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チャイニーズスレイヤー



チャイニーズスレイヤー


 1942年9月8日、大中華帝国は日本連邦との休戦条約を公表してアメリカ合衆国及びロシア帝国との同盟関係から離脱した。

 所謂、中国の降伏は第二次世界大戦におけるターニングポイントだった。

 降伏に至る経緯は以下のとおりである。

 1937年8月から始まる朝鮮戦争は、大方の予想に反して長期戦となった。

 中国軍部と蒋介石はアメリカやロシアからの支援を取り付けており、兵器供給を受けられる目処が立っていたから長期戦にも不安はなかった。

 開戦から1年後の1938年8月に、日本海軍は対中海上封鎖を宣言し、全ての港湾を機雷を空爆で封鎖されても、ロシアやアメリカの兵器供給は続いた。

 蒋介石はアメリカ合衆国が準備を整えて参戦すれば勝利できると考えていた。

 だが、1940年7月に日本が正式に中国に宣戦布告し、戦争状態に突入して本気を出すとそれが全く甘い見通しであることが判明した。

 大量の重爆撃機が台湾から中国全土を射程内に収めて戦略爆撃を開始したからだ。

 ターゲットは中国全土の軍需工場と鉄道交通網だった。

 軍需工場は疎開と分散配置することで命脈を保ったが、鉄道施設は隠しようがなため、爆撃から逃れられなかった。

 中華国鉄の懸命な努力も虚しく鉄道操車場や機関車庫、貯炭場、橋梁への爆撃によって中国の鉄道交通網は麻痺状態に陥った。

 戦略爆撃兵団である第4航空艦隊を率いる大西瀧治郎中将は、例え人口密集地帯であろうと鉄道設備は、


「鉄道殺すべし、慈悲はない」


 と発言したかは定かではないものの、容赦なく絨毯爆撃で破壊した。

 鉄道駅への爆撃は徹底しており、基礎から再建しなければならないように1t爆弾を使って地面を徹底的に掘り返した。

 蒋介石は最初は日本の戦略爆撃の心理的な打撃のみに注目し、愛国心を鼓舞すれば乗り切れると考えていた節があったが、徐々に鉄道麻痺の影響が出てくると考えを改めた。

 特に沿岸の都市部において交通麻痺の影響は甚大だった。

 中国沿岸は経済発展の最初の恩恵に浴して富を求めて多くの人口を集めた。

 1939年時点の上海の人口は600万人に達したが、その食料の多くを沿岸航路の海上輸送によって運搬していた。

 食料のみならず石炭やガソリンなど、豊かな都市生活を支える消費材はもっぱら船で運ばれていたのである。

 だが、機雷敷設によって港湾が使用不能になると上海の繁栄にも陰りが見えるようになる。

 中国政府は鉄道と小型の機帆船による輸送(蟻輸送)で代替輸送を試みたが、すぐに配給制度に移行しなければならなくなった。

 1941年に入ると鉄道は麻痺状態となり、内陸からの物産が入らなくなったので揚子江の機帆船輸送だけが頼りという状態となる。

 さらに軍が大量の若年労働者を兵士として動員したため農村は労働力不足な上に、火薬生産のために化学肥料の使用が制限されたため、極端な不作に陥った。

 第4航空艦隊は食料生産そのものを妨害するために、長江や黄河の堤防を大型爆弾(4t爆弾)で爆砕するなどした。

 ダムや農業用の溜池を航空魚雷を使って破壊するなど、考えられる限りの手法で飢餓地獄を作りだすために創意工夫を重ねた。

 農作物を全滅させるために数百万匹の蝗の養殖をして空中投下するようなことまでやっている。

 なお、蝗の空中投下は着地の衝撃で蝗が全滅したため失敗に終わった。

 揚子江の機帆船やジャンク船輸送も、Hd187のような長距離戦闘機の機銃掃射で優先的に破壊された。

