アイアンボトムサウンド
アイアンボトムサウンド
1941年8月8日、アメリカ軍第1海兵師団がソロモン諸島中央のガダルカナル島に上陸し、ソロモン海の戦いが始まった。
戦艦の墓場と呼ばれることになるソロモン海は、珊瑚海と中部太平洋の中間に位置する。
蘭州と八州をつなぐシーレーンはソロモン海を横切る形となり、故に日本連邦にとって重要な海域ではある。
しかし、その防備は戦前まで等閑視されていた。
そんなところまで攻め込まれるとは考えていなかったのだ。また、ソロモン諸島は日本からの入植者が少ない地域で、殆ど手付かずの低開発地域だった。
多くの移民はジャングルとマラリア蚊だらけのソロモンや新四国(新四国は熱帯病が酷く死国とも呼ばれた)よりも気候が安定した蘭州や新宇治島に住みたがった。
そのため、ソロモン諸島は狭間な国とも呼ばれ、長年に渡って緑の不毛地帯であった。
16世紀にスペイン人の探検家が名付けた名前をそのまま使っているのが良い証拠であり、日本人の入植地にありがちな和名がない時点で地雷原であった。
とはいえ、アメリカとの戦争が始まるとその地理的な重要性から、防備を固める必要性を認められた。
しかし、資材や戦力は中部太平洋が優先され、戦力配置は遅れていた。
1941年8月8日時点で、ガダルカナル島の対岸にあるツラギに水上機基地があり、北部のブーゲンビル島に1,500m級滑走路をもつ戦闘機用の飛行場がある程度だった。
ガダルカナル島の駐留兵力は2個中隊で、後は基地建設要員であり、滑走路がもう少しで完成するというところまで来ていた。
その状態で米軍の上陸を迎えたガダルカナル島は、まともな抵抗もできずアメリカ軍に占領されることになった。
対岸のツラギも同様で、一方的な戦いの後に降伏を余儀なくされた。
これが日米初の本格的な地上戦だった。
米海兵隊にとって、この戦いにかける意気込みは大きなものがあった。
海兵隊員たちは日本軍兵士は全員が高潔な侍であり、決して降伏せず死ぬまで抵抗し、抵抗が不可能になったら自爆すると教えられていた。
しかし実際には、ツラギ守備隊(600名)は奇襲攻撃で大打撃を受けて組織的な戦闘が不可能になると残余はさっさと降伏した。
ガダルカナル島守備隊も同様で、弾薬と食料が尽きると白旗を掲げた。
肩透かしを食らった米軍には日本軍は弱く、臆病で、劣勢になるとすぐに降参するという誤った認識が芽生えることになる。
しかし、それは一方的な思い込みでしかなく、第一次世界大戦のような大量殺戮戦争を経験している日本にとって降伏は不名誉でもなければ、恥でもないし、玉砕して人的資源を浪費することは愚かなことだと理解されていた。
1日1個師団(10,000~12,000人)が死ぬような戦いを経験するとどんなに頑迷な組織も変わるものである。
むしろ、捕虜交換で戻ってこれる可能性があるため、撤退が不可能な場合には降伏することが推奨されていた。
そのための捕虜教育や機密文書や兵器の廃棄手順も細かく決められていた。
なお、米海兵隊は戦場土産にするため降伏した日本軍の兵器をさっそく物色したが、彼らがもっているはずのカタナはどこにもなかった。日本軍はずいぶん前に軍刀を制式装備から外しており、戦場に日本刀を持ち込んでいる兵士も将校もいなかった。
そんなものは使いものにならないからだ。
文化財保護の観点からも、日本刀を戦場に持ち込むのは馬鹿げていた。
そのため武器を隠し持っていると思い込んだ海兵隊員と降伏した日本兵の間で一悶着があった。
また、降伏したのは蘭州や新四国出身者で編成された部隊で、移民の末裔である彼らにとってカタナや武士道は知っているが見たことがない代物であった。
