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天空の境界



天空の境界


 1941年夏、日米海軍はソロモン海で血みどろの戦いを続けていた。

 その支援にあたった第5航空艦隊の作戦機はおよそ800機である。

 これは空軍作戦機総数8,000機のうちの10分の1でしかない。

 ソロモン海で戦っていた第5航空艦隊以外はどこで何をしていたのか言えば、もっぱらロシアと中国と戦っていた。

 日本連邦空軍にとって対米戦は巨大な戦争の一部でしかなかった。

 戦力についても精鋭の第1航空艦隊は八州に配置され、第3航空艦隊は朝鮮半島で地上支援作戦を続け、第4航空艦隊は台湾で対中戦略爆撃を行っていた。

 第6航空艦隊は輸送機部隊であり戦闘部隊ではないが、その空路はもっぱらユーラシア大陸外縁を囲むように伸びており、遠くヨーロッパまでつながっていた。

 第7航空艦隊はイラン北部でロシア帝国軍の南下阻止にあたっていた。

 第8航空艦隊は練習機部隊であり、東印の油田地帯で豊富な燃料と大量の練習機を湯水のように使って空軍が必要とするパイロットを大量に育てていた。

 1941年末になるとソロモン海では、アメリカ海軍が巡洋戦艦レキシントンとサラトガを以てガダルカナル島の飛行場を夜間砲撃するなど悪あがきを続けていた。

 高速の巡洋戦艦を夜間突入させ飛行場を砲撃するという奇策は飛行場を一時的に使用不能としたが、二度と成功しなかった。

 再砲撃を企図したレキシントン級3,4番艦のコンステレーション、コンスティテューションは、待ち伏せていた戦艦長門と呂宋に撃沈された(第3次ソロモン海海戦)。

 12月末には日本軍の総攻撃によってガダルカナル島の米第1海兵師団は降伏し、戦艦の墓場となったソロモン海の戦いは終わることになる。

 どれほどの戦艦が沈んだかといえば、


 日本海軍

 比叡、金剛、霧島、武蔵、信濃、甲斐

 

 アメリカ海軍

 アイオワ、ミズーリ、ケンタッキー、モンタナ、オハイオ、メイン、ニューハンプシャー、コンステレーション、コンスティテューション


 となるように、まさに戦艦の墓場というべき状況だった。

 だが、日本連邦空軍にとっての本当の戦いはこれからといえた。

 八州の対岸に位置する外満州や朝鮮半島北部にはアメリカ陸軍航空隊のB-17やB-24爆撃機が進出し、八州空襲を本格化させていた。

 本州・九州・四国・淡路・壱岐・対馬・隠岐・佐渡とその他の多くの島々からなる日本列島は、帝国時代から日本の政治・経済の中心地であった。

 台湾や呂宋や蘭州の経済勃興によって、経済の重心は南に移っていったがその工業生産力は1942年時点では連邦随一を誇る。

 大和型戦艦を建造可能な造船所は連邦に8つあるが、そのうちの5つが八州にあることを考えれば、日本連邦の戦争遂行に果たす八州の役割の大きさが分かるだろう。

 逆にいえば、八州の工業生産を破壊できれば、この戦争は米露中の勝利で終わる。

 故に占領された阿羅斯加県からベーリング海を渡ってカムチャッカ半島を経て米露を結ぶ援露ルートの遮断は今次大戦の帰趨を占うものであった。

 実際のところソロモン海の戦いは、アメリカ海軍とアイアンマン副大統領のポケットの中の戦争に過ぎず、アメリカ軍の大戦略において重要なのは北太平洋の援露ルートだった。

 故にアメリカ軍は開戦緒戦ですばやく阿羅斯加県を攻略すると熱田島や来須賀島を占領するなどして、援露ルートの確保を行っている。

 その後、アメリカ海軍の主導で行われた中部太平洋侵攻やソロモン海の戦いは、自己の戦力を過信したアメリカ海軍がアイアンマン副大統領を味方につけて自分達が一番美味しいところを独占できる戦争を設定して強行した私闘ともいうべき戦いだったと言える。

