ペーパームーン #8
大きな球体状の建物――セシルいわく『研究所』は最新鋭の技術を扱うに相応しく、これまで見て来た建屋と違う材質と構造で作られているらしかった。他のビルや住宅が崩壊や風化を余儀なくされたのに対し、研究所は損傷も少なく、おそらく戦争が始まる前の姿のまま残っているのだろうと思えるほどに形を保っていたのである。
セシルは慣れた様子で入り口にあった謎の装置を操作して、扉のロックを解除する。電子音が鳴り響き、客人を招くようにドアが自動で開く。何度かそうした煩わしい手続きを経てようやく本部内に入ったころにはすっかりセシルの動きが鈍くなっていた。
どこへ向かっているのかさっぱりわからないが、彼女にははっきりと目的地が把握できている。アンリはただセシルのバッテリーが一秒でも長くもちますようにと祈りながら、建物の形に沿ってらせん状に伸びた廊下を進むセシルについていくしかない。
聞きたいことや気になることはいくつもあるのに、セシルは会話ができなくなっている。アンリは心細い気持ちすら彼女と共有することができなかった。
代わりに、これまでの彼女との思い出を回顧してやり過ごす。またあんな風に笑いあえたらいいと未来を想像することに集中する。
しかし、目的の場所にはそう簡単にはたどり着けなかった。
どれほど登ってきただろうか。ゆるやかに傾斜している廊下には窓など一切取りついていない。外を見ることも叶わず、ずっと同じ景色の繰り返しだ。回り続けているせいで、距離感もよくわからない。このまま永遠にこれが続いているのかもしれない。アンリがそんな妄想をしてしまうほどには果てがないように思えた。
前を歩くセシルの動きになめらかさが減ったことも、よりアンリの心を急き立てる。
――お願い、どうか。どうか、セシルを助けて。
アンリの願いが届いたのか、ふいにセシルが足を止めた。
アルファベットと番号だけが書かれた扉を見つめ、扉の脇に備え付けられたパネルに目をやる。電子ロック解除装置だ。セシルはこれまでそうしてきたようにパネルへ手を当てる。すっかり耳に馴染んだ電子音が廊下中に響き渡り、扉がふしゅう……と空気を吐き出しながらゆっくりと開いた。
開いた扉の先、部屋の中には透明なカプセルがひとつ鎮座していた。待ちきれないと駆け出して中を見回す。カプセルとその隣に置かれた箱型の装置だけのシンプルな部屋だ。カプセルはちょうど人がひとり入れるほどのサイズだった。機械のことなど詳しくないアンリにもそれがセシルのための充電器だと直感でわかった。
何よりそれを裏付けるものがひとつ、箱型の装置の上に貼られていた。
カプセルに腰かける無表情のセシルとセシルの肩を嬉しそうに抱く男の写真。
「これ……」
アンリはそれを剥がすと興奮混じりに彼女に声をかけた。
「セシル!」
だが、反応がない。
振り返ると、セシルは動きを止めていた。
「……セシル?」
目の前に充電器があるのに彼女はピクリとも動かない。まるで目的地までアンリを案内することが彼女の役目だったとでもいうかのように、扉の前で装置に手をかざしたまま固まっていた。
美しい横顔。綺麗な円弧を描いたまつ毛が伏せられることも、ガラス越しの澄んだ瞳が動くこともない。
もう目前だったのに。
「セシル!」
アンリは彼女の体にすがった。彼女を抱きしめようが、叩こうが、何をしても反応がない。もともとセシルには体温などなかったはずなのに、今まで以上に体が冷たく感じられた。
「セシルってば!」
もうすぐそこじゃないかとアンリは声を荒げる。セシルに聞こえていないと頭でわかってはいても声をかけずにはいられなかった。
「ねえ! セシル!」
アンリは必死にセシルの体を揺らした。機械でできた彼女の体は十三歳の少年が持つには重く、ビクともしない。
次第に涙がこぼれ、手が震えて力も入らなくなった。無力感がアンリの心をむしばみ、体がずるずると地面に吸い込まれる。くずおれ、アンリはセシルの足元で泣きわめくしかできなかった。
せめて、あのカプセルで彼女を眠らせることができたなら。
機械の動かし方などわからないが、きっと今の状況よりはなんとかなったに違いない。
後少しだけバッテリーが持てば。
――違う。ぼくがセシルのことをもっと気にかけていたなら。もっとセシルのことを理解していれば。彼女が機械である事実に、もっと早く向き合っていれば。
なぜ何もできない自分が生き残り、自分にすべてを与えてくれたセシルがこんなことになってしまったのかとアンリは自らを責めた。右腕を力いっぱい振りかざして太ももを殴る。頭を床に打ちつける。頬を強く平手で打って、自らの腕に歯を立てた。
それでも死ねない。
バッテリーが消耗するように、命は急に途切れたりしない。少なくとも、ナイフや銃や鈍器なしに、自分自身の心臓を止める術をアンリは持ち合わせていなかった。
「っ……ふ、う、ううう……うああああああ!」
アンリはまたしても声をあげて泣いた。喉が枯れるまで泣き続け、涙が枯れてもまだ泣き続けた。
どれほど時間が経っただろうか。何秒、何分、何時間。いや、何日かもしれない。肉体的疲労と精神的疲労により極限状態にまで追い込まれたアンリはいよいよ空っぽになった心で、セシルとともに死ぬか、はたまたセシルと別れるかの二択しか自分には残されていないのだと理解した。散々考え続けた結果、そのふたつにひとつしかなかった。
答えなど返ってくるはずもない。わかっているのに、アンリはこれで最後だからと懇願するようにセシルの横顔を見つめる。
最後の瞬間から何ひとつとして変わらない憎らしいほど美しい彼女。
「ねえ、セシル」
涼やかな目元が好きだった。
「セシルはぼくに生きてほしいと思ってる? それとも一緒に死んでもいいかな?」
聞き心地のいい声も。嘘をつかないところも。時折見せる優しさも。
「ねえ、セシル。教えてよ」
彼女はアンリを決して見た目で判断しなかった。アンリとして扱った。奴隷でも、踊り子でも、見世物でも、金でもなくて。
役に立たなくてもそばにいていいと、そう言ってくれたのに。
「セシル、ぼく、セシルのこと大好きだよ。愛してるんだ。セシルがロボットでも、ヒューマノイドでも、なんでも。セシルだから好きになったんだよ」
生きる道を選んでも、死ぬ道を選んでも、最後の言葉だ。
「ずるくてごめんね」
女性が抵抗できないと知っていて口づけをするなんて男として最低だ。でも。
アンリは震える足を精一杯にのばして、これでもかとつま先立ちをして、セシルに顔を近づけた。
――最後だから許してね。
アンリはそっと目を伏せた。
他人に触れることを恐れてきた少年は今、自ら選んで彼女に口づけを落とした。