 小型の機帆船やジャンク船団の船団をまとめて粉砕するために航空撃滅戦用の集束爆弾が投入されて絶大な威力を発揮した。

 60kg爆弾の中に120個の弾子を詰めた集束爆弾は木造の機帆船攻撃に適しており、船着き場や船溜まりに投下された。

 この爆弾は対人攻撃にも非常に効果的で、死体を激しく損壊させることから日本軍は


「ネギトロ爆弾」


 と呼んで恐怖兵器として多用した。

 また不発率の高さから不発弾除去に多大な労力と時間を要することや二次災害の発生確率が高いことも効果的であると判断された。

 中国空軍も迎撃体制を整えて、日本軍のNk100などの重爆撃機群を迎え撃ったが如何せん、兵力が少ない上に性能も不十分だった。

 排気タービンを装備して高度8,000m以上の高空を飛ぶ四発重爆に対して、P-40やP-39では対抗できず、ロシアから貰ったYak戦闘機も高空性能は低かった。

 中国空軍の国産戦闘機「鳳凰」は20mm機関砲を装備するなど、高い火力を持つ優れた戦闘機で、ようやく中国が他国の模倣から脱却してオリジナリティの獲得に至った名機ではあったが、それでも駄目だった。

 1941年半ばから戦力化された日本のHd190A4やHk109Fは2,000馬力級エンジンを備えており、二段過給器などで高空性能を上げて、常に高度優位を確保して戦うことができた。

 唯一Nk100の大群に対抗できる戦闘機は排気タービン装備のP-38だったが、中国本土防空には殆ど投入されていない。

 それは対日戦略爆撃に必要な護衛戦闘機であったし、中国空軍自身が日本軍の戦略爆撃を過小評価していたためである。

 だが、中国の物流網壊滅速度は中国軍の予想を遥かに上回っていた。

 1942年6月には上海市民が一日摂取する平均カロリーは1,460カロリーになっていた。戦前が3,086カロリーだったこと考えればこれは半分だった。

 ちなみに1,460カロリーというのはソマリアのような破綻国家以下の数値である。

 上海は軍需工場や鉄道施設以外は大規模な爆撃を受けなかったが、1941年までに都市人口は250万人を下回っていた。

 これは自主的に疎開したというよりも、都市から食料が消えたため周辺の農村等に難民として流出したためで、都市中心部はゴーストタウンに成り果てていた。

 その様子を航空偵察を確認した大西大将は、上海を爆撃目標から外した。

 爆撃目標の選定には、多数の民間人が関わっており、軍人よりも民間有識者の発言力の高い場面が多かった。

 中佐待遇で第4航空艦隊の爆撃目標選定作業に関わった藤沢武夫は、戦後に本田航空技研の副社長となる人物だが、戦略爆撃のターゲッティング理論の構築に大きな役割を果たした。

 藤沢理論と呼ばれる戦略爆撃理論は、市民を直接殺傷する都市爆撃には何の意味もなく戦争犯罪であり、破壊するべきは交通の要衝であるとした。

 

「空からの海上封鎖」


 というのが藤沢理論の骨子である。

 既に経営者として成功していた藤沢は、工業生産にとって交通インフラの重要性をよく理解しており、その効果的な破壊こそ、工業生産を正しく破綻させるものと考えた。

 また、戦後の中国の経済再建を考えた場合、工業地帯を灰燼に帰すのは多大な機会損失であるとして戦後復興まで視野にいれた意見具申を行っている。

 藤沢理論の予想モデルどおりに中国の軍需生産は1939年をピークに減少を続け、1941年末までに壊滅状態となった。

 戦後に日本連邦空軍が調査した結果、1941年12月時点での中国国内のガソリン生産は1939年の9%に過ぎなかった。航空機の生産に必要なアルミニウムの精錬に関しては7%、火薬の生産は12%、粗鋼生産は25%まで減少している。