 その結果は無残なものだったから、米海軍は意気消沈して米軍内部の戦略的主導権を失うことになった。

 アメリカ陸軍航空隊のシベリア展開はロシア帝国の全面的な協力の元で行われ、多数の飛行場が建設され、兵舎や防空壕などの基地設備は急速に整備された。

 基地建設には膨大な中国人労働者が動員され、劣悪な労働環境で多くが命を落とした。

 しかし、中国人労働者の中には自分たちの国を焼き続ける日本への復讐になればと考えて献身的に働く者も多かった。

 台湾に展開した第4航空艦隊は戦略爆撃部隊であり、専ら中国の軍需工場や鉄道網を爆撃していた。

 第4航空艦隊を率いた大西瀧治郎大将は、人口密集地であっても軍需工場があれば躊躇なく絨毯爆撃を行ったことから、


「鬼畜大西」


 と呼ばれ憎悪の対象となった。

 ただし、中国軍は軍需工場防衛のために住民を人間の盾として故意に利用していたことから、大西大将のみに責任を負わせるのは公平とはいえない。

 それはともかくとして、外満州や朝鮮半島北部に展開した米陸軍航空隊、実質的には独立空軍である第8航空軍は、1941年半ばから少数機による夜間爆撃を開始した。

 この攻撃は日本の防空体制を確認する意味合いが強く、威力偵察に過ぎなかった。

 本格的な八州爆撃は1942年2月4日の蝦夷空襲で、400機で飛来したB-17爆撃機による大編隊爆撃だった。

 狙われたのは小樽だった。

 護衛にP-38も帯同しており、第8航空軍の考えた鉄壁の布陣だった。

 B-17の大編隊接近を捉えたのは、防空哨戒中の警備艦三日月で、旧式化した睦月型駆逐艦から武装を下ろして対空レーダーと対潜兵装を山盛りにした船だった。

 ただちに空襲警報が発令され、日本海沿岸の基地から戦闘機部隊が発進している。

 日本海沿岸には早期警戒のVHF(メートル波)レーダーが配置され、探知距離は最大で200~250kmほどであった。

 それとは別に戦闘機部隊を捕捉し、精密誘導のためのSHFレーダーが戦闘機1中隊につき1個用意され、邀撃戦闘本部に詰めた膨大な数の空軍女性補助員による無線電話器の地上邀撃管制が整備されていた。

 専ら、中国空軍やロシア帝国空軍による八州爆撃を念頭において整備された防空システムであったが、相手がアメリカ軍であっても有効だった。

 空襲警報発令から7分で、Hd190A4を装備した各戦闘機部隊が北海道各地の基地から発進し、石狩湾上空に空中集合してアメリカ軍爆撃機を迎え撃った。

 迎撃に出動したのは44機で、A4型からは改良された二段二速過給器を備えており、高度8,000mで時速660kmを発揮した。

 だが、護衛戦闘機がついた400機のB-17を全て撃墜することなど不可能だった。

 爆撃は小樽の港湾施設を狙ったものだったが、市街にも落ちた爆弾で民間人にも多くの犠牲者が出た。

 アメリカ軍の爆撃は続き、しかも徐々に南下していった。

 この南下は寒波の襲来になぞられ、


「冬将軍がくる」


 として、連邦空軍第1航空艦隊は強い危機感をもたせた。

 関東への冬将軍襲来は1942年4月15日で、ロシア発のアメリカ製の大寒波がやってきた。

 狙いは大田にある中島飛行機の航空機工場だった。

 600機ものB-17とP-38による戦爆連合に対して、日本空軍戦闘機部隊は全力出撃し、述べ200機の戦闘機部隊で迎え撃った。

 この爆撃は、出撃機の25%が撃墜され、半数近くが被弾して放棄されるなど、第8航空軍にとって非常にブラッディな結果となった。

 大損害が発生した原因は、護衛のP-38が日本海上空での戦闘に巻き込まれ、燃料不足から離脱を余儀なくされ、爆撃行程の後半が戦闘機の護衛がなかったからである。

 また、八州を横断する形での爆撃になり、日本空軍は縦深防御が実施可能だったことも大きい。

 大損害に戦いたアメリカ軍は戦術の見直しのために一ヶ月も攻撃を中止することになる。

 しかし、被災した太田工場は2週間に渡って操業停止し、工員にも多数の犠牲者が出たことから、爆撃そのものは成功だったと言えるだろう。

 直接的な被害ではないが、心理的な恐怖から工員の欠勤や離職が相次ぐなど、日本の戦時生産への打撃も大きなものがあった。

 損害補充と戦術見直しを行った第8航空軍は1942年5月以後、連日に渡って300機から400機規模のB-17を日本各地に軍需工場や発電所、変電所や港湾施設を爆撃するようになる。