マオリ族など見た目が日本人ではない日本人も多数含まれており、米海兵隊が彼らの衣服を脱がせて全裸にして嘲弄するといった人種差別問題が発生した。
ガダルカナル島で捕虜となった基地設営隊の岡村徳長少佐は海兵師団長のヴァンデグリフト少将に正式に抗議し、謝罪を要求したがこれが受け入れられないと移送後の捕虜収容所でハンガーストライキを組織するなど徹底抗戦した。
最終的にヴァンデグリフト少将は考えを改めて文書での謝罪に応じた。
岡村少佐の態度と行動は俘虜将校の模範として、21世紀現在でも日本連邦軍士官学校の将校カリキュラムに組み込まれている。
岡村少佐の言葉は、
「降伏は善悪の問題ではない。名誉ある降伏はありえる。降伏とは敗者の権利を認めることであり、勝者が生殺与奪の権を握ることではない」
とカリキュラムのレジュメ冒頭に記述されている。
話が逸れたが、アメリカ軍の奇襲上陸はほぼ完璧な成功を収めた。
理由は日本軍の警戒網が北を向いていたからだ。
日本軍は7月15日に米空母によって東京を奇襲攻撃されたことで八州近海の防衛を固めており、南太平洋の警戒が疎かになっていた。
アメリカ軍は真田諸島航空戦で敗退すると世論の戦意高揚を狙って、陸軍爆撃機を空母に乗せて片道攻撃させるという奇襲作戦を行った。
所謂、ドーリットル空襲である。
日本軍は米空母の空襲を予想して警戒していたが、陸上爆撃機での片道攻撃という軍事的に無意味な攻撃までは想定することができなかった。
また、八州の防空は大陸側からの攻撃を想定して構築されており、太平洋側の警戒態勢は緩やかなものだったから、爆撃そのものは成功を収めた。
横浜や東京を爆撃したドーリットル奇襲部隊は八州を横断して、中国へ脱出する計画だった。
しかし、彼らは怒り狂った防空戦闘機部隊に捕捉され、ドーリットル少佐も戦死するなど、散々な結果に終わっている。
それでも空襲を阻止できなかった連邦軍の面目は丸つぶれであり、政治的な効果としてはアメリカ政府の狙い通りとなったと言える。
日本連邦軍は布哇からの上陸船団が出港した情報は掴んでおり、米空母の所在が不明であることも理解していたが、中部太平洋への再侵攻や本土攻撃を警戒しており、南太平洋までは頭が回らない状態だったといえる。
南太平洋を作戦空域とする連邦空軍第5航空艦隊の司令部は新四国の漏日にあった。
第5航空艦隊の司令長官は井上成美中将で、空軍創設時に海軍から移籍した経歴があり、対艦攻撃のスペシャリストだった。
慎重な井上中将は航空偵察で情報収集に努めると共に戦力の集中を図った。
上陸作戦である以上、必ず空母がいるはずだからである。
1941年8月9日に偵察に出たNk100のうちの1機が上陸作戦を支援するフレッチャー提督の米空母機動部隊を捉えた。
その配置を確認した井上中将は参謀や現場指揮官の反対を押し切って、米空母への滑空魚雷攻撃を中止させ、揚陸作業中の輸送船団へ滑空魚雷を投入した。
井上大将は米空母への滑空魚雷の攻撃は無効だと判断していた。
実際、アメリカ海軍は真田諸島沖航空戦から2ヶ月で滑空魚雷対策を確立していた。
その対策とは艦隊の分散配置だった。
これまで複数の空母を中心とした大きな輪形陣をとっていた艦隊陣形は、空母を中心としている点はそのままだったが空母ごとに小さな輪形陣を複数、分散して配置するパターンへと変化していた。
滑空魚雷はその性質上、正確な攻撃は不可能であり大量投入による公算攻撃となる。
よって、敵が大部隊で密集しているときに最大の効果を発揮する。
逆にいえば少数の敵が分散していると効果がない。あるいは著しくコストパフォーマンスの悪いものとなる。
