ペーパームーン #7
セシルは雨を避けながら歩いていく。初日に向かった鉄塔よりもさらに奥、北の果てにその場所はあるらしい。
アンリは彼女の後を追いながら目的地について尋ねた。
「どんな場所なの?」
「研究所です」
「研究所?」
アンリには聞き馴染みがない。一生縁のなさそうな場所だ。
「この国の科学技術や最先端の機器、あらゆる英知が結集しております。この国の発展は研究所の発展なくしてありえませんでした。わたくしも問題が起こるとそこへ出向いておりました」
「問題?」
「ええ。おそらく今までこのことを忘れていたのは、わたくしが正常だったからです」
「それって、なんだか今は問題が発生してるみたいに聞こえる」
「ええ。発生しております」
冗談のつもりで言ったのに、セシルから真面目な返事をもらったアンリは当然驚きに足を止めた。
「具合、悪いの?」
「いいえ。ただ、エネルギーをかなり消耗したようです。いわゆるバッテリー切れです」
「バッテリー……」
本当に機械のようだ。アンリは思わずセシルの手を取った。雨で肌寒いとはいえ、やはりセシルの手は血の通った人の温度とは思えない。
これまでのセシルの言動が脳内に浮かんでは消えていく。
記憶はないのに情報は持っている。どこにいても正確に場所を把握できる。食事もとらない。好きなものも嫌いなものも設定されている。
心音が聞こえない。
これまで見ないように、考えないようにしてきたことが現実味を帯びてアンリに迫った。
そんなことはありえないと一度や二度、いや、それ以上に一蹴した考えが事実として嫌と言うほどくっきりとした輪郭を表す。
「アンリさん?」
セシルの手を握ったまま固まったアンリを覗き込む彼女の黒い瞳、その奥に動いていたのはカメラレンズそのもので。
「……セシルは」
「はい」
「セシルはロボットなの?」
アンリの知っている言葉で彼女の正体を言い当てると。
「はい。正しくはヒューマノイドですが」
セシルはいつも通りの涼しげな顔で答えた。
「ヒューマ、ノイド……」
「自律式感情学習機能付人工知能搭載型女性モデルロボットと言ってもよいかもしれません。製造番号は……」
「待って」
セシルの手を握るアンリの手に自然と力が入る。
「それって、つまり、セシルは……、セシルは人じゃないってこと?」
「はい。わたくしは機械です」
一縷の望みすら打ち砕かれて、アンリは呆然と目の前の美しい女性型ロボットを見つめた。
人とは思えぬほど完璧な容姿も。少し変わった喋り方も。声も。なにもかも。
作り物だったのだ。
「……嘘……」
「嘘ではありません。本当です」
こぼれ落ちた言葉にすらセシルは丁寧に反応する。それこそ機械であることを証明するような態度だった。
アンリは混乱のさなか、それでも彼女を嫌いになれない自分にも驚いていた。一度彼女を好きだと認めてしまったから。悲しみばかり募るのに憎しみも恐れも抱けない。セシルは機械で、このまま恋心を抱き続けたところで彼女と心を交わすことなどできるはずもないのに。たとえ心を通わせることができたとしても……、彼女の感情はすべて作り物だし偽物だ。思えば思うほど苦しいだけで自分には一切の得もないのに。
初めての恋だった。
思いを伝えることもできていないのに恋することすら許されないと知った。
恋なんてしたくなかった。
なのに。
「……なんで」
呟きはセシルに対する疑問ではなくて。セシルを絶対に嫌うことができないバカな自分への嘲笑だった。
そのことに気づいていないセシルは純粋な疑問と捉えたのだろう。その先にまだ質問が続くと考えているのかアンリの言葉を待っていた。そんな機械らしい反応すらまっさらな子供のようで愛おしく思えるのだからずるい。
セシルを作った人はなぜ彼女をここまで精巧な人間のように作ったのだろう。
研究所に行けばそれもわかるのだろうか。
「そんなの……、行くしかないじゃん」
アンリの独り言にセシルはやはり首を傾げる。が、すぐに目的を思い出したと言わんばかりにうなずいて旅を再開した。
「はい。行きましょう」
アンリたちは手を繋いだまま鉄塔へ向かって歩く。鉄塔を超えてもなお歩いた。昼過ぎになると雨があがって、道を選ばなくてよいぶん進みも速くなった。水たまりを蹴って歩くアンリと、水たまりを避けるセシル。ふたりを雲間から夕陽が照らし、やがてそれも薄暗くなって、時間はいつもと変わらず平等に夜を連れてくる。
建物を見つけたのは本格的に暗くなる直前だった。
突如、銀の大きな球体がビルとビルの間から顔を覗かせた。同時、セシルの歩調が少しだけ速まった。
「……あれです」
セシルの目は、もはや研究所だけを捉えていた。アンリと握ったままの手のことなど気にもかけていなかった。
アンリもその瞬間だけはセシルと手を繋いでいることを忘れた。
なにかを渇望するようなセシルの横顔、その胸元に輝くネックレスが赤く光っているのが目に留まったから。
「セシル、それ……」
アンリは繋いでいた手を離してしまった。その手でセシルの下げている満月を指さす。
セシルは気づいていて黙っていたようだ。
「……まだ間に合います」
アンリの視線から隠すように満月を握りしめると、セシルはささやく。
「省エネモードに切り替えます。省エネモードの最中は緊急時以外の会話はできません。ご了承を」
いよいよセシルのバッテリーが少なくなっているらしい。
バッテリーが切れたら彼女はどうなってしまうのだろう。
考えて――、アンリは背中に走った悪寒を振り払うように「わかった」とセシルに返す。
今、最優先にすべきことはセシルを目的地へ連れていくこと。それだけだった。