 日本にとっては蒙古襲来以来の危機だった。

 連邦空軍は本土防空戦に確かな手応えを感じていたが、穴がないわけではなかった。

 特に戦闘機は火力不足だった。

 頑丈なB-17相手でも対戦車ライフルから発展した高初速20mm機関砲は有効だったが、射撃速度の低さから多数命中弾を与えるために長時間直線飛行をしなければならないためパイロットにとっては非常に危険だった。

 そこでより効果的な爆撃機攻撃兵器として利用されたのが、ロケット弾だった。

 意外なことかもしれないが、日本連邦軍にロケット弾の有効性を教えたのは中国軍だった。

 中国軍はロシア帝国軍から供与されたロケット弾(PC-82型)を巧みに使用して、日本軍に大打撃を与えていた。

 使い捨ての木製発射台を使って前線に密かに運び込んだロケット弾を一斉発射することで日本軍の前線陣地を奇襲することができた。

 発射台は使い捨てるなら木製で十分であり、電気着火式で乾電池が一つあれば発射できるPC-82は日本軍の注目を集めた。

 そこで日本軍は鹵獲したPC-82を参考に、より大型化したPC-98(仮称)を開発した。原型通り命中精度は低いが、それは大量発射で補えることが判明した。

 そのまま制式採用されたPC-98(仮称のままのはずがそのまま使用されることになった)はもっぱら対地攻撃兵器として1940年以後陸空軍で広く使用されることになった。

 それを空対空攻撃に転用すれば重爆撃機に大打撃を与えられる可能性があった。

 PC-98は使い捨ての木製発射レールに装着され、Hd190の両翼にそれぞれ4発ずつ装備可能だった。

 B-17は密集編隊で飛来するため、ヘッドオン攻撃でロケット弾を一斉発射して編隊を崩してから攻撃する手法が考案されたのである。

 空気抵抗を生み出す木製レールは発射後に直ちに破棄されるので、飛行性能を阻害するおそれはなかった。

 空対空ロケット弾攻撃は1942年7月5日の大阪空襲迎撃戦以後に広く実施され多大な戦果を挙げた。

 それでも空襲を完全阻止することはできないため、民間防空の充実には多額の国費が投じられた。

 特に国民保護のために必要な防空壕の建設は急がれた。

 21世紀現在、八州の大都市で異様に地下鉄交通網が充実しているのは、この時期に大量建設された防空壕を戦後に地下鉄建設に転用したためである。

 地上を走る電車であっても、都市圏内を走る路線は大抵は地下化されているほどである。

 さらに東京のように高射砲を配置する適当な高地がない場所には、日本の土木建築技術の粋を凝らして高射砲塔が建設された。

 高射砲塔とはトップに12cm連装高射砲4基を搭載し、外郭には20mm4連装対空機関砲8基を揃えた重対空陣地である。

 中には弾薬運搬用のエレベーターや精密砲撃のためにレーダーや電子式高射算定装置などを備え、基部には防空壕と野戦病院としての機能を兼ね備えるという無駄に多機能でハイテクな装備を満載していた。

 高射砲塔はあまりにも高価すぎる上に大量のセメントが必要ということもあって、都市圏のすぐそばに山地や高台がある八州の地形には適さず、建設されたのは東京のみである。

 高射砲塔で最も有名なのは、目黒に建設された目黒砲台で、自爆したP-38戦闘機が側面に突き刺さった状態の写真が新聞に掲載されたことで一躍有名となった。

 戦後に不必要になった高射砲塔は、多くの場合給水塔に改造された。

 あまりにも頑丈につくりすぎたため破壊することができず、21世紀現在でも殆どが現役で使用されている。

 また、連邦空軍はやられっぱなしではなく、反撃も行っている。

 高速のMb177爆撃機は、B-17の発進基地への航空撃滅戦に投入され、滑空爆弾によって多数のB-17を地上撃破した。

 滑空爆弾とは滑空魚雷の開発過程で誕生した一種のスタンドオフ・ディスペンサー爆弾だった。

 見た目は滑空魚雷とほぼ同じだが、魚雷の代わりに10kg爆弾を満載した木製外郭のキャニスターに滑空魚雷と同じ滑空翼を装着している。滑空爆弾は発射後にタイマーで電波高度計が作動、高度が50m以下になると内装した小型爆弾をばらまくという面制圧兵器だった。

