン、ドクトル・エッケナー
第1戦隊 大和、加賀、土佐
第11戦隊 フリードリヒ・デァ・グロッセ、比叡
第5戦隊 那智、羽黒、妙高、妙高
第11軽巡戦隊 最上、三隈、利根、筑摩
駆逐艦 24隻(秋月級8隻、陽炎級16隻)
艦載機 615機
第2航空艦隊 指揮官角田覚治中将 旗艦「隼鷹」
第4航空戦隊 隼鷹、瑞鷹
第5航空戦隊 海鷹、神鷹
第2戦隊 長門、陸奥、呂宋、蝦夷
第7戦隊 高雄、愛宕、摩耶、鳥海
第9軽巡戦隊 石狩、十勝、波岸、束尾
第14軽巡戦隊 曽呂、風呂護、真羽加夢、至瑠
駆逐艦20隻(秋雲級16隻、名雪級4隻)
艦載機 270機
その他、上陸船団及び支援艦隊、潜水艦艦隊という大部隊であった。
これ以外にも上行島に進出した300機の空軍機が艦隊を支援しており、真正面からアメリカ海軍とミッドウェーの航空戦力を撃破する作戦だった。
なお、これまで空母部隊を率いていた小沢治三郎は大将に昇進の上で、連合艦隊司令長官に転出している。
それまで連合艦隊司令長官だった堀悌吉大将は米内光政総理に請われて、海軍大臣となり実質的には副総理として戦時内閣の運営に関わることになった。
作戦開始は1943年1月15日だった。
空軍機によるミッドウェー空爆はそれ以前から始まっており、専らNk100重爆による夜間爆撃によってミッドウェー島の航空基地は爆撃された。
Nk100は夜間爆撃照準用のマイクロ波レーダー(H2Sのライセンス生産品)を装備しており、夜間であっても正確な爆撃が可能だった。
Gb177に比べて速度に劣るNk100だが、機内容積の広さからこの種の装備を後日追加することが容易で、稼働率の高さや汎用性から大戦後半になるとGb177との評価が逆転していく傾向にあった。
さらに空軍は夜間爆撃用に光電管爆弾と呼ばれる新兵器を投入している。
この爆弾は爆弾頭頂部に設けられたスリットから光を照射し、その反射光を捉えてその信号強度が一定以上を越えると信管を起爆させるもので、効果的なエアバースト爆撃が可能だった。
弱点は夜間にしか使えないことと、途中に雲があると誤作動する恐れがあったことである。
しかし、それを除けば駐機中の航空機や塹壕、防空壕に籠もってない人員を殺傷するには理想的な兵器であり、航空撃滅戦に威力を発揮した。
当然のことながら、アメリカ軍の反撃もありミッドウェー島からB-17やB-24が上行島を爆撃していた。
しかし、アメリカ軍は対地爆撃用のレーダーをもっておらず、昼間しか爆撃できないことから戦闘機部隊の迎撃を受けており、効果的な爆撃とはなってない。
お互いに2,000km近く離れた孤立した島嶼同士の航空戦ということもあり、基地同士の戦いは決定打とはなりえなかった。
よって、航空撃滅戦は空母を投入して決着をつけるしかなく、1943年1月18日に400機の空母艦載機がミッドウェー島を襲うことになる。
Hd190CやNk197による急降下爆撃、水平爆撃で在島の航空戦力はほぼ一層されたが、既に離陸した機を全て捕捉することは不可能だった。
第1航空艦隊(山口艦隊)を発見したのはミッドウェー島から発進したB-17だった。
連合艦隊はこの作戦においては情報秘匿を意識しておらず、攻撃目標を隠そうともしていなかったから、ミッドウェー島付近に米空母機動部隊が潜んでいると考えられていた。
布哇からの残置諜報においても空母は出港済みと通報あった。
そして、実際は彼らは来た。
しかし、それは日本軍の予想よりも西であったから事態は深刻だった。
アメリカ軍は正面決戦は不利と考えて、日本の上陸船団に的を絞って防衛計画を立ていた。
猛牛という異名をとるハルゼー提督だったが、戦略上の優先順位を間違えるようなこともしなかった。
叩くべきは日本の主力艦隊ではなく、上陸船団だった。
ハルゼー機動部隊を発見したのも、山口艦隊や角田艦隊の偵察機ではなく、上陸船団を支援する水上機母艦千代田の水上偵察機で、彼らは潜水艦制圧のために前方進出していて偶然に、ハルゼー機動部隊と遭遇した。