日本連邦空軍にとって、滑空魚雷攻撃は最低200発以上の同時発射が基本であった。
一発2万円(一軒家が建つ)の魚雷を大量発射する贅沢な戦法であり、大量の魚雷を整備して使用可能な状態とするのも一苦労だった。
滑空魚雷で潰せる空母は多くても1隻程度、と判断した井上中将は敢えて空母を狙わず、的が大きく、しかも動きが鈍くて密集している上陸船団を優先して攻撃した。
揚陸作業で身動きがとれない船団への攻撃は極めて容易で、輸送船24隻中18隻が沈んでいる。
一度、射点についてしまえば滑空魚雷を防ぐ方法はなかった。
兵員の上陸は既に終了していたが重装備や糧秣を船ごと失った米海兵隊はガダルカナル島を制圧したものの著しく弱体化した。
この判断はまさに英断だったといえる。
なぜなら、ラバウルから出撃した連邦海軍第8艦隊は夜戦(第1次ソロモン海戦)で大勝利することになるが、生き残りの輸送船団を見逃して撤退してしまったからだ。
残存した6隻の輸送船には、武器弾薬と食料が積載されており、ガダルカナル島の米海兵隊は首の皮一枚で生き残る理由となった。
連邦海軍は勝利に沸いたものの空軍に大きな借りを作る羽目になった。
さらなる詳細な航空偵察の結果、アメリカ軍の上陸兵力が1個師団規模であると把握した日本連邦軍はガダルカナル島奪回のために兵力集中を決定。
3個師団をラバウルへ輸送し、第2航空艦隊の半数を第5航空艦隊へ移動するなど、兵力の集中を図った。
この間に、アメリカ軍はガダルカナル島の飛行場を完成させ、航空部隊を派遣してソロモン海の航空戦が始まることになった。
8月20日にヘンダーソン飛行場に進出したのはF4F戦闘機とSBD艦上爆撃機で、損傷した空母ヨークタウンなどから抽出された母艦航空隊だった。
彼らはブーゲンビルやラバウルからの空爆の合間を縫って、珊瑚海の輸送船団を攻撃して大きな戦果を挙げた。
さらにB-25のような双発爆撃機が進出すると珊瑚海のシーレーンは戦闘機の援護なしには運行不能になった。
米軍のソロモン海侵攻はロシア帝国軍の1941年夏季攻勢”タルナード”と合わさって、米露の優勢拡大を印象付けた。
ロシア帝国軍のタルナード攻勢は、ライン川を超えられなかったロシア軍がオーストリア連邦帝国の戦線脱落を狙ったもので、オーストリアの首都ウィーンが攻防の焦点となった。
トゥハチェフスキー元帥の芸術的な電撃戦により、1941年8月31日までにウィーンは完全包囲され、6万のオーストリア軍が孤立した。
オーストリア連邦帝国皇帝カール1世は、不退転の決意を示すために軍と共にウィーンに籠城した。
すでにオーストリアでは皇帝が実権を失って久しかったが、カール1世の断固たる姿勢は多くの国民を奮い立たせた。
ウィーンでは女子供を含む一般市民までもが武器を手にとってロシア軍と戦うほどで、王宮の侍女までもがメイド服のまま戦場に自ら赴き、対戦車ライフルを抱えてロシア軍のTー34に立ち向かった。
後にこの逸話は、機甲猟兵侍女中隊(パンツァーイェーガーメートヒェンカンパニー)として映画化されている。
航空戦が激化していく1941年8月20日、トラック環礁から陸軍第2師団を乗せた上陸船団と護衛の日本海軍機動部隊(小沢艦隊)が出撃した。
船団を護衛して南下する小沢艦隊と迎撃に出たアメリカ海軍の機動部隊(フレッチャー艦隊)との間に生起した第二次ソロモン海戦は、世界初の空母対空母の艦隊決戦だった。
日本空軍はラバウルとブーゲンビル島に大挙して進出し(約600機)、空から艦隊を支援する体制を整えていた。
滑空魚雷もたっぷりと2会戦分のストックが確保され、魚雷の整備員が徹夜で使用可能な状態に仕上げていた。