 滑空魚雷と同様に大量発射による公算攻撃となるが、小型爆弾によって広範囲攻撃を行う関係上、ある程度散らばった方が効果的であり、広大な飛行場を狙うなら命中精度はあまり問題ではなかった。

 また、滑空魚雷と同様に対空砲火をアウトレンジできるというのは、機材とパイロットの損失を防ぐという点で重要だった。

 本土防空戦の激化と同時に朝鮮半島での戦いも中国軍に加えてロシア帝国軍とアメリカ陸軍航空隊が加わったことで、日本は苦戦を強いられた。

 八州に伸びる大陸橋である朝鮮半島は、戦略爆撃機の基地としては最良の立地条件が整っていた。

 朝鮮半島北部からは西日本全域が攻撃可能であり、南部を制圧すれば太平洋岸に回り込んで空から八州を孤立させることさえ可能だった。

 朝鮮半島制圧のために送り込まれたロシア帝国軍機甲部隊と重砲兵、その上空を守るアメリカ軍戦闘機部隊、さらに中国軍歩兵の人海戦術の組み合わせは全ての日本連邦陸軍将兵にとっての悪夢といえた。

 中国軍の戦車も初期の戦いで使用していたオーストリアの軽戦車ではなく、ロシア帝国軍のT-34となっていた。

 BT戦車から発展したT-34は傾斜装甲を全面的に適用したことにより良好な避弾経始と強力な76mm砲、水冷V2ティーゼルエンジンとクリスティーサスペンションの奇跡的なコンビネーションが揃った革命的な中戦車だった。

 革命勢力が根絶やしにされた帝政国家において革命的というのも妙な話であるが、戦車という兵器の一つのエポックメイキングであったことは間違いない。

 特に平原や砂漠のような起伏のない戦場で使うならT-34はベストな選択と言える。

 しかし、朝鮮半島のような関東平野よりも広い平野が一つもない山岳と丘陵が連続する国家においては必ずしもそうではない。

 日本連邦陸軍が98式中戦車の後継とした1式中戦車は第二次世界大戦最強の山岳戦用戦車として有名で、35tの車体に航空機用のガソリンエンジンをデチューンしたV型水冷12気筒700馬力ガソリンエンジンを備えた。

 登坂能力を高めるためだけにRR駆動を採用するなど、徹底的に山岳戦と稜線射撃に特化した設計となっており、仰角35度に達し、俯角は15度もあった。

 これは油圧サスペンションなどを採用した戦後戦車でも不可能な数値である。

 仰角と俯角に関しては砲塔設計と主砲のベースとなった9cm高射砲に負うところが大きく、砲塔天蓋は98式と同様にヒンジ付きの可動式となっており、10度以上の俯角をとると砲尾で砲塔天蓋を押し上げられさらに俯角がとれるようになっていた。

 車体前面装甲は軽量化のために60度傾斜した50mm(下部は40mm)と薄いが、稜線から顔に出す砲塔は防盾込で180mmという破格の数値となっていた。

 日本連邦陸軍の戦車兵達はこれを、


「顔面セーフ」


 と呼んで、着弾の衝撃に対して鼻血を吹きながら耐え忍んだ。

 主砲に転用された9cm高射砲は連邦軍の標準的な高射砲であり、戦車砲への改造で口径は52口径(元は55口径)に短縮され、やや初速は低下した。そのため高射砲と戦車砲では弾薬に互換性がない。

