ペーパームーン #6
その晩、雨は降り続き、アンリとセシルは店に帰れないまま外で一夜を明かすことになった。
アンリとしてはずぶ濡れで帰ってもよかったのだが、セシルがそれを嫌がった。あまり濡れるのは困ると頑として譲らなかったのだ。彼女が自分の主張を押し通すのは珍しく、アンリはそこまで言うならと彼女に従った。アンリも別に濡れるのが好きなわけではないし、食料調達も済んでいるので急ぐ必要はなかった。
セシルは自らのエプロンを少し破いて火種にし、たき火を起こしてくれた。どこからか書類のようなものを探してきて、それを追加で燃やして火を焚き続ける。人が生活していた痕跡があちらこちらに残っているおかげで一日程度なら野宿に困らない。
燃えた紙は灰となり、曇天に吸い込まれやがては街の一部に溶けた。
火を囲み、アンリとセシルは止まない雨を眺めていた。こんな時、ふたりがすることは決まっている。
お互いを知ること。
「嫌いなものもわからないって言ったけど、セシルはもしかしたら雨が嫌いなのかもしれないね」
いつも通りアンリから話題を振れば、セシルは雨から彼へ視線を移す。
「そうかもしれません。雨や水はあまり得意ではないように思います。近づいてはいけないと設定されているようです」
「やっぱり、それも設定なんだ」
「ええ。わたくしの言動はすべて設定されたものです」
「誰に?」
「……わかりません」
もしかしたら、セシルもアンリのように奴隷だった過去があるのだろうか。いや、奴隷でなくても例えば金持ちに雇われていたとか、愛玩のように扱われていたのかもしれない。アンリが踊り子として生きていたように、セシルもその身を誰かのために切り売りしていたのかも。その時のことを忘れたくて、記憶喪失になったのだとしたら。
セシルの切なげな横顔からアンリは彼女の過去を想像し、初めて思い出さないほうが幸せかもしれないと思った。
アンリが提案した手前、今更そんなことを言うのかと呆れられそうだが、一度でもそう思ってしまったら黙っているのは気が引けた。
「ねえ、セシル」
「はい」
「もしも……、もしもだよ。記憶が戻るとしてさ。その記憶が、……えっと、つまり、セシルの過去にあったことがさ、ものすごく辛いものだったとしたらどうする? それでも、思い出したいと思う?」
アンリの問いかけに、セシルはしばらく黙り込んだ。だが、答えが決まるとその双眸には強い意志が宿った。
「今は思い出したいと強く願っています。アンリさんが来るまで、わたくしは自らの記憶が欠損していることになんの疑問も抱いておりませんでした。ただ、誰かを待っているだけ。そんな日々を当たり前のように感じていたのです。ですが、記憶の欠落を認めた以上、なんらかの対処をすべきだとあなたから学びました」
「そりゃ……、言い出したのはぼくだけど……。でも、それが嫌なことかもしれないんだよ。忘れてたほうがいいってこともあるでしょ?」
躊躇するアンリに対し、セシルは今度こそ「いいえ」と間髪入れず答える。
「過去があるから、わたくしは今ここにいるのです」
だから過去を知らずに生きていくことは自身のルールに反する。
そのようなことをセシルは滔々と語った。アンリには難しい理屈のように思え、理解できたとは言い難いが、セシルが記憶探しに前向きになってくれているなら喜ばしい。セシルが慰めてくれたように、自分が役に立っているという安心感もアンリの情緒を安定させた。辛い過去も肯定して生きるセシルはアンリにとっての道しるべになる。
「さあ、そろそろ眠りましょう。今日は色々ありましたからきっとお疲れでしょう」
セシルが会話を切り上げる。言われてみれば一日歩きどおしだった。アンリも素直にうなずいて壁に背を預ける。
眠りにつく直前、向かい合ったセシルの胸元、輝く満月が目についた。いつもは青く発光しているそれは今、黄色に灯っている。まさに満月らしい光だ。
半分ほど夢に誘われていたアンリの頭では、それが現実かどうか定かではなかった。濡れたら色が変わる物質で作られているのかもしれない。暗さや気温で変化するとか。そんな考えをいくつか浮かべたところで睡魔に襲われた。
翌朝になっても、雨は降り続いていた。
アンリは珍しくセシルより早く目覚め、彼女の寝顔を好きなだけ眺めることができた。セシルが寝坊をするのは初めてだ。寝坊と言っても、起きる時間を決めていたわけでもなければ、何か急ぎの用事があるわけでもないので問題はないのだが。伏せられたまつ毛は作り物のように長く弓なりに弧を描いていて、ピクリとも動かない。死んでいるのではと思うほど静かに目を閉じて休んでいるセシルは正真正銘人形のようだ。
「……セシル」
好きだよと唇を重ねようと近づいたところで、呼びかけられた彼女が目を覚ました。ゆっくりとまぶたが持ち上げられ、ぱっちりとした黒目と視線がぶつかる。
セシルはアンリが何を言おうとしていたかなど気にした様子もなく「すみません、眠りすぎてしまいました」と寝起きとは思えぬクリアな声で謝罪した。
「べ、別に大丈夫だよ! それに、ほら。まだ、雨も降ってるし、今朝も店には帰れないかも」
アンリは告白とキスを無かったことにしようとごまかす。功を奏したか、はたまたセシルがまったく気づいていないのか。彼女は外を見やって「そうですね」と淡泊に答えた。
勝手に気まずさを覚えたアンリが黙っていると、セシルが口を開く。
「そういえば、思い出したことがあります」
「え?」
「昨晩、メモリが起動しました。どうやらわたくしはそこに行ったほうがよいようです」
セシルは立ち上がってエプロンやワンピースについた砂埃を払う。早速目的の場所へ向かうらしい。
「ついてきていただけますか?」
手を差し出され、アンリは迷いなくその手を取った。
セシルの記憶を探す旅は七日目にしてついに成果を上げようとしていた。




