蒼鋼のカナリア #2
出発の日はすぐに訪れた。
そもそも準備は国の衛兵と医師による身体検査と家族や友人たちとの送別だけ。それ以上何かを待つ必要もなければ、現実問題として十年分の国益が尽きかけている状況で悠長にもしていられない。そんなわけで、最低限の出立の儀を済ませたふたりはカナリアに選ばれてから三日と経たずに国を出ることを決めた。
出発の日の朝。
採掘に必要な道具と一生を暮らして余りある金がシュヤに、採掘が完了するまでに必要な食事や水、寝袋などの生活用具はマリに渡された。
多くの人に見送られ、シュヤとマリ、幼馴染の少年少女の旅が始まる。
国から一歩も出たことがない子供たちはまず果てしない砂地に目を剥いた。
視界に見えるのは砂の灰がかった淡い黄褐色か空の青のみ。人の姿もなければ建物や動植物など見えるはずもない。同じ景色がどこまでも続く。あえて違いを探すならば、ところどころに転がった大きな岩の形や模様くらいだろうか。それも気休め程度だが。
「なんだか、ずっと同じ場所を歩いてるみたい」
「そうだね。目印もないし」
掴めない距離感に戸惑いと不安を感じながらもシュヤたちは衛兵から言われた通りに足を進める。国から洞窟までの距離は子供の足でも三日ほど。午前中は東から昇る太陽を右手に真っ直ぐ進み、午後は歩けるところまで歩く。日が沈むとすぐに暗くなるので、陽が西へと傾き始めたら寝床を準備する。絨毯を敷きテントを立てるだけだ。後は食事と暖を取って寝るだけ。これがもしも雄大な冒険譚ならば三日間の旅路の中で恐ろしい獣に遭遇してしまったり、嵐に見舞われたりするのだろう。しかし、これは冒険譚ではない。洞窟まで続く砂丘には獣もおらず風も穏やかで、野営をしたことがないシュヤ達にもやさしかった。
シュヤとマリは大人たちの言いつけをきちんと守り、一日目を難なく過ごした。
唯一悩みがあるとすれば、テントが少々小さいことだろうか。大人たちの粋なはからいとも言えるが、シュヤにとっては睡眠の妨げにしかならなかった。手を伸ばさずとも肌が触れ合ってしまいそうな距離にマリの美しい寝顔がある。マリから背を向けたとしても、規則正しい彼女の寝息が首元にかかるたびに心臓が跳ねる。
結局、シュヤが眠りにつけたのは砂の向こうがうっすらと明るくなってきた頃だった。
二日目は慣れが出て、マリの顔に笑みが増えた。睡眠不足のはずのシュヤも若さとマリへの思いから疲れや眠気はおくびにも出さず、マリとの時間を心から楽しんだ。道中の会話は多岐にわたり、家族や友人たちへの思いから将来のこと、国へのちょっとした不満や洞窟について……話題が尽きることはなかった。
夕方、大きな岩場の影でテントを張り終えたふたりは火を起こし、パンを炙って食べていた。小麦にチーズを混ぜたパンは噛むほどに塩みと甘みが口に広がり、消耗した体力をたやすく回復させる。シュヤが食事を味わっていると、マリもほうっと感心したように息をついた。
「ねえ、シュヤ。不思議なんだけどね、私、いつもより食事がおいしく感じるの」
マリの言葉に、今しがた同じことを感じていたシュヤは嬉しくなる。
「うん、俺もそう思ってた。同じものでも、どうしてこんなに違うんだろうって」
「やっぱり……」
いつもより少し高いテンションで切り出したマリは、そこで口をつぐんだ。自戒のようにキュッと口を真横に引き結び首を左右に軽く振る。
「ごめん、なんでもない」
「はは、なにそれ。どうしたの?」
「ううん、本当になんでもないの」
「……本当に?」
シュヤが食事の手を止めてマリを覗き込むと、マリは逡巡を見せた。彼女の顔はみるみるバツの悪そうなものへ変化していく。
シュヤはマリのほうへ半歩分だけすり寄った。彼女が泣いてしまいそうな気がして。
なんとかマリの本心に寄り添おうと、シュヤは自分が考えうる中で最もよさそうな言葉を探す。そうして絞り出したのは、今この状況を表すだけのものだった。
「ここには俺とマリしかいないよ」
言ってから、もっと気の利いたことが言えればよいのにと後悔しても遅い。シュヤは慌てて「だから大丈夫だ」と続ける。なにが大丈夫なのかはシュヤにもわかっていなかった。
うまく話せない自分に情けなさを感じ、パンを口に運ぼうとマリから顔を背ける。