作戦成功の鍵は空軍の対艦攻撃にかかっていた。
小沢艦隊の空母は、千鶴、幡龍、翔鶴、瑞鶴、龍驤の5隻だった。これでも艦載機数は186機に過ぎなかった。
対するフレッチャー艦隊は、レンジャー、エンタープライズ、ホーネットの3隻だけで250機を超えており正面戦闘は不利だった。さらにガダルカナル島からのエアカバーも受けている。
そこで小沢艦隊を囮にして、ラバウルに展開した Mb177の攻撃圏内に米空母をおびき出して撃滅する作戦が採用された。
囮といっても貴重な空母を危険に晒す以上、できるだけ手厚い上空直掩が手配された。
さらに小沢艦隊は千鶴、幡龍、翔鶴、瑞鶴からなる本隊とは別に龍驤と金剛型戦艦4隻と加賀型戦艦2隻を投入した高速戦艦部隊を前面に押し出した。
「囮の囮」
という自嘲とも怨嗟とも取れるぼやきを近藤信竹中将は残している。
対するアメリカ軍も高速のアイオワ級戦艦6隻を前衛に出して、彼らを囮にして滑空魚雷から空母を守ろうとしていた。
この試みは成功し、8月24日に先制攻撃をかけたラバウルの雷撃隊は441発の滑空魚雷のうち25本を命中させ、アイオワ、ミズーリ、ケンタッキーに各2本ずつ振る舞った。
しかし、脱落した戦艦は1隻もなく、全艦が前進を続けて続く水上砲戦に参加している。
戦艦は極めて頑丈な船であり、炸薬量の少ない航空魚雷が1本や2本命中した程度では沈んだりしなかった。
堪らないのは駆逐艦のような小型艦であり、1本でも致命傷だった。
前衛艦隊の駆逐艦は3分の1が撃沈されるという悲惨な結果となり、後に戦いに微妙な影響を与えた。
日本軍の誤算は続き、フレッチャー艦隊の反撃により、前衛部隊に所属した龍驤が集中攻撃を浴びて沈没した。
100機以上の米艦載機の攻撃に晒された前衛部隊は空軍機の直掩戦闘にもかかわらず龍驤を守り切ることができず、金剛と比叡も被弾するなど、損害多数であった。
戦艦と空母を足して2で割ったような形状の龍驤は上空からでも目立つ為、集中攻撃を浴びる羽目になり、龍驤は日本海軍初の大型艦喪失となってしまった。
報復は直ちに実施され、空軍の滑空魚雷が米空母ホーネットを捉え、魚雷2発を浴びて洋上に停止したところを小沢艦隊本隊による空襲で、水底に堕ちていった。
この攻撃によってラバウルの滑空魚雷の在庫は空になり、3ヶ月は同規模の攻撃は不可能となった。魚雷は精密機械であり、月産300本が限界だった。
フレッチャー艦隊の第二次攻撃は遂に小沢艦隊本隊を捉え、翔鶴はSBD艦爆の急降下爆撃により1,000ポンド爆弾4発を浴びた。
爆弾が立て続けに飛行甲板で炸裂したのを見たSBDのパイロット達は、
「翔鶴の撃沈を確認!」
と母艦に打電して、勝利に沸き上がった。
しかし、翔鶴は装甲飛行甲板によって全ての攻撃を弾き返し、そのまま戦闘を続行した。
これが翔鶴の伝説的な悪運の始まりだった。
終戦までに翔鶴は16発の米国製爆弾を浴びることになるが、結局沈まなかったことから、特筆すべき悪運を海戦史に残すことになる。
逆に姉妹艦の瑞鶴は終戦まで一度も被弾しなかったことから、特筆すべき幸運を海戦史に残している。
装甲空母の利点を生かして攻撃をくぐり抜けた小沢艦隊の反撃により、空母レンジャーが被弾して、遂にフレッチャー艦隊は撤退を決意することになる。
だが、アイオワ級戦艦6隻を含む前衛艦隊(ウィリアム・パイ中将)は前進を続けており、第二次ソロモン海戦は夜戦にもつれ込んだ。
それこそ、アメリカ海軍の思惑どおりの展開だった。
彼らは優勢な戦艦部隊で上陸船団への突入を企図し、日本海軍の戦艦部隊に不利な決戦を強要しようとしていた。
