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サムシング・フォー ~花嫁に贈る四つの宝物~  作者: 安井優
第3章 砂漠の夢

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砂時計と虹 #5

「アル……」


 こぼれた声は震えた。


 アルは弱々しい笑みを見せる。


 ハリスはふらふらとアルに近づいた。泉の周りに生い茂っていた草木も枯れはじめていて、足から伝わる感触に生はない。


 ハリスはアルの前に膝をつき、彼女の存在を確かめるように手を取る。自ら離れたくせにアルの手をとるとやはり愛おしさが溢れて胸を締め付ける。ずっと一緒にいたいと強欲な思いが湧き上がる。


 アルは目が見えていないらしい。虚ろな目はハリスを捕えることなく空を見つめている。


「……ハリスね」


 囁かれた声はかすれて今にも消えそうだ。彼女は永遠の命を手にしたはずなのに。ハリスが彼女に命を与えたというのに。


「どうして」


 どうしてこんなにも生気を失ってしまっているのだろう。


 ハリスの疑問に対する答えを持ち合わせていないのか、アルは静かに首を振った。


「わたしにもわからない。急に足が縫い留められたみたいに動かなくなっちゃって。ハリスに会いに行きたかったけど、行けなかったの。ううん、ハリスにだけじゃなくて、みんなにも、街にも。どこにも行けなくなっちゃった」


 アルは眉を下げて苦笑する。


「困ったね」


 無邪気なままのアルは本当に自分にはどうすることもできず、何が起きているのかもわからないから他人事のように言うしかないようだった。純真な彼女はハリスを疑うことも責めることも知らない。


 ハリスが命の砂時計を作り、彼女を無理に延命した結果がこうなのだとハリスですら気づいたのに。


「でも、ハリスが来てくれてよかった。お別れも言えなかったらどうしようかと思ってたの」


 アルはもしかしたら今の症状を死ぬ前のカウントダウンか何かだと思っているのかしれない。ハリスを見ることも叶わなくなった瞳を細め、屈託のない笑顔を作る。


「だから、会えてよかった。お別れは言えそうだね」


 妖精の美しかった青はもうどこにもない。


「……ダメだ」


 ハリスはすがるようにアルの手を握る。ツンと鼻の奥が痛くなって涙がにじむ。ハリスは必死に涙をこらえた。


「お別れなんか、しなくていいんだ」


「でも、わたし」


「アルに、生きていてほしい。ずっと。そのために、僕は……、僕が命の砂時計を作ったんだ」


「……命の、砂時計……」


「そう。そうだよ。アルの分はちゃんと僕が管理する。アルに会えなくてもいい。僕は、アルが生きてさえいればそれだけでいいんだ。だから」


「……ハリス」


 握りしめていた手をアルがほどいた。ハリスの話を聞いて、少女はようやくハリスがしたことと自分の身に起きたことの繋がりを理解したらしい。


「それはいけないわ」


 アルは今までになくはっきりと述べた。


「水は流れ続ける。一か所にとどまっていると、そのうちに濁ってしまうの。わたしは、わたしたちはそういう生き物なんだよ」


 純粋さは時に残酷さを孕む。正しさは時に人を傷つける。強さは弱さを打ちのめす。


 アルの言葉はまっすぐで、それゆえにハリスの心を酷く揺さぶった。彼女の言葉を打ち消すようにハリスは彼女にすがりつく。


「アル……、やめてくれ……、アル! この国では、みんな不老不死になれるんだ! 僕が管理さえしていれば、砂時計を回せば、それで一日は何事もなく終わるんだよ。ずっと、ずっと一緒にいられるんだ。お別れなんてしなくていい」


 だが、アルはどこまでも純真だった。


「ハリス、わたしは死ぬの。ずっと生き続けるなんて、そんなの悲しいわ。永遠なんてこの世界には存在しない。命あるものは必ずいつか死ぬ。そうして繰り返すんだよ」


 すがりつくハリスを抱きしめるようにそっと両手を彼の背に回し、嗚咽に合わせて揺れる肩を優しく撫でる。


「お願い、ハリス。もし、あなたが本当にわたしを想ってくれているのなら、命の砂時計なんて壊して。わたしを理に、流れゆく水に還して」


「いやだ! お願いだ、アル、そんなこと言わないで!」


「ハリス、話を聞いて。お願い」


 アルは静かにハリスをもう一度強く抱きしめた。


 ハリスはそこで、彼女の腕がすでに冷たく感覚を失い始めていることに気づく。アルはハリスのせいで時間の中に閉じ込められてしまったのだと。


 ハリスがアルの自由を奪ったのだ。ハリスのわがままが、彼女の愛するものを奪った。


「アル……」


 それでも彼女を愛している。


 ハリスはアルを失うなんて考えられない。


 アルのいない世界が永遠に続くことのほうが死ぬことよりも何倍も恐ろしかったし、アルを失ってしまったらそれ以上生きている意味などないようにも思えた。


「アル、僕は……、アルのことが好きなんだ」


 だから一緒に生きてよと懇願した声は音にならず、こぼれた涙に溶けて消える。


 さらにぎゅっと強く、強くアルを抱きしめる。ハリスを探すような彼女の手の動きが触覚すらも消失し始めていることをハリスに伝える。


「わたしだって、ハリスのことが大好きよ」


 アルの優しい声がハリスの鼓膜を揺らす。


 彼女はいつだって明るく笑っていた。


「お別れは寂しい。でも、このままここで、空も、みんなも、あなたのことも見えないまま、どこにも行けずに朽ちていくほうが悲しいわ。いつか別れは来るの」


「そんな……、そんなこと言わないで」


「ハリス、大丈夫だよ。別れがあるから出会いもあるんだもん。あなたはきっと、これから先もたくさんのことに出会う。新しいことはあなたの世界を広げ、あなたの人生をより豊かなものにするわ。今は信じられないかもしれないけど、わたしがいなくてもいつか大丈夫になる日が来る」


「アル……」


「だから、大丈夫。きっといつか、また会えるから。だから、生きて、また会おうね」


 彼女の声がふっと消えた。


 アルは固まり、力尽きていた。


 生きている。彼女の心臓はまだ動いている。


 だが、それだけだ。ハリスによって強制的に砂時計のガラス瓶に入れられた水は、どこにも行くことができなくなってしまった。


「アル……っ!」


 ハリスが抱きしめ返すも彼女の笑い声は聞こえない。


 死んでいないのに、命はあるのに、目の前にいるのに。


「アル!」


 ハリスはその場で泣き崩れた。


 黒く濁って澱んだ泉はもはや風に吹かれても水面を揺らすことはなかった。

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