 蒋介石は鉄の増産のために農村まで動員して、手製の粗末な炉で鉄をつくらせたが、鉄くずを大量生産して石炭を無駄に消費しただけで終わった。

 質はともかく量は膨大な埋蔵量を誇る中国の鉄鉱石と石炭だったが、採掘できても輸送できなければ宝の持ち腐れだった。

 1942年夏になると食料を求めて各地で暴動が発生し、社会不安の極限に達していた。

 蒋介石は外国からの援助で戦争を継続できると考えていたが、海外からの援助物資は北京までは輸送できたが、それより先には届かなかった。

 物流システムが崩壊している上に、輸送途中に物資が闇から闇へと消えていくためである。

 もちろん、軍部や蒋介石の懐にも相当な量の物資が流れ込み、転売で莫大な利益を生み出していたことは言うまでもないことである。

 政府の腐敗を告発しようとする動きは、中国陸軍憲兵隊の手によって徹底的に弾圧され、秘匿されていたが、半ば公然の事実となっていた。

 

「政治の腐敗とは政治家が賄賂をとることじゃない。政治家が賄賂をとってもそれを批判できない状態を政治の腐敗という」


 というのは近代中国が生み出した最強の戦略家である楊元帥の言葉だが、まさに1942年夏の中国政府はその言葉が全て当てはまる状態と言えた。

 そして、そのような状況を憂慮していたのは大中華帝国皇帝、愛新覚羅溥儀であった。

 立憲君主制国家における君主の役割は象徴的なものに留まるというのは一般的な理解であるが、ドイツ憲法をベースにした中国においては例外である。

 勅令による立法権の行使など、中国皇帝の政治権力は絶大なものがあり、溥儀は決して象徴君主でもなければ、傀儡でもなく、中国皇帝として厳然とした権力を保持していた。

 蒋介石の戒厳令政治に関しても、溥儀の緊急勅令に依るものである。

 逆にいえば、溥儀がその緊急勅令を廃止すれば、戒厳令は無効化されるのである。

 これまで溥儀は蒋介石と良好の関係を築き、軍国政治に関しても寛容な態度をとっていた。

 