 それでも99式徹甲榴弾を使用した場合、距離1,000mで140mmの装甲板を貫通し、どこに命中してもT-34を確実に撃破できた。

 稜線射撃に特化した設計ばかりが注目されがちだが、鋳造砲塔や全溶接車体、スポソンを廃した箱型車体など、一式中戦車は戦後戦車を先取りした設計であった。

 ロシア帝国軍機械化部隊の波状攻撃に対して、一式中戦車を装備した連邦陸軍戦車部隊は稜線射撃と巧みな陣地転換で対抗した。

 また、大量生産された砲塔をトーチカとして土中に埋め込んだ戦車トーチカも多数建設され、ロシア帝国軍機械化部隊を苦しめた。

 中国軍の人海戦術に対しては、跳躍地雷(Sマイン)とチェコ機銃とチェコライフルで戦った。

 チェコ機銃とはオーストリアのブルノ兵器廠で開発されたZB26(オーストリア軍の正式名称はLK vz.26)である。

 中華製MG34の高性能に驚いた連邦陸軍は急ぎ対抗できる新型機関銃の開発を始めたが、前線からの要求は逼迫しており、自主開発の前に機関銃の緊急輸入が決定された。

 最初にドイツ帝国とMG34の輸入とライセンス生産交渉が行われたが、これは断られた。

 そこまでドイツ人は節操ないわけではない。

 次善の策としてオーストリア連邦帝国と交渉が持たれ、ZB26(その輸出型であるZB30)の輸入交渉が纏まった。

 輸入分は15,000丁と膨大な数になり、ライセンス生産契約によってZB30が仮制式採用され、国内生産された。

 なお、本命の国産機関銃が不具合だらけ(理想を追いすぎた)でいっこうに完成しなかったことから、終戦までZB30の生産が継続され、戦後にベルト給弾化した後に10式軽機関銃としてようやく制式化された。

 チェコライフルは弾倉式のZB30ではベルト給弾のMG34に対抗できないと考えた連邦陸軍が歩兵火力底上げのために制式採用したZH-29半自動小銃である。

 ZB30と共にライセンス生産され、やはり仮制式のまま終戦まで生産された。

 中国軍のMG34+ボルトアクションライフルの組み合わせに対して、日本軍はZB30+ZH-29で戦っていた。

 中国軍のボルトアクションライフルは、ドイツ帝国陸軍のGeW88のライセンス生産品だったことから、ドイツ軍とオーストリア軍が戦っているようなものだった。

 ZB30とZH-29は前線においてオーストリアのチェコ自治国の銃として、チェコ機関銃やチェコマシンガン、チェコライフルと呼ばれて、その火力と故障の少なさから絶大な支持を集めた。

 そのため、国内生産に切り替わってもチェコ機関銃とチェコライフルの愛称は用いられ続けた。

 第二次世界大戦において歩兵に半自動小銃を装備させることができたのは、日本連邦軍とアメリカ軍のみであり、ZH-29の導入に踏み切った連邦陸軍の決断は高く評価されるべきだろう。