最初、千代田の水偵は味方の角田艦隊だと思って、交信を試みて攻撃されてから漸く、相手がハルゼー機動部隊だと気がつくほどだった。
空母12隻という大兵力を投入したことで慢心があったといえば、それまでであろう。
ハルゼー機動部隊発見の通報を受けた山口艦隊と角田艦隊はただちに攻撃準備に入ったが、ここで指揮官の資質の差が出ることになる。
どちらの艦隊もミッドウェー島を攻撃中だったが、山口艦隊は通報を受けると直ちに対地攻撃用の兵装で逐次に攻撃隊を出撃させたのに対して、角田艦隊は兵装転換と一斉出撃法にこだわった。
このため2時間以上も角田艦隊は攻撃が遅延した。
これは一分一秒を争う航空戦において致命的な判断ミスだった。
対地兵装では撃沈は望めないし、逐次発進による五月雨式の攻撃は各個撃破される悪手である。
しかし、それでも敢えてそれを採用するというのは指揮官の判断であり、資質の差だった。
ハルゼー提督は、日本艦隊がミッドウェー島を攻撃中という情報を得ており、発見されても兵装転換や攻撃隊編成により空襲まで時間的な余裕があると判断していた。
そのため、上陸船団への攻撃に焦りはなかったが、攻撃隊発進まであと5分というところで、山口艦隊から発進した第一次攻撃隊による空襲が始まってしまう。
予想外の早い攻撃にハルゼー提督は驚くと同時に、その統率のなさにも驚かされた。
日本軍は多くても10機程度の編隊がばらばらに攻撃を仕掛けてきており、突撃のたびに直掩戦闘機と対空砲火に撃退されることを繰り返した。
ハルゼー艦隊の艦載戦闘機はF4Fからより高速のF4Uに更新されており、対空砲火も飛躍的に強化されていたから五月雨式の攻撃が通用する相手ではなかった。
日本軍の戦闘機部隊は数が少ない上に統制が取れておらず、
「ただの案山子ですな」
と冗談をいう余裕さえあった。
しかし、アメリカ軍は全滅覚悟で突撃する雷撃機に気を取られ、雲中に隠れて接近する爆装したHd190Cには気づいていなかった。
急降下爆撃に入ったHd190Cに対空砲が対応したが、江草隆繁少佐率いる歴戦の爆撃隊から逃れることはできなかった。
飛行甲板に爆装した攻撃隊を並べていたユナイテッド・ステーツ、ワスプ、タイコンデロガは次々に被弾して、大火災に見舞われた。
命中したのは対地攻撃用の爆弾だったが、何も問題なかった。
被爆した攻撃機からガソリンが漏れて消火不能の火災を起こしつつあり、火であぶられた爆弾や魚雷が次々と誘爆していったからである。
遅れに遅れて戦場に到着した角田艦隊の攻撃隊が見たのは、海上に停止して松明のように燃える死に体の2隻の空母であった。
小型のワスプは爆弾誘爆で既に沈んでおり、彼らは演習のような攻撃で燃える米空母に止めを刺しただけだった。
角田艦隊の攻撃隊は血眼にして生き残りの米空母を探してバンカーヒルを沈めて戦果を拡大したが、エンタープライズは結局、発見することはできなかった。
また、日本艦隊は撤退するハルゼー艦隊の捜索撃滅を途中で打ち切ってしまった。
日本軍の目的はミッドウェー島を攻略することであって、米艦隊を撃滅することは二の次であった。
無茶な攻撃を行った山口艦隊は艦載機が半減するほどの損害を受けており、追撃と上陸支援が両立できる状態ではなかった。
追撃無用とした連合艦隊司令部の判断は合理的といえる。
追撃を主張したのは角田提督で、彼は自身の判断ミスを帳消しにするため戦果を挙げることを求めていた。
しかし、連合艦隊司令部の最終判断はミッドウェー島攻略の援護であった。
この判断を角田提督は不服としたが、命令である以上、従う他なかった。
なお、ハルゼー提督も上級司令部からの命令に抵抗していた。彼は撤退命令を不服として戦艦による上陸船団突入を主張していたのである。
空母部隊は全滅したもののモンタナ級戦艦3隻、アイオワ戦艦5隻、レキシントン級巡洋戦艦2隻がハルゼー提督の手元には残されていた。
それが損害を顧みず突撃してきたらただでは済まなかっただろう。
しかし、日本軍の上陸船団は退避を開始しており、距離も空いていたことから突入は現実には不可能だった。
