砂時計と虹 #2
城を出る前にやるべきこと――砂時計を自動で回転させるからくり作り――を終えたハリスは充足感も味わうことなく城を出た。
泉ができたと聞いてからゆうに一か月は過ぎてしまった。伝令を受けた直後はすぐにでも出向かねばならぬと感じていたのに、砂時計の管理をおざなりにするわけにもいかず、結局この体たらくだ。
ハリスは自らを叱咤しながら、それでも可能な限り早く馬を飛ばし、従者をはるかかなたへ置き去りにしてまで泉へ向かった。
二百年ぶりの城の外。景色は変わっていない。住む人々の顔ぶれが変わらないのだから当たり前といえば当たり前だ。家の配置も店の種類も、そこに根付く人々が入れ替わるから変遷するのであって、永遠に生きる人々にそのような変化は生まれない。変わらない暮らしこそ安定と平穏の象徴だ。
そんな中、ハリスは国唯一の森の入り口で馬を止めた。森は二百年前に比べていくらか成長と伐採の繰り返しによって少しばかり形を変えていたが、ハリスが気になったのはそんなささいなことではない。
彼の目に飛び込んできたのは森の入り口にかけられた多くの見慣れぬ飾りだった。
薄青のタープが幾重にも張り巡らされ、木々の爽やかな緑に涼やかな印象を加えている。枝葉に吊り下げられているのは青色ジルコニアの結晶だ。サンキャッチャーさながらに日光を浴びてきらめいている。目的地までの景色を楽しむための小道が整備されており、足元には砂時計を模したランタンが点々と並んでいる。夜にはライトアップされ、幻想的な風景を見せるのだろう。
「なんで、こんなことに……」
一体誰が。ハリスが立ち尽くしていると後ろから追いついた従者が答えをくれた。
「美しいでしょう。街のみなが妖精の誕生を祝い、喜んで、今ではすっかりこのように」
従者の言っていることは間違ってはいない。美しいことは美しい。だが、二百年前にはなかったものだ。その変化がハリスの心をかき乱す。
「ハリスさまもたまには市政に降りたほうがよろしいかと。変わらぬ街も素晴らしいですが、時折こうして新しいものに触れるとよい刺激になりますよ」
ハリスは従者の同意を求めるような声には応じず、馬を引いていた手綱を脇の木にくくりつけて森の小道を急いだ。
この先に泉が。妖精が。ハリスの穏やかな毎日を脅かす存在がいる。
歩調は次第に早くなり、焦る気持ちを追いこして最後は小走りになっていた。久しぶりの運動に息があがる。
ハリスの肩が上下し始めたころ、目の前がパッと開けた。
泉だ。
鏡のように太陽の日差しを反射させ、木々を映している。水面は静かだが、静止しているわけではない。その中心からこんこんと清水が湧いていて、波が生まれていた。足元に寄せる波は風に揺れながら満ち引きを繰り返している。周囲の草木はすでに水底にあり、泉は一か月の間に随分と森の姿を変えてしまった。
――美しい。
畏怖と同時に抱いてしまった素直な感情からハリスを現実へ引き戻したのは聞きなれた従者の声だった。
「ハリスさま!」
またもハリスに置いて行かれた従者が切らした息を整える。横に並んだ彼は泉を何度か見ているのか、変わらぬものを見つめるような面持ちで驚きも感動もせずに「まったく」とハリスに諦念にも似た愚痴をこぼすだけだった。
「この、泉は……」
ハリスは抱いてはいけない思いと抱き続けている怯えを悟られぬように言葉を探す。
広がり続けているのか。これからも大きくなるのか。国を、民たちを飲み込むことはないか。永遠を壊すものではないのか。
しかし、湧水のごとく頭にあふれかえった質問を従者に伝えることはできなかった。
「あなた、誰?」
突如、背後から女性の声がしたからだ。いや、女性というには幼い声だった。みずみずしくてハリのある少女の声だ。
ハリスは飛び跳ねるように声のほうへ振り返る。
振り返ったハリスは――、一目で恋に落ちた。
今度こそ美しいという感情以外、彼の頭に、心に浮かぶものはなかった。
空を写し取ったコバルトブルーの長い髪が風に舞い、朝露のように透き通った肌が陽を受けて艶めく。すらりとした体躯はしかし女性特有の曲線を秘めていた。淡い水色のワンピースの裾から伸びた足はつま先まで流れるようなしなやかさがある。
対極的に、少女の顔は溌剌とした無邪気さに満ちていた。バラの花弁さながらの柔らかな赤が頬に宿っており、顔全体を明るく見せている。すっきりと高い鼻はシャープな印象を与えた。なにより、海のようなウルトラマリンの双眸がキラキラと輝きを放っている。
その瞳は今、ハリスを捉えている。
「あ、もしかして! あなたがハリスさまね! ね、そうでしょ?」
子供さながらの好奇心と興味、純度百パーセントの笑顔が弾けた。
彼女は両腕にこれでもかと抱えた食べ物や飲み物のことなど忘れたように、ハリスへ握手を求めた。当然ながら手からたくさんの荷物が落ちる。
「わわっ⁉」
少女は荷物のことなどすっかり忘れていたと恥ずかしそうにはにかんでそれらをわたわたと拾う。気づけばハリスも自然と彼女を手伝っていた。
リンゴに手を伸ばし、少女の細い指先にハリスの指先が重なって触れる。
電流が走るようにビリリと体が喜びに震えた。
「っ! すまない!」
咄嗟にハリスが手を引くと、少女はきょとんと首をかしげ、しかしすぐさま満面の笑みを浮かべる。
「ううん、大丈夫。手伝ってくれてありがとう!」
彼女は集めた荷物を今度こそ泉の側に丁寧に置いて、再びハリスに向き合う。
今度こそ自然に手が伸びた。
「初めまして。わたし、アル。この泉の妖精だよ」
アルの天真爛漫な笑みと、触れ合った手のひらから伝わるひんやりと冷たくて滑らかな肌の感触にハリスは今度こそ恋を確信した。
アルの美しさに心を奪われてしまったのだ。
王になって二百年。城から出ることなく他人の命を管理し続け、時折接触する人間からは死を願われて離別するか、死を恐れて泣きつかれるかのどちらかだけ。人との触れ合いは最小限で、感情すらもどこかに忘れてしまいそうになる。
泉の妖精アルとの出会いはそんなハリスの毎日を変えるものだった。