「日本国王に中華の威を示す」


 といった具合に日本の天皇家に対しても厳しい態度をとって接するなど、1920~30年代の中国経済の発展から自信に満ちあふれていた時期もある。

 しかし、1942年夏までにそうした自信は完全に打ち砕かれていた。

 近代中国の経済力は、列強の末席にようやく座っただけのものであり、国民総生産に関していうならイタリア王国と大差ないのである。

 そして、5年にも及ぶ長期間の国家総力戦と日本の戦略爆撃は19世紀以来の清朝の洋務運動の努力を全て灰燼に帰すものであった。

 足元の北京でさえ食料暴動が発生し、革命の足音が響くと溥儀は戦争継続は不可能だと考えるようになった。

 中華皇帝は清朝以来の異民族の王朝であり、人口の大多数を占める漢民族が心から臣従しているわけではないことをよく理解していた。

 そして、300年に及ぶ清朝の継承者として帝国の存続こそ第一と考える溥儀は、蒋介石の戦争と心中するつもりはさらさらなかったのである。

 溥儀以外にも蒋介石排除と和平を望む政治家は数多く、中華民進党の周恩来が宮廷クーデタの準備を整えた。

 周恩来は、若き日にフランスに留学してパリで社会主義に触れるなど、リベラルな思想の持ち主で蒋介石から敵視されていた。

 彼が収容所にいないのは軍部にコネがあるためで、蒋介石の不正を告発するなどして敵対し、出世を阻まれていた彭徳懐将軍からの支援があった。

 1942年7月25日、蒋介石がロシアのサンクトペテルブルクにてアレクサンドル4世と会談するために出国した隙をついて、宮廷クーデタが勃発。

 勅令により戒厳司令部は解散された。

 1936年2月26日から継続していた戒厳令に基づく軍事政権はここに崩壊することになる。

 政府首相として組閣の大命が下ったのは軟禁状態にあった結庵元帥だった。

 結庵元帥は不正蓄財の罪などで蒋介石派の軍人を逮捕、戒厳令廃止に抵抗した陸軍憲兵隊を武力で制圧するなどして、北京の政治機構を掌握した。

 ただし、この時点ではまだ日本との戦争は継続しており、結庵元帥も戒厳令廃止は停戦や休戦を意味するものではないとしている。

 だが、周恩来がベトナムのハノイで日本の外務次官だった吉田茂と接触するなどして、停戦の条件を整えていた。

 周恩来はほぼ独断で停戦条約のまとめ上げ、8月1日は停戦条約を調印にこぎつけている。

 結庵元帥が停戦条約の内容を知らされたのは8月3日のことだったが、周恩来の独断専行については問題にしなかった。

 停戦条約の内容によっては全責任を負って辞職するつもりだった結庵元帥だったが、幸いなことに停戦の内容は穏当なものだった。

 日本連邦は連邦最大の工業地帯がアメリカ軍の戦略爆撃にさらされており、それを止められるなら白紙講和でも問題なしと考えていた。

 欧州各国についてはそもそも中国とまともに戦っておらず、宣戦布告も名ばかりのものでしかなかった。

 停戦条約における最大の問題は、中国国内のロシア軍と米軍だった。

 彼らが中国国内から退去しないかぎり、日本は米軍の戦略爆撃に晒されつづけるためである。ロシア軍の機甲師団は今や朝鮮半島の最大戦力だった。

 当然のことながら、彼らは口で言ってオタッシャデー!と去っていく分かりやすい連中ではないので国外退去は武力を伴うものとなる。

 いわゆる、中華継続戦争の始まりだった。

 とりあえず日本製の爆弾が降ってくることはなくなったが、中国は戦災でボロボロになった状態で昨日まで友軍として戦っていた米露軍を排除するための戦いを遂行しなければならなかった。