撤退命令を出したキンメル長官だったが、戦艦による犠牲を省みない上陸船団への突入というアイデアは次回に生かされることになる。
日本軍のミッドウェー島上陸は1943年1月27日のことである。
事前に徹底した砲爆撃を実施し、新兵器の浮航戦車を投入するなど上行島での教訓を反映させた上陸作戦は首尾よく運び、米陸軍守備隊は3日間の抵抗の後に降伏した。
奪還されたミッドウェー島は、和名の中道島に戻された。
航空基地は速やかに修復され、空軍機が進出して布哇島への偵察が開始されることになる。
ただし、偵察機が捉えたのは米軍が立ち去った後の空き家となった真珠湾だった。
孤立した布哇島を守り抜くのは不可能と考えたアメリカ軍は戦線縮小のために布哇から撤退していた。
公式に無防備都市宣言も出されており、日本艦隊は1943年2月5日に真珠湾へと入港し、布哇県の解放を宣言した。
1941年4月4日以来、約2年ぶりに解放された布哇では艦隊入港と同時にお祭り騒ぎとなった。
しかし、戦わずして布哇から逃げ出し、のこのこと戻ってきた日本軍に対して複雑な感情を抱くものも多く、戦後に布哇は日本連邦内部で最も反政府感情の強い地域となる。
逆に愛国心を必要以上に高揚させた布哇県民も多く、米軍占領期間中に彼らに協力したものや米軍兵士相手に売春をしていたものを追及、弾劾することに熱心となった。
売春婦達は頭を丸坊主にされて民衆の前を行進させられるなど、執拗に迫害の対象となった。中には殺害される者もいて、布哇社会に深刻な亀裂をもたらすことになった。
アメリカ軍は撤退時に全ての装備品や物資を持ち去ったが、売春婦に産ませた子供等はその対象とはなっておらず、米軍遺児問題をひきおこした。
米軍遺児の殆どは孤児となり、暴力の子供として劣悪な環境に置かれた。
遺児の中には戦後に渡米した者も多い。
しかし、父親に受け入れられることは稀であり、敵国となったアメリカ社会には居場所がなかったことから、日本に戻った後に反社会勢力に落ち着くという末路をたどった。
また、日本の情報組織がそうした孤児を集めて編成した諜報機関(ハロゲン計画)があったことも知られている。
戦後にアメリカ本土で諜報活動に従事した彼らは引退後も沈黙の掟を守っており、米軍遺児問題の全容解明を著しく困難なものとしている。
布哇県を奪還した日本軍は、艦隊を前進させて米西海岸を窺う体制となったが、補給線は伸び切っており、ただちに攻勢でられる状態にはなかった。
また、もうひとつの失地である阿羅斯加県は未だに米軍占領下にあり、その奪還は政治的な急務であった。
ただし、1月の阿羅斯加は氷と雪に閉ざされており、上陸作戦できる季節ではなく、5月以後でなければ不可能だった。
そのため、日本連邦軍は補給線の再構築と通商破壊戦に力を注いだ。
中国の降伏後、ルーズベルト大統領の支持率は戦時であるにも関わらず40%を下回っていたが、布哇喪失後は30%を切ることになる。
民主党内の支持は強固なものがあったが、1942年11月の中間選挙は共和党の勝利で終わり、下院は共和党が過半数を占めた。
上院は民主党が過半数を維持していたが、劇的な勝利や逆転が無い限り、ルーズベルト大統領の四選はありそうになかった。
ルーズベルト大統領は日本軍の反攻が本格化して、アメリカ海軍の敗退が相次ぐと目に見えて肉体の衰えが進み、健康問題が顕在化し始めた。
日中もベッドから起き上がれないことが増えていたが、執務に大きな問題が生じなかったのはアイアンマン副大統領が大統領に代わって執務を行っているからだった。
大統領本人がそれを望んでおり、全面的な承認を受けた大統領代理ではあった。
しかし、現職大統領に何かがあったら、その時はグルジア生まれのロシア人がアメリカ大統領になりかねなかった。
ルーズベルト大統領からの信任は未だに厚いものの、民主党内はロシア生まれの合衆国大統領は絶対不可とする者が大半だった。
仮にアイアンマン副大統領の四選があるとしたら、ルーズベルト大統領の強力な指名がなければ不可能であり、何か劇的な勝利や戦況の逆転が無い限り、アイアンマン副大統領の政治生命は残り2年しかなかった。