前衛部隊を率いる近藤信竹中将は米海軍の新鋭戦艦相手に金剛型や加賀型のような旧型艦では勝利はおぼつかないとして撤退に傾いたが、水雷戦隊を率いるアルノベス少将が強硬に決戦を主張したため最終的に折れた。
アルノベス少将は呂宋移民の末裔で、根っからの水雷屋として軍歴の大半を海の上で過ごしてきた猛者の一人だった。
日付が変わった1941年8月25日の深夜に激突した日米戦艦決戦は、お互いが探照灯を全開にした夜間水上砲戦となった。
大改装を受けて30ktの高速戦艦となっていたものの基本的に金剛型戦艦は老朽艦であり、アイオワ級戦艦に比べてはるかに劣っていた。
アイオワ級と唯一互角に戦えるのは41cm砲8門を備えた戦艦加賀と土佐の2隻のみだった。
加賀級は二度に渡る大改装によって基準排水量は46,000tに達し、アイオワ級とほぼ互角の攻防性能をもっていた。防御に関してはアイオワ級を上回っていたという分析もある。
だが、海戦の勝敗を決したのは砲火力ではなく、水雷兵器だった。
アルノベス少将率いる第二水雷戦隊はアメリカ海軍の駆逐隊の阻止線を突破し、距離2,400mから酸素魚雷122本を発射して金剛、榛名、霧島を火達磨にしたパイ中将のアイオワ級戦艦部隊に大打撃を与えた。
炸薬量の多い酸素魚雷4本が直撃したアイオワは轟沈し、3本命中したミズーリは大破。ケンタッキーは昼間に滑空魚雷が命中した箇所に酸素魚雷1本が命中し、艦内で奥深くで爆発したことで弾薬庫が誘爆して爆沈した。
第二水雷戦隊の突入が成功したのは米駆逐艦部隊が昼間の滑空魚雷の攻撃で戦力の3分の1を失うなど、戦力を消耗していたことが大きかった。
一度に戦力の半数を失ったパイ中将は撤退を決意し、太平洋戦争初の日米戦艦決戦は日本の勝利に終わった。
ただし、榛名は消火に失敗して大火災に襲われて弾薬庫が熱量限界に達して大爆発を起こして沈み、金剛も帰路に米潜水艦の雷撃を受けて撃沈されている。霧島は修理不能と判断され自沈処分された。
一度に6隻もの戦艦が沈んだ激戦を制した日本軍は遂に第2師団を上陸させた。
日第2師団と米第1海兵師団の戦闘は、1941年9月1日に最高潮に達した。
飛行場に突入した日本軍戦車部隊を米海兵隊が高射砲の水平射撃で撃退するなど、攻防の焦点となった飛行場は壊滅状態となった。
結局、双方共に武器弾薬が尽きてジャングルの中に撤退し、ガダルカナル島には飛行場を挟んだ無人地帯が生まれることになる。
一先ず、日本軍はガダルカナル島の飛行場を使用不能にしたことで、珊瑚海のシーレーンを守った形だった。
だが、米軍をガダルカナル島から追い落とすにはさらなる増援が必要だった。
それは米軍も同じであり、ソロモン海には双方の軽艦艇が揚陸のために進出し、不期遭遇戦が続発することになる。
1941年9月中だけでも11の海戦が生起して、日米の水雷部隊がしのぎを削った。
双方の努力にもかかわらず小型艦艇で輸送できる物資は僅かなものであり、双方の地上軍が必要とする補給を満たすには足りなかった。
そこでアメリカ軍は戦局打開のため大規模な逆上陸作戦を企図した。
それが二度目の日米空母決戦となる南太平洋海戦となった。
アメリカ海軍では、真田諸島航空戦の損害から復旧した空母ヨークタウンに加え、エンタープライズとエセックス、ユナイテッド・ステーツからなる第61任務部隊が編成され、指揮官に戦列復帰したハルゼー中将がついた。
日本海軍は簡易修理で復帰した翔鶴に加え、瑞鶴、幡龍、千鶴、さらに大和型戦艦5番艦と6番艦を空母化した尾張と紀伊が戦列に加わっている。
尾張と紀伊は朝鮮戦争や威海衛空襲などでその力を示した航空戦力を増強するために建造中止になった大和級戦艦を空母化した船で、基準排水量64,000tという重装甲空母だった。