 1941年のガダルカナル島の戦いにおいてもZB30とZH-29装備の陸軍第2師団は歩兵戦闘において米海兵隊と互角以上の戦いを見せた。

 ボルトアクションライフルとの撃ち合いなら、チェコライフルがあればまず負けなかった。

 なお、チェコライフルの威力を中国軍も痛感して、鹵獲すると優秀な射手に優先的に配備して活用している。

 弾薬が日中で共通であったことからできた技である。

 日本軍も鹵獲した中華MG34を重要拠点の防御に優先配備して重宝していたことから、お互い様というべきだろう。

 なお、中国軍が使用して日本軍に脅威を与えた武器には、他に短機関銃サブマシンガンがあるが、日本軍はサブマシンガンには冷淡で大戦中に殆ど生産することがなかった。

 戦車兵やパイロットの護身用にも連射可能とした拳銃(ステアーM1911)を配備して、それで十分としている。

 視界が広く交戦距離の長くなる山岳戦では、短機関銃の出番が少なかったことが大きい。

 中国軍の人海戦術を止めるのに必要なのは短機関銃ではなく、跳躍地雷と機関銃、迫撃砲と手榴弾(擲弾筒)だった。

 朝鮮半島上空の戦いはほぼ日米は互角だった。

 Hd190A4を相手にするにはP-39やP-40では役者不足で、P-38だけが互角だった。

 ただし、それは高高度での話であり、地上攻撃機仕様のHd190Bを援護する際には、高空性能は無意味だった。

 低空での戦いはロシア帝国空軍のYak戦闘機も強敵であった。

 そのため、低空での格闘戦性能の高いHd190C系列の機体が朝鮮半島での制空戦闘では活躍した。

 朝鮮半島の戦いは、米露中が攻勢に出て日本軍の戦車と砲兵火力、地上攻撃機によって叩きのめされ、攻勢開始地点に後退するというパターンを繰り返した。

 なお、漢江の畔にある漢城は10数回に渡って持ち主が変わった後、市街戦で廃墟となり放棄された。

 都市機能に止めを刺したのは日本連邦空軍で、無差別絨毯爆撃で3,000tの爆弾を投下して、中国軍の抵抗拠点を破壊しつくした。

 この攻撃により都市から最後の住民が避難して、漢城という街は以後再建されることなく、漢江の沼沢地というもとの姿に帰っていった。

 21世紀現在でも大量の不発弾が埋まっているため、漢城再建の目処は立っていない。

 それはさておき、八州への直接攻撃を受けた日本連邦軍は防衛体制を整えると同時に、濁流のような米軍の兵器供与を止めるべく元栓を締めにかかった。

 即ち、援露ルート遮断である。

 連邦海軍による援露ルートの遮断は、ソロモン海の戦いが一段落ついた後に転用された海軍戦力で実施された。

 特に重要なのは熱田島と来須賀島の奪還だった。

 この2つの島は、ベーリング海の西の関門であり、水上艦部隊の行動を自由を確保するためには攻略は避けて通れなかった。

 日本海軍主力の転進まで、この方面を支えていたのは連邦海軍第5艦隊だった。

 その中でも空母「蒼龍」と「飛龍」の活躍は特筆に値した。

 この2隻は、空母とは名ばかりに実質的には航空巡洋艦といえた。それも巡洋艦狩りに特化したハンターキラーともいうべき船だった。

 その能力は商船狩りにおいても、極めて有効なものといえた。

 蒼龍と飛龍は第2航空戦隊を編成し、山口多聞少将指揮の元で神出鬼没のゲリラ戦でアメリカ軍を翻弄した。

 1941年6月7日の阿羅斯加沖海戦では、航行中の輸送船団を飛龍艦載機が空爆し、その後に飛龍単艦で船団への突入を果たしてこれを全滅させている。

 山口提督は漂流者救助のため、親切にもSOS信号を発信した。

 飛龍艦長の加来止男大佐は、


「泥棒が110番通報するようなものです」


 と反対したが、山口提督は艦の士気を高めるため、敢えて博打を打つことにした。

 弱い者いじめばかりでは、兵は弛緩してしまうからだ。

 怒り狂った米太平洋艦隊は飛龍撃沈のためにレキシントン級巡洋戦艦3隻を差し向けた。

 ここで山口提督は大胆にも討伐艦隊に突進して、隙間をすり抜けるという奇策を打ち、離脱に成功した。

 戦後の航路データの突き合わせにより、レキシントンは飛龍から僅か17kmの距離まで接近していたことが判明している。

 しかし、まさか追われる立場の飛龍が単艦で自分たちの方向へ突進してきているとは思わず、レキシントンは見張りの報告を誤報と処理して見逃してしまった。

 その後、飛龍はベーリング海に舞い戻り、空爆と艦砲を駆使して輸送船を狩り続け、1941年中に28万5,600tもの商船を撃沈した。

 この数値は、第二次世界大戦における単艦での商船撃沈レコードの世界1位であり、21世紀現在に至るまで破られていない。

 飛龍と蒼龍の通商破壊戦に懲りたアメリカ軍は重要な船団には旧式戦艦を護衛につけるようになり、砲火力に劣る飛龍は船団突入は不可能になった。 

 それでも艦載機による空爆は有効であり、特に脆い護衛駆逐艦を集中攻撃して、多数を大破・船団護衛から脱落させている。

 爆雷などの可燃物を満載した護衛駆逐艦は戦闘機の機銃掃射を受けるだけでも危険であり、飛龍と蒼龍の艦載機は機銃に焼夷弾を混ぜて使用することで着火率をあげた。

 この攻撃方法を考案した蒼龍艦長の柳本柳作大佐は、


「汚物は消毒せねばならん」


 と発言して部下をビビらせた。

 護衛駆逐艦を失った船団は潜水艦には無力であり、護衛の戦艦も危険になることから船団を解散させて逃亡するしかなかった。

 そのため、船団に戦艦の護衛をつけても被害は減らなかった。

 最終的に飛龍と蒼龍をベーリング海から締め出したのは、奥地島列島に建設された真珠の首飾りが完成したためである。

 真珠の首飾りとは、カムチャッカ半島から奥千島列島を経て阿羅斯加に至るアメリカ軍の航空基地群である。

 ベーリング海と太平洋を隔てる防壁の役割を果たす航空基地群の完成によって、水上艦がベーリング海に侵入することは不可能になった。

 潜水艦にしても対潜哨戒機の跳梁によって、ベーリング海への侵入は著しく困難となっており、しかも多数の駆逐艦によって水路は常時監視されていたから、日本海軍潜水艦部隊は多くの犠牲を払うことになった。