 なお、前線の中国軍は停戦交渉については殆ど知らされておらず、公式発表をラジオで聞いて呆然している者が大半だった。

 そのため米露軍は容易く彼らを武装解除させることができた。

 宮廷クーデタにより帰国できなくなった蒋介石はロシア軍が確保した天津に飛行機で降り立ち、独自に満州国の建国を宣言している。

 建国宣言を読み上げるその蒋介石は明らかに落魄した様子で、もはや開戦時の自信に満ち溢れた姿ではなかった。

 諸説はあるが、蒋介石は皇帝崇拝の念は確かなものがあり、溥儀との関係は最後まで悪いものではなかったから、その裏切りは堪えたと言われている。

 ロシア皇帝アレクサンドル4世は諜報活動で中国の裏切りに気づいており、蒋介石にも警告していたがその警告は無視され、蒋介石は何の対策もとっていなかった。

 溥儀との関係を考えれば無理もなかったが、溥儀の方が一枚上手だったと言えるだろう。

 清朝皇帝は伊達ではなかった。

 アレクサンドル4世は蒋介石の無能さに呆れ果てたと言われているが、次善の策として用意していた満州・朝鮮への進駐準備は効果的だった。

 停戦発表から7日で、満州全土と朝鮮半島はロシア帝国軍の電撃戦で制圧されたのである。

 一応、満州国からの要請によって進駐したという大義名分はあったものの広大な満州がロシアに飲み込まれたことには変わらなかった。

 それよりも重要なことは、ロシア帝国に新たに広大な占領地が発生し、巨大な中国戦線が現れた事が重要なのだった。

 この戦線に貼り付けられた戦力は、ロシア帝国にとって最後の予備戦力だった。

 欧州軍は1942年5月15日に総反攻を開始し、1942年8月にはベルリン攻防戦が始まっていた。

 そのような状況で、中国の降伏はロシア帝国軍の最後の輸血用血液を奪ったに等しかった。

 戦争開始から3年目に突入し、総力戦体制を整えた欧州経済帝国はロシア空軍の爆撃が届かない疎開工場から無尽蔵に兵器を吐き出していた。

 陸の戦いもT-34と互角に戦える6ポンド砲装備の欧州標準戦車ユーロタンク、レオパルドの配備が進んだことで、ロシア軍戦車軍団の優位は霧散していた。

 ユーロタンク・レオパルドは、英国製の主砲を装備したフランス製のドイツ戦車という複雑な車両である。

 開発のベースになったのはドイツ軍の多砲塔戦車KW-3で、主砲の短砲身100mm砲の前後に37mm砲を2門備えるという45t級戦車だった。

 欧州軍は早急にT-34に対抗できる戦車を求めて、KW-3を単砲塔化し、車体を小型化することで35tまで重量を軽減したバランスのとれた中戦車を短期間で戦力化した。

 垂直ながらも80mmの前面装甲はT-34の76mm砲に対しては有効であり、英国製6ポンド砲はなぜか榴弾がないという欠点を除けば発射速度の早い優秀砲だった。

 製造は欧州各国で分散して行われ、フランスで最終組み立てが実施された。

 フランスで生産が行われたのは、国土の大半を占領されたドイツや航空機生産で精一杯のイギリスでは戦車生産が不可能であり、イタリアやスペインよりも自動車産業が進んでいたことが大きかった。

 後に主砲を6ポンド砲から17ポンド砲に置き換えたレオパルド2が配備された。

 空中においてもユーロファイター・スピットファイアが大量配備され、ロシア帝国空軍から制空権を奪い返していた。

 1942年8月25日には、ベルリン郊外のポツダムで欧露機甲部隊が激突し、両軍合わせて3,000両の戦車がしのぎを削って、辛くも欧州軍が勝利を収めた。

 そのタイミングでの中国降伏とシベリア戦線が開かれたことで、ロシア軍は予備兵力を奪われ、二度と欧州戦線で攻勢にでることはなくなった。

 もはや電撃戦や機動戦はロシア軍の専売特許ではなくなっており、欧州軍は9月25日にベルリンを奪還した。

 話を極東に戻すと中国降伏によって、対中戦略爆撃と海上封鎖に投入されていた戦力が自由になり、Nk100の大群が朝鮮半島南部や蝦夷に展開して対露シベリア爆撃に投入されるようになった。

 そして、来須賀島上陸作戦の成功で、援露ルートは細る一方だった。

 北太平洋の夏は短く、そして激烈な季節といえた。

 1942年8月から9月の1ヶ月間に、北太平洋では幾多の海戦が勃発し、日米海軍が主力艦隊を投入して制海権を争った。

 その中心にあったのは日本軍が奪還した来須賀島で、多数の対艦攻撃機が進出した来須賀基地は援露ルートに突き刺さったトゲだった。

 米軍はこの棘を抜こうとして大出血に見舞われた。

 最初の大規模海戦は、8月1日の北太平洋沖海戦だった。

 日本軍が奇襲占領した来須賀島封鎖のために急行したキンケイド艦隊及びハルゼー艦隊(空母機動艦隊)と小沢艦隊(第3艦隊)とのリターンマッチだった。

 アメリカ軍は、来須賀島の航空基地が稼働する前に攻め寄せなければ、ガダルカナル島の悪夢の再来だと考えていた。

 ハルゼー機動艦隊の陣容はユナイテッド・ステーツ、エンタープライズ、エセックス、レンジャー、バンカーヒル、タイコンデロガの6隻を基幹として、修復が終わったアイオワ級戦艦3隻に加えて新規に就役した3隻を加えて、8隻もの高速戦艦を引き連れた出撃であり、戦力は十分だった。

 艦載機数は540機に及び中小国の海軍なら一蹴できるほどの戦力だった。

 だが、相手が悪かった。

 小沢艦隊は歴戦の空母幡龍、翔鶴、瑞鶴、千鶴、尾張、紀伊に加えて新鋭空母の大鳳、戦時急造空母の隼鷹、飛鷹を加え、輸入空母のグラーフ・ツェッペリン、ドクトル・エッケナーの合計11隻の空母を動員していた。