と、
「……ありがとう」
かすかに震えたマリの声が聞こえた。
泣いているのかと彼女を見れば、マリは自然な笑みでシュヤを見つめていた。迷いを捨てて腹をくくったのか清々しい顔だ。
「やっぱり、自由だからかなって言いたかったの」
「自由?」
「うん。私ね、本当はずっと息苦しかった」
「え?」
「生まれた時から親の職業や見た目だけで自分を決めつけられてる気がして。清く、正しく、美しくあることをみんなから求められてるみたいだったの」
「そう、だったんだ」
シュヤが意外だと素直に表情に出せば、マリは静かにうなずく。
「もちろん、それは私の理想でもある。だから、そうなりたいと思って毎日過ごしてきたけど……、どこかにね、そうならなきゃって思ってる自分がいるんだ」
マリは乾いた笑声をこぼして、小さくなった火に枝をくべた。手にしていたパンを炙りながら、またポツポツと話し出す。
「私、誰かのために頑張れる自分が好き。誰にでも優しくできる自分も。みんなのためにって思ったら、どんな辛いことでも我慢できるし、困っている人がいたら助けたい。全部、本心なの」
「うん」
「でも……」
マリはパンで暖を取るようにそっと炙ったパンを手に取った。半分にちぎり、シュヤへ差し出す。シュヤはそれを戸惑いつつも受け取る。あたたかくてふかふかとしたそれは、マリの心によく似ていた。
マリはシュヤの食事を満足げに見ながら、先ほどより一層小さな声でささやいた。
「時々、少し苦しくなるんだ。私の人生ってなんなんだろうって。それから、怖くなる。私が自分自身のために生きることを肯定してくれる人っているのかなって」
「そんな。マリはマリ自身のために生きるべきだよ」
「うん。シュヤならそう言ってくれると思ってた。でも、他の人は?」
「それは……」
「つまりね、私はみんなのためなら死ねるけど、私のために死んでくれる人はそんなにいないような気がするんだ。見返りを求めるなんてずるいってわかってる。でも、本当に少しだけ、そういうことを考えて、怖くて悲しくなっちゃう時があるの」
独白は長く、聞いているうちにシュヤの手の中のパンは冷えてしまった。おそらく、マリのものもそうだろう。それがマリの心にリンクするようで物悲しい。
シュヤは喉元まで出かかった思いを無理やりに抑え込んだ。マリのためなら俺は死ねると声を大にしてマリに教えたい。だが、その無鉄砲さがマリを傷つけてしまいそうな気もする。マリは誰かに救われたい一方で、自分のために誰かが犠牲になることを本心で願っているわけではないのだ。矛盾した心に挟まれてはいるが、きっと彼女の天秤は誰かを救いたい気持ちのほうに傾いている。だから、マリ自身も今まで誰にも吐露してこなかったのだ。本音を打ち明けてしまったら、みなも、マリ本人も困り果てるだろうから。
シュヤは分けてもらったパンを口に運んでいる間に考えを巡らせる。もう一度かけるべき最良の言葉を探す。ようやく見つけたものはやはりありきたりなものだった。
「マリがいいなら、だけど……、俺はずっとマリのそばにいるよ」
もしもマリが疲れたら、体を預けられる木となろう。光を遮る枝葉を茂らせ、人の目から彼女を隠すことだって厭わない。望まれなければ今まで通り、彼女を引き立てるただの背景になる。シュヤにできることといえばそれだけだ。
「自由になったら、マリのしたいことをすればいい。旅に出たって、国に戻ったって、誰かに尽くしたって、休んだって、なんだって大丈夫だから。困ったら俺がそばにいるって時々でも思い出してくれれば、それだけでもいいんだ」
思いばかりが先行して支離滅裂だとシュヤは顔をしかめたくなる。だが、マリの手がそっと重なって、しわのよりかけた眉間は容易にほぐれた。
おそるおそるマリの様子を窺えば、彼女の薔薇色に染まった頬に一筋の涙が光った。
「私、シュヤと一緒にいれて嬉しい」
雫が砂地を潤す。やがてこの地にも緑が芽吹くかもしれないとシュヤは思った。
その夜はいつもより星が美しく見えた。
鳥かごの外を知ったカナリアは自由に大空を舞う楽しさを覚え、鳥かごに戻ることはない。
シュヤはなぜカナリアに選ばれた過去の人々が国に戻らないのか、わかったような気がした。