 真珠の首飾りが完成した1942年4月以後、ベーリング海は聖域化し、援露ルートは漸く安定した。

 大量の援助物資がベーリング海経由でロシア帝国に渡り、米第8航空軍の戦略爆撃が激化したのも同じ時期である。

 この真珠の首飾りを破壊しない限り、八州は外満州からの戦略爆撃で窒息させられることは明らかだった。

 日本連邦軍は真珠の首飾りに対抗するため、千島列島に航空基地群を建設し、最北端の占守島にまで基地を前進させた。

 しかし、ここからは先は海軍主力艦隊の投入がなければ前進不能だった。

 真珠首飾りの内、特に重要な島嶼は熱田島と来須賀島である。

 この2つの島は、真珠の首飾りの西の要であり、ベーリング海へ艦隊を侵入させるときに最大の脅威となる。

 当然のことながら、アメリカ軍も反撃を予期しており、守りを固めて警戒も厳重となっていた。

 来須賀島と熱田島にはベトンで固められた要塞砲が設置され、上陸に適した海岸には機雷と地雷がまかれ、文字通り鉄壁の要塞島となっていたのである。

 戦功により中将に昇進して第5艦隊司令長官に就任した山口提督は北方作戦を任されたが、増強された戦力で以てしても正面攻撃には懐疑的だった。

 特に航空攻撃は効果が低いと考えていた。

 なぜなら霧が立ち込める北太平洋・ベーリング海は航空戦には不向きだからである。

 特に春は最悪の季節だった。

 これは自分自身が1941年中の通商破壊戦を通じて散々に苦労してきた実体験に基づくものであり、増援にきた小沢提督(第3艦隊)も同意するところだった。

 空軍もこれには同意した。

 占守島から空爆が霧に阻まれ思うように戦果が上がっていないからである。

 ベーリング海は真珠の首飾りと霧という2つのヴェールに包まれており、日本軍の攻撃を阻んでいた。

 山口提督が提案したのは、来須賀島への奇襲上陸だった。 

 日本の勢力圏に近い熱田島は警戒厳重だが、来須賀島はその向こうにあることから比較的警戒は手薄だった。

 作戦の骨子は水上艦に最低限の上陸兵を乗せて、霧に紛れて来須賀に上陸。飛行場と砲台を占拠し、その後は本隊による通常の上陸作戦で来須賀島を奪取するというものだった。

 作戦の要諦は奇襲にあった。

 来須賀にも要塞砲台があり、奇襲が失敗すれば艦隊は砲撃で全滅することになる。空爆を受けた場合も同様である。

 作戦成功の前提条件は霧が出ていることであり、要するに霧次第というお天気任せな作戦といえた。

 山口提督の意見具申は、東京の海軍作戦本部では相手にされなかったが、連合艦隊司令長官の堀悌吉大将からは評価された。

 東京の海軍作戦本部が立案したのは潜水艦を使った奇襲上陸であり、精鋭の特殊部隊を上陸させ砲台を爆破するというものだった。

 北方作戦開始当初は海軍作戦本部のプランで進んだ。

 しかし、全くうまく行かなかった。

 アメリカ軍は日本軍が潜水艦を使った奇襲上陸を行うことを予期しており、沿岸の監視を強化し、駆逐艦を多数警戒にあたらせていた。

 潜水艦を使って少数のコマンドを上陸させるという発想は誰でも思いつくことであり、誰でもすぐに思いつくような作戦は奇襲にはなりえないのである。

 奇襲とは相手の意表を突くことであり、海軍作戦本部の計画は奇襲の要件を満たしていなかった。

 結果として潜水艦3隻を喪失、2隻大破という散々な結果に終わった。

 しかも上陸した部隊が捕虜になるというおまけつきだった。

 捕虜から情報が漏れた可能性もあり作戦は中止された。

 海軍がまごついている間に東京や大阪が空襲されるなど、状況は逼迫した。

 東京の海軍作戦本部に、山口提督のさらなる意見具申を拒否する体力も、時間も残されていなかった。

 山口提督が立案したケ号作戦(乾坤一擲のケ)は1942年6月28日に発動された。

 突入部隊となったのは第1水雷戦隊である。司令官は木村昌福少将だった。

 ソロモン海で一度壊滅した第1水雷戦隊(旗艦「阿武隈(阿賀野級23番艦)」だったが、濃霧の中でも艦隊戦を行うために新型のSHFレーダーとESM装備の新鋭艦で再建された。