 艦載機は800機を超えており、頭一つ分米海軍を上回っていた。

 新鋭空母の大鳳は、改翔鶴級の装甲空母で翔鶴級の問題であった艦載機数の少なさを克服するために基準排水量を27,000tと翔鶴級から3,000t近く増やして格納庫面積を広げていた。

 この改正により、艦載数は翔鶴の35機から55機まで増強されている。

 戦時急造空母の隼鷹と飛鷹は急ぎ艦隊型空母を増強するために建造された船で、幡龍型を基礎にした中型空母だった。

 隼鷹級は幡龍から設計を大幅に簡略化し、装甲らしいを装甲を全て排除(23,000t→13,000t)し、駆逐艦の機関を流用することで18ヶ月で建造・就役可能となっていた。


「戦死確実だな」


 と隼鷹艦長さえ呻くほどの紙装甲(機関部や弾薬庫にさえ装甲がない)だったが、大鳳級を越える65機の艦載機を運用できるのは大きかった。

 何よりも、1942年9月以後、ほぼ毎月1隻ずつ就役して戦列に加わるという大量建造こそ隼鷹級の強みであった。

 グラーフ・ツェッペリンとドクトル・エッケナーは、ドイツからの輸入艦であり、ベルリン海軍軍縮条約で未完成巡洋戦艦から空母に改装された33,000t級の大型空母だった。

 この2隻は地上戦が続く欧州戦線では使いみちがないことから、日本支援のために新鋭戦艦フリードリヒ・デァ・グロッセ(42cm砲搭載艦)と共に連邦海軍に売却された。

 やや年式は古いものの88機もの艦載機運用能力は空母機動部隊の中核を担うにふさわしかった。

 さらに偵察部隊として第5艦隊の空母、蒼龍と飛龍も前線に進出していた。

 日米双方ともに艦載機は2,000馬力級が標準となり、米空母はF4UやTBFといった新世代の艦載機で固められていた。

 F4Uは着艦の難しさから空母への配備が見送られかけたが、Hd190にはF4Fでは対抗不能だったため、配備が強行されたという経緯がある。

 日本空母も同様に2,000馬力級のHd190CやNk197が揃っていた。

 Nk197はHd190と同じ空冷18気筒2000馬力エンジンを搭載した3座艦上雷撃機で、最高速力は時速530kmに達していた。

 Nk197は高速性能や航法能力の高さから偵察機としても使用可能であり、来須賀島沖海戦は飛龍艦載のNk197による通報で始まり、日本側が先制した。

 空母エンタープライズとバンカーヒルが最初に急降下爆撃を浴びて脱落し、その後の米側の反撃で翔鶴が1,000ポンド爆弾4発を浴びて炎上したが装甲で耐えて2時間ほどの修理で復帰した。

 炎上中の翔鶴は熱田島のB-25やB-17による空襲でさらに500ポンド爆弾を多数被弾したが、装甲で助かった。

 

「さすが翔鶴だ、なんともないぜ!」


 と誰かが喝采を送った。

 小沢提督は装甲空母を前面に押し立て被害担当艦にして攻撃を吸収させることで、脆弱な戦時急造空母を守ろうとしていた。

 そのため翔鶴は非常に目立つ灰白色塗装がされていた。

 米海軍は何度撃沈判定をうけても沈まず戦列復帰する翔鶴に敬意を払って、グレイ・ゴーストの仇名を贈ることになる。

 戦力が充実していた日米の空母機動部隊は、一歩も引くことなく航空攻撃の応酬となった。

 空軍からの航空魚雷の供給が乏しい小沢艦隊は新戦術として反跳爆撃法を広く取り入れていた。Nk197は250kg爆弾なら4発まで爆装可能だったことから、多弾攻撃で米空母の船舷装甲を抉ることが可能だった。

 南太平洋ではなかなか沈めることができなかった米空母も水面下への攻撃には弱く、大型空母レンジャーが大浸水で沈み、エセックスが自沈処分された。

 米海軍のSBD艦爆の自爆を含む急降下爆撃で幡龍が甲板を破壊され、飛鷹が火だるまになって沈んだが、小沢艦隊は残るユナイテッド・ステーツとタイコンデロガも中破させ、後退に追い込んだ。