また、日本の空母で初めて格納庫を開放式にした船でもあり、アングルドデッキを備えた船でもあった。
格納庫を開放式にしたのは防御上の利点を追求というよりも急ぎ戦力化するために、格納庫側面の防御を捨てて、支柱構造物だけで十分としたためである。
尾張級は元から戦艦の装甲を備えており、さらに飛行甲板に装甲を施すというトップヘビーな船であるため、側面装甲は妥協するしかなかった。
アングルドデッキについては、どちらかといえば盲腸のようなものだった。
というのは、一部の大艦巨砲主義者が空母化改装前に尾張と紀伊と航空戦艦化することで戦艦として生き残らせようと画策した結果アングルドデッキが追加されたのだった。
結局、航空戦艦化は中止され、アングルドデッキを撤去する時間を惜しんだため装備したまま就役したという経緯がある。
そのため、最初は無用の長物だと考えられていたが、実際に運用してみると非常に多くの利点があることが判明し、そのまま制式装備となった。
紀伊級は大和級の巨大な船体をそのまま空母としたため、広大な格納庫を備えることに成功し、一層式にもかかわらず88機も搭載できた。
アングルドデッキによって広がった飛行甲板に露天係止を行えば、艦載機は100機にもなった。
これは翔鶴型の3倍であり、ようやく日本海軍は満足に戦える空母を手に入れたと言えた。
艦隊陣形は第二次ソロモン海戦と同じく、日米は共に戦艦を前衛に出して後方に空母を配置した。
アメリカ海軍はハルゼー提督の直訴により、モンタナ級戦艦5隻をレイモンド・スプルーアンス中将に預けて送り出すことになった。
ハルゼー提督とスプルーアンス提督は非常に親しい先輩、後輩の間柄であり、絶大な信頼関係があった。
相手がモンタナ級を繰り出してくるとなれば、日本海軍も大和級を出さざるえなかった。
大和級戦艦の投入には慎重な意見もないわけではなかったが、連合艦隊司令長官の堀提督の鶴の一声で投入が決定した。
「今、使わなければいつ使うのだ」
と堀提督は一喝したという。
実際のところ、航空機の発展で戦艦が戦える場所は夜戦に限られており、しかも交戦距離の短さから水雷艦艇の介入を許すなど、戦艦の黄昏は急速に近づいていた。
さらに空軍は効率の悪い滑空魚雷攻撃から、より精密な攻撃が可能な誘導兵器の実用化、量産配備を推し進めており、1943年の半ばには実戦投入を予定していた。
戦艦が戦艦らしく戦える最後の瞬間に、日米最強戦艦達は間に合ったと言えた。
日本海軍最強のそして、おそらく最後の戦艦第1戦隊を率いるのは呂宋出身のアルバロ・デ・増山提督だった。
アルバロ提督はとてつもない毒舌と女癖の悪さから戦争がなければとっくの昔に海軍をクビになっていた男だったが、海軍戦術の冴えだけなら連合艦隊司令長官にもなれると連合艦隊司令長官の堀悌吉海軍大将から太鼓判を押されていた。
出撃に際しても、
「諸君、難しく考えることはない。戦艦ってのは真っ直ぐ前をむいて突撃するだけの簡単なお仕事だ。ちゃんと前を向いてりゃ、神様がケツから奇跡を突っ込んでくれるさ」
などと述べて、生真面目な参謀達を唖然とさせている。
1941年10月26日、南太平洋海戦は双方の陸上航空戦力同士の激突から、空母同士の航空戦へと移行した。
慎重な用兵家の井上空軍大将は滑空魚雷の投入時期を見計らっていた。
大量の魚雷を射耗する滑空魚雷攻撃は1回しかできなかった。
空母同士の戦いは日本有利で、アメリカ海軍の急降下爆撃は重装甲の翔鶴級や尾張級に対しては効果がなく、TBD雷撃機は信じられないほど旧式だったから、突撃のたびに大損害を被った。