 しかし、3,500名もの上陸部隊(1個独立混成連隊)を満載しているため魚雷や砲弾は最小限しか積載していなかった。

 もしも水上戦闘になれば陸兵がすし詰めになった甲板は地獄となるのは目に見えていた。空爆を受けた場合も同じだった。

 艦隊出撃は7月7日で、奇襲上陸のために戦闘は徹底的に回避することとなった。

 第1水雷戦隊に続いて陽動のために空母機動部隊である第3艦隊(小沢艦隊)が出撃し、熱田島攻撃に見せかけるべく北上した。

 連邦海軍の動きは、通信傍受などで米軍に察知されており、迎撃艦隊が出動した。

 1水戦の突入予定は7月12日であった。

 しかし、突入を前にして霧が晴れたため、木村提督は突入を保留し、再度、霧が出るのを待ち続けた。

 この間に小沢艦隊は熱田島を空襲するなど陽動作戦を続行したが、空襲が成功したのは皮肉にも霧がでないためであった。

 結局、木村提督は作戦を中止して幌筵に帰投した。

 手ぶらで帰投することになった1水戦及び作戦を主導した第5艦隊には批判が殺到したが、山口提督は趣味の相撲をとり、木村提督は釣りをするなど全く意に介さなかったという。

 さすがにこれには第3艦隊司令長官の小沢提督も苦言を呈したが、


「君も一緒にどうかね?」


 と誘われ、相撲と釣りに興じる羽目になったという。

 これを聞いた連合艦隊司令長官の堀提督は、


「じゃあ、私も」


 といって趣味のゴルフにでかけた。

 名将の条件に一つには、待つことができるというものがある。

 まさにこの時の山口提督や木村提督、堀提督の態度は名将たるにふさわしいものであったと言えるだろう。

 艦隊が再出撃したのは7月22日で、突入予定日の7月28日には確実に濃霧が発生するという予報が出た。

 なお、この間にアメリカ軍は来須賀島防衛に配置した艦隊(キンケイド艦隊)を補給のために一旦、帰投させてしまっていた。

 小沢艦隊の熱田島空襲から退避していたキンケイド艦隊(戦艦3、重巡洋艦3、駆逐艦12隻)は、極度の興奮状態にあり濃霧の中で岩礁を日本艦隊と誤認して集中砲火を浴びせて弾薬を著しく消耗していたのである。

 戦艦を含む日本艦隊を奇襲して一方的に撃滅したという大誤報はホワイトハウスを歓喜させた上に、来須賀島守備の米陸軍部隊が安心しきって警戒態勢を解除してしまうという致命的な錯誤を生み出す原因となった。

 本物の日本艦隊が来須賀湾に突入したのは7月28日のことだった。

 レーダーにも逆探知装置にも一切の反応がなく、警戒の駆逐艦さえいないことに困惑しながらも第一水雷戦隊は艦載の上陸舟艇によって僅か1時間で1個連隊の上陸を成功させた。

 揚陸作業中に突然、霧が晴れるという幸運にも恵まれている。

 なお、米陸軍守備隊はこの艦隊を味方だと信じて疑わず、予定にない増援到着に困惑し、上陸した日本兵に銃を向けられて初めて敵だと気がつくほどだった。

 この時の有名なやり取りに、


「Are you Japanese?」


「Yes I am」


 というコントのようなことが起きた記録が残っている。

 揚陸作業終了と同時に霧が出たため、艦隊は砲台から砲撃を受けることなく離脱に成功。

 パニックを起こした米陸軍部隊は同士討ちを始めたため、砲台と飛行場は速やかに奪取された。

 奪取された砲台による砲撃で、守備隊本部を爆砕された米陸軍部隊は降伏し、難攻不落のはずだった来須賀要塞は僅か3日で陥落することになった。

 来須賀島の陥落によって、短くも激しい北太平洋の夏が始まった。





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