 装甲を持たない米空母は一発の被弾でも戦闘能力を喪失する脆弱性を抱えており、早期に空母中心の海軍軍備に切り替えた日本海軍に軍配が上がったと言えた。

 また、同盟国から輸入艦であるグラーフ・ツェッペリンとドクトル・エッケナーの活躍は特筆に値し、今上帝直々にドイツ皇帝に謝意を述べるほどだった。

 そして、夏の北太平洋の日没は遅く、霧もないことから小沢艦隊は退避する米戦艦部隊(キンケイド艦隊)への追撃により、ついに米戦艦ニュージャージを自沈に追い込んだ。

 戦艦ニュージャージの撃沈は、作戦行動中の戦艦が航空攻撃のみによって初めて撃沈された例であり、戦艦の時代の終焉を決定づけるものだった。

 ただし、小沢艦隊も強力な対空砲火をもつ米艦隊への攻撃で艦載機を消耗しており、それ以上、戦果を拡大することはできなかった。

 しかし、艦載機そのものの補充は容易であり、無傷の機体を来須賀島の飛行場に進出させると小沢艦隊は補給と再編成のため一時後退した。

 8月8日には、占守島からの航空支援を受けて連邦海軍海兵隊がカムチャッカ半島に上陸し、舟艇機動で北上して8月15日までにペトロパブロフスク・カムチャツキーを攻略した。

 カムチャッカ半島は陸の孤島であり、空路と海路ぐらいしか外部へのアクセスが存在しないことから戦略・戦術は島嶼戦と同じだった。

 日本は沿岸の拠点をいくつか抑えるだけで十分であり、ペトロパブロフスク・カムチャツキーが陥落すると熱田島は孤立した。

 アメリカ軍はガダルカナル島の二の舞を避けるために熱田島から撤退しようとしたが、日本の制空権下での撤退作戦など不可能な話だった。

 熱田島からの撤退は当初は潜水艦を用いたが、対潜艦で封鎖された熱田島に接近するのは容易なことではなく、多数の米潜水艦が未帰還となった。

 水上艦の接近はさらに絶望的だったことから、熱田島は見捨てられた。

 日本海軍も要塞化された熱田島を攻略する意義はないとしていたから、二重の意味で熱田島は見捨てられることになる。

 なお、孤立した熱田島は極度の食料・衛生材料の不足により、ペストが流行し、終戦までに守備隊の7割が病死するという悲惨な結末を迎えた。

 来須賀島とペトロパブロフスク・カムチャツキーの陥落で、ベーリング海を守っていた真珠の首飾りは崩壊した。

 8月末には再編成を終えた小沢艦隊が易々とベーリング海に侵入し、各地を空襲して輸送船団を全滅させるなど、非常に荒っぽいやり方で援露ルートを破壊した。

 1942年9月にはいると海が荒れ始め、濃霧の日が増えて航空戦は困難になったが、潜水艦作戦は継続された。

 そして、中国の降伏を迎えるのである。

 援露ルートの破壊と中国の降伏で八州への戦略爆撃は急速に衰えることになる。

 対中戦略爆撃に投入されていた兵力が、シベリア爆撃に投じられると劇的に極東ロシア軍は弱体化していった。

 そもそも極東シベリアにはまともな産業がなく、シベリア鉄道による輸入に頼っており、食料さえ自給自足できていないのである。

 5年間に渡って頑強に日本軍の北上を阻んできた朝鮮半島戦線さえもが、あっけない程簡単に突破と北上を許すようになった。

 1942年12月までに平壌が奪還され半島西部戦線は鴨緑江を目指して北上し、半島東部戦線は海岸伝いに外満州へと進軍を果たした。

 鴨緑江より北は中国の大地であり、目指すは偽満州国の首都天津であった。




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