サムシング・フォー #2-3
ミアの要求から一か月。
サラハの国は夏の盛りを過ぎてなお、まだ残暑の厳しい時期を迎えていた。
「王子、施設内に立ち入る許可が取れました」
ダムは近隣諸国の重要なライフラインである。どこかひとつの国が占有しては争いのもとになるという考えのもと、ダムを利用している国々からそれぞれ同じ数だけ人を集め、自治区を組織し管理していた。
この自治区というのが厄介で、人の命を握っているだけに中々の権力を持っている。今回、直接関係がないサラハとはいえ一国の王子が突然ダムの中に入りたい、しかもそこにいるかもわからぬヒューマノイドに会いたいなどと奇怪な依頼をしたことに難色を示すものが多いのも無理はなかった。
前回のように国を丸ごとひとつ買い取って解決するはずもなく、正式な手続きを踏み、各諸国との交易条件の見直しをすること、ダムの管理にサラハも協力をすること、当日の案内にはダムの管理組織団体の人間がつくこと等、その他諸々の細かい条件を承諾してようやく理解を得られたのだった。
許可を得るまでの一か月、みっちりと政治ごとに巻き込まれマリックは疲弊していた。脳の中でもこれまでに使ったことのない部分ばかりを酷使したせいか、誰かに悪態をついたり、理不尽に怒ったりする元気すらなくなっている。今まで自分はなんと無駄なことにエネルギーを割いてきたのだろうかと過去の自分を嘆くほど。もっと早くやるべきこと、やらなければならないことがサラハにはあふれていた。
こうして、ようやくダムに訪れたマリックは眼前の光景に唖然とした。
サラハにも水はある。もともとオアシスを中心にできた国であるし、時折降る雨を貯水しておく池も整備している。それらを利用して国中に循環式水路も構築している。
しかし、ダムは比べ物にならないほどの水量を誇っていた。都市ひとつ水没したと言われても納得の大きさである。
マリックはダムの管理の協力を申し出たことが間違いではなかったと確信した。
オアシスも貯水池も今はまだ水を保っているが、いつ干上がってもおかしくはない。過去にはそうした被害もあったと聞く。だが、このダムはそうした干ばつから守ってくれる。永遠の月の副産物としてサラハの民たちが豊かな水資源を得たことは喜ばしいことだった。
マリックがダムを見つめていると案内人がやってきた。
「お待ちしておりました、マリック・ル・サーラ王子」
赤毛の青年は物語の人物、アンリを思い起こさせた。
マリックがそれを素直に伝えると、彼は笑ってアンリとは無関係だと言う。シュヤの一件があったためマリックは少しの落胆を覚えたが、青年に物語を知っているなんて物知りだと褒められ、すぐにいつもの調子の良さを取り戻していた。
案内されてダムの中に足を踏み入れると、そこはまさしく異界であった。施設は地下に広がっており、時々、コンクリートの一部が丸くくりぬかれて窓のようになっている。嵌め込まれた分厚いアクリルガラスから見えるのは海の中のようで、しかし、そこに生物の姿は見られない。代わりに、灰色の遺跡がどこまでも広がっている。都市だ。
まじまじとそれらを観察するマリックに案内人から声がかかる。
「ダムを管理する者しか知り得ぬ光景であります。それが口伝され、今のような噂に。しかし、物語はすべて事実です。あまりにも現実からかけ離れているので、おとぎ話として扱われているだけで。ダムの管理者たちもここでの生活やここで手にした知識や知見は一切秘匿としておりますので、物語を肯定も否定もしませんが」
なるほど、とマリックはうなずくと同時、ここについてから初めて安堵の息を漏らした。
さすがに今回ばかりはマリックもミアの願いを叶えられるかどうか不安でいっぱいだったのである。水没した都市に行くことなど不可能に等しい。そのうえセシルに出会い、彼女の命とも言える満月のネックレスをもらわねばならないのだ。金と権力だけではどうしようもない壁がいくつもあるように思えてならなかった。
だが、物語が真実であるというならば。
セシルも存在しているということ。今でも想い人を待ち続けているに違いない。
案内されるがままエレベーターに乗りさらに地下へと降下すると、施設は一気に開けた空間となった。多くの本とさまざまな機械が整然と並べられており、モニターや机には数字や文字や図形が並び、ダムの管理者たちはせわしなく働いている。
「ここは……」
「これがダムの本当の姿です」
案内人はどこか自慢げにマリックを見つめた。
「ダムを管理するかたわら、我々は水没した都市とその文明について研究しています。今は滅んでしまいましたが、水没都市の文明は目覚ましい発展を遂げていました。今の我々の英知をはるかに超えたテクノロジーがあったようです。一方で、人の手に余る科学技術は人を殺します。都市が一瞬にして消えてしまったように」
彼らが自治区として頑なにここの管理を一国に任せない理由も、近隣諸国から人々が選ばれる理由も水資源だけではなかった。
現代科学の水準をゆうに超えるオーパーツ。超古代文明。それらこそが真に管理の必要な資源だ。
マリックは背景を理解し、ここでの見聞きしたことは絶対に口外しないと改めて誓う。
私利私欲のために生きると争いが生まれる。争いは命を奪い、そして破滅を呼ぶ。
ほんの数か月前までは自分の機嫌を損ねたものには罰を与えるなど横暴を働いていたが、それももはや過去のこと。今のマリックは当たり前のことを正しく理解していた。
案内人はマリックをつれて本や装置の間を縫って歩く。どうやらマリックの目的の場所は施設の最も奥にあるらしかった。
アルファベットと記号が書かれた飾り気のない扉の前で案内が立ち止まる。まるで物語に出てきた研究所のようだとマリックは扉を眺める。ロックの解除の仕方まで同じだった。
マリックの視線に気づいた青年は照れくさそうにわずかにはにかんだ。
「物語を模しているのです。研究者とはロマンを好むものですから。中はもっとすごいですよ」
扉が開かれた先、目に飛び込んできた光景にマリックは息を呑んだ。
壁に埋め込まれた水槽には熱帯魚が泳いでいる。どこから光が差し込んでいるのか、壁際に並んだ木製の机に水面の影が揺れていた。奥に置かれた蓄音機からは品のよいジャズ・クラシックが。いくつかの観葉植物とランプが落ち着いた彩りを添えている。
そこは話に聞いていた『PAPER MOON』そのものであった。
木製のカウンター越し、いくつもの酒瓶やグラスを背に美しい女性が立っている。
彼女の目がマリックを捉えた。
「いらっしゃいませ」
黒のロングワンピースに白いエプロンを身に纏った女性。黒髪のショートカットボブが肩口で揺れ、涼やかな烏の濡れ羽色をした目元がかすかに弧を描く。
ミアも美しいが、なるほどこれは。少年が一目惚れしてしまったのも無理はないと思えるほどの魅力をその女性は持ち合わせていた。
マリックの好みかと問われれば否だ。しかし、抗いがたい不思議な引力があることは間違いない。
案内人の青年はにこりと微笑んで、
「それでは、僕は外でお待ちしておりますので」
と慣れた様子でカフェアンドバーを去る。
マリックはアンリがそうしたように、緊張を飲み込んでカウンターへと腰を下ろした。