小沢提督は少ない艦載機を有効活用するため、艦載機の大半を戦闘爆撃機のHd190で固めていた。
Hd190は防空にも制空にも爆撃にも投入可能で柔軟性の高い運用が可能だった。
また、ラバウルやブーゲンビル島からの空軍機の支援があり、防空戦闘には足の長い双発のHd187も加わっていた。
そのため、小沢提督は敢えて先手をとらせて攻撃を誘い、全艦載機を迎撃に使うことで巧みに米空母機動部隊の戦力を漸減させた。
艦載機を失ったハルゼー機動部隊に小沢艦隊は猛攻を加えた。
Hd190は250kg爆弾2発を抱いて急降下爆撃が可能であり、爆装していてもF4Fを振り切れるほど高速を発揮した。
250kg爆弾を多数浴びたヨークタウンは大爆発を起こして沈み、エセックス、ユナイテッド・ステーツは飛行甲板を破壊され戦闘不能となった。
この時、米空母機動部隊が全滅しなかったのは、夕暮れが近づいていたことと水上艦にとって致命的な魚雷攻撃がなかったからだった。
航空魚雷の生産は空軍の管轄であり、海軍への割当は僅かなものでしかなかった。
その僅かな魚雷も滑空魚雷攻撃のために召し上げられ、海軍の空母には殆ど魚雷が搭載されていなかった。
「空軍の連中が無駄打ちする魚雷の半分でもあれば、沈められたのにな」
と空母雷撃隊を率いたブーツ少佐は嘆いたとされる。
その後、ブーツ少佐は乏しい魚雷を反跳爆撃という全く新しい手法で補うことに成功するのだが、南太平洋海戦の歯がゆい思いがきかっけとなったと後に述べている。
日米空母決戦は日本の勝利で終わったが、前衛のモンタナ級戦艦はP-38などの上空援護を受けつつ前進を続けており、戦いは10月27日未明まで続いた。
南太平洋の月夜に日米最強戦艦対決は始まった。
突進するモンタナ級戦艦5隻(モンタナ、オハイオ、メイン、ニューハンプシャー、ルイジアナ)に対して、大和級戦艦4隻(大和、武蔵、信濃、甲斐)は距離2万4千mから砲撃を開始した。
夜間の光学照準では到底、命中を見込めない距離であったが日本連邦海軍の戦艦にはレーダーが搭載されており、ある程度の電波照準が可能となっていた。
このレーダーはイギリス製のセンチメートル波レーダー(273型)で、日欧の技術交換によって入手されたものだった。
第1次世界大戦でイギリスは帝国を失ったが先端技術を全て失ったわけではなく、レーダー技術に関しては世界最先端を走っていた。
第2次大戦大戦においてはドイツ帝国が本土の大半を失い、日本連邦も開発の方向性を誤ったことから迷走したため、イギリスは日欧同盟のレーダー開発のトップに躍り出た。
日本連邦はマグネトロンや八木アンテナのような要素技術の開発では先行したにも関わらず、連合王国の技術指導を受けるという失敗から戦後に多額の投資を行ってレーダー先進国の地位を築いたが、戦中は連合王国のレーダーのライセンス生産に終始した。
イギリス海軍の273型レーダーは夜間でも25km前後で戦艦クラスの反射波を捉え、実用兵器として信頼性を確立していた。
より小型軽量の271型は巡洋艦や駆逐艦に幅広く搭載され、日本連邦海軍の夜戦優位の確立に寄与した。
ただし、1941年時点では配備数も少なく、その運用法も未確立であり、結局、数回の主砲発射の衝撃でアンテナが破損して以後、使用不能となった。
スプルーアンス提督は、第二次ソロモン海戦で日本の魚雷攻撃によって逆転勝利を許したことを踏まえて、重巡洋艦を多数配置して分厚い防御スクリーンを張り巡らしていた。
そのため突撃を敢行した第1水雷戦隊は旗艦の能代を失って司令官の大森仙太郎少将を戦死させるなど大損害を被って撃退された。
同じ手が通用するほど米海軍は甘い相手ではなかった。
