サムシング・フォー #2-6
気づけば口を開いていた。
「お前にも待ち人がいると聞いた。想い人を待っている、と」
なぜ自分でもそのような話をしたかはわからない。しかし、セシルの気持ちを知りたい、セシルを理解したいという思いがマリックの口から質問の形になって飛び出た。
「辛くはないか?」
セシルを案じる気持ち。それは、今までのマリックにはなかった他人への気遣い。
「ずっと、現れない人を待ち続けるというのは辛くないのか?」
マリックだったらきっと心が折れている。現に、先ほどまでミアとの約束を果たせそうにない自分が情けなかった。ミアと一緒にいられなくなってしまうかもしれないという未来を想像して泣いてしまいそうだった。満月を持って帰ることができなかったと告げた際のミアの落胆した顔を思い浮かべるだけで胸が張り裂けそうになった。
ミアが生きていてもそうなのだ。これでミアがいなくなったらと思うと……。
マリックはゾッとしてセシルからもらったばかりの満月のネックレスをぎゅっと握りしめる。
大丈夫だと言い聞かせ、セシルに目をやった。
想像しただけで身震いしているマリックに対し、セシルは穏やかなまなざしでひたすら想い人を待っている。永遠に。もういなくなってしまった人の帰りを待っている。いつか会えると信じて。
マリックには到底真似できない。
「わたくしには辛いという感情がわかりません」
セシルは静かに答え「しかし」とマリックを見つめる。
ふたりの間にカランと氷の解ける音が響く。
「そのようにおっしゃってくださったのはあなたが初めてです。そして、わたくしはそのことを嬉しく思います。わたくしに心があると信じ、わたくしを案じてくださるあなたさまのような人とはもうずいぶんとお会いできていませんでした」
セシルが誰のことを思ってそう言ったのかはすぐにわかった。
「アンリとはあれから会えたのか?」
訊けば、セシルは少し意外そうな顔を作ってから首を横に振る。
「アンリさんのことを知っているのですね。残念ながら、彼とは別れたきり一度も会っておりません。待っていれば、いつか彼もここへ顔を出すかもしれないとも考えましたが、計算上、彼はもう亡くなっているでしょう」
セシルは冷静に事実を述べた。悲しいという気持ちも、辛いという気持ちも、彼女にはわからない。そのことが彼女の口ぶりから実感できて、マリックのほうが切なく胸を締め付けられる。
彼女はただの機械で、人の気持ちがわからないことは当たり前なのに。
「あなたがおっしゃった待ち人も同じです。計算上、もう生きてはいません」
「だったらどうして……、お前はここで待つんだ?」
「待っていれば、いつか巡り合えるとそう信じているからです」
セシルの混ざりけのないまっすぐな瞳がマリックを貫いた。
偽物でも、作り物でも。信じていれば本物になる。信じることに価値があり、そこに真実が生まれる。
まさに彼女こそ紙の月そのものだ。
彼女を、セシルを何とかしてやりたい。ただ待つだけの人生を変えてやりたい。
ミアに対して幸せにしたいと思う気持ちと同じくらい大きな感情がマリックの中に湧き上がる。アンリがいつかセシルを外に連れ出した時の気持ちと同じだったに違いない。
「セシル」
マリックは覚悟を決めて彼女の名を呼ぶ。
今度こそ自らがすべきことが、ミアが望んだことがはっきりとわかった。
ミアが欲していたのは満月のネックレスなんかじゃない。いや、仮に満月のネックレスを望んでいたのだとしても。
本当に叶えてやりたいことはきっと。
「俺とともに来い。待つだけの人生は終わりだ」
リンゴジュースをひといきに飲み干してマリックはセシルに手を差し出す。
セシルは自らに向けられたマリックの褐色の手をじっと見つめて黙り込んだ。
その間、わずか数秒。マリックの人生の中でもトップを争うほどに長く感じる数秒だった。
そこからの逃避行はあっけないもので。
物語にして語り継ぐにはロマンも何もない。あったのはほんの少しの強行突破だけだ。
セシルは自らの意志でマリックの手を取った。
「外は危険です。ですが……、そうですね、あなたについていくことにしましょう」
どこかで聞いた覚えのあるセリフを口にして。
マリックの誠意が伝わったと言うようにセシルはマリックとともに『PAPER MOON』を模した研究所の一室から外へ出て研究員たちを驚かせた。
しばらく不在にする、役に立てず申し訳ないと人間らしい謝罪を述べた彼女に当然、研究員たちは焦りを見せた。セシルにはまだ聞きたいことがある。研究が止まってしまう。科学技術の進歩が止まる。ひいては近隣諸国、いや、世界中の人々の大きな損失になるとそんな風にマリックとセシルを説得しようとした。セシルをセシルとしてではなく、貴重なオーパーツとして扱う研究員にマリックも辟易としたが、きっぱりとそれら彼女を引き止める言葉を断ち切ったのはやはりセシルだった。
セシルには物語で聞いたように頑固なところがあるらしい。
「申し訳ありませんが、わたくしの人生はわたくしのものです。想い人を待つのには少々飽きてきたところでした。かつて、アンリさんに外の世界へ連れていっていただいたことで、わたくしは自らの記憶を取り戻すことができたというのに、どうしてでしょう、すっかりそのことを忘れておりました。時には旅も必要だと学んだはずなのに、なぜ」
セシルは皮肉交じりに告げ、研ぎ澄まされた冷笑を研究員たちへ向けた。
おそらく彼女を改造した際に記憶回路も彼らが書き替えたのだろう。そのことにも気づいている様子だった。
セシルは彼らに背を向けるとマリックに並ぶ。
マリックをまじまじと観察した後、ふっと柔らかな笑みを向けて歩き出した。おそらくアンリを骨抜きにした笑顔だ。マリックも危うくミアという存在を頭から消し去ってしまうところだった。アンリと違って踏みとどまれたのは、その笑みが作り物だとわかっていたから。それだけだ。
マリックはいよいよセシルとともにダムを後にした。セシルの自由意志である以上、研究員たちも口を挟むことはできなかった。マリックたちを見送る以外になかったのだ。悔しそうに歯噛みしながらも、セシルの第二の人生を尊重するように最後は涙ながらに手を振っていた。
現実は物語のようにロマンチックにはいかないものだと苦笑しつつ、マリックはセシルとともにミアの待つサラハへと帰路につく。
帰りの道中、セシルはサラハに近づくにつれて増えていく砂地を珍しそうに眺めていた。彼女の横顔、その口角はかすかながら上がっている。
そんな彼女の姿を見てマリックは改めて思う。
やはりこれでよかったのだと。
マリックの目も自然と弧を描いた。
――早くミアに会いたい。
ミアの喜ぶ顔を想像して、マリックは遠く蜃気楼の向こうに揺れるサラハの街を見つめた。