しかし、米海軍の駆逐隊は損害多数であったことから、戦艦同士の殴り合いに介入するタイミングを失ってしまった。
結果としてモンタナ級戦艦と大和級戦艦の戦いはほぼ同数による純粋な砲戦で決着を見ることになった。
モンタナ級は16インチ砲12門という多数装備によって、手数の多さでは大和級を上回り、一発の打撃力は46cm砲の大和級が勝っていた。
防御力に関しては明らかに大和級が勝っていた。
というのも大和級は不沈艦を目指すあまりに設計段階で過剰なまでに防御力を与えられており、自艦の46cm砲でも貫通不能な防御装甲を持たされていた。
そのため5番艦以後は装甲を削って水中防御を強化するなど合理的な装甲配置の見直しが行われる予定になっていたほどである。
大和級はモンタナの長砲身16インチ砲弾を多数被弾しても平然とそれを弾き返して戦闘を続行することができた。
最初に脱落したのは旗艦のモンタナで、大和と激しい撃ち合いとなり設計限界を遥かに超える12発の46cm砲弾に耐えたが、13発目が耐えられず機関を撃ち抜かれて、動力を失って漂流した。
2番艦の武蔵と撃ち合ったオハイオは9発の46cm砲弾に耐えられず、モンタナの後を追うことになった。ただし、最後の斉射で武蔵の副砲を撃ち抜いて弾薬庫を引火誘爆させることで道連れの数を1隻増やすことに成功した。
副砲の弾薬庫の誘爆によって三番砲塔が吹き飛んだ武蔵は巨大なきのこ雲の下に消えた。
武蔵の爆沈による衝撃波は先頭の大和や3番艦の信濃にも届くほど強烈なものだった。
「真っ白い閃光と共に武蔵が消えてなくなった」
という見張員の証言が相次いだほどである。
武蔵があまりにも一瞬で沈んだため、武蔵が次元跳躍して別の世界で宇宙戦艦として活躍するというSFアニメの元ネタになったほどである。
モンタナ、オハイオ、武蔵の脱落で日米最強戦艦対決は3対3のイーブンな状態となった。
そこからさらにメイン、ニューハンプシャーが46cm砲の打撃力に根負けして脱落し、ルイジアナは撤退を選んだ。
この間に4番艦の甲斐が砲弾の水中爆発で舵が損傷して迷走し、大和は被弾多数で戦闘不能となり、3番艦信濃も大火災によって戦闘力をなくしていた。
信濃の火災は消火不能の状態になり、弾薬庫への注水が電源喪失で果たせず、松明のように燃えながらソロモン海に沈んだ。
大和級の巨大な船体は迷路のように入り組んでおり消火作業を妨げた。
海戦後に生き残ったのは大和と甲斐、そしてルイジアナの3隻のみだった。
甲斐も修理のために呂宋に戻る際に、舵の故障が再発して漂流して自国が敷設した機雷原に触雷沈没しており、大和級は1番艦の大和しか生き残れなかった。
アメリカ海軍は一度に4隻ものモンタナ級戦艦を失った上に、撤退中の上陸船団が滑空魚雷攻撃を浴びて船団の半数を失うという大敗を喫した。
日米の海軍関係者は戦艦同士の殴り合いに狂奔したが、空軍の井上大将は最後まで戦略的優先順位を忘れていなかったといえる。
アメリカ軍の攻勢は失敗に終わり、空母部隊が行動不能になるなど、散々な結果に終わった。
小沢艦隊は海戦終了後もソロモン海に遊弋し、制空権の確保に努めた。
日本軍は増援として控えていた第38師団の輸送を強行し、B-17の阻止爆撃に苦しみながらもガダルカナル島への上陸を成功させた。
1941年11月5日、ついに日本軍はガダルカナル島飛行場を完全に占領した。
これはソロモン海の戦いの明確なターニングポイントだった。
さらに12月23日には欧州戦線でもドイツ軍装甲部隊がウィーン解囲(冬の嵐作戦)に成功しており、米露の攻勢に歯止めがかかった。
だが、日欧は戦線を一部押しかえしたに過ぎず、勝利の形が見えたわけではなかった。




