ペーパームーン #5
結局、鉄塔にはセシルの記憶にまつわるようなものはなく、アンリたちはなんの収穫も得られないまま『PAPER MOON』へと戻った。
それから、何日間か同じようにアンリはセシルを連れて外を歩きまわったが、やはり収穫は得られなかった。
気づけば、セシルとの共同生活も五日が過ぎていた。
いや、まだ五日目だ。落ち込む必要はない。焦る必要だってない。アンリはセシルが作ってくれたご飯を食べながら、水槽の手入れをしているセシルの姿を見つめる。
セシルはどこか浮世離れした雰囲気がある。表情の変化は乏しく、何を考えているかわからないことも多い。基本的に口数も少ないうえ、自ら話題を振ることはしない。慎ましやかに、穏やかに毎日同じ繰り返しの中で生きているような人だった。
――どうしてこんなにもセシルのことが気になるのだろう。
出会ったばかりなのに、彼女を見ていると放っておけないような気持ちになる。年は明らかにセシルのほうが上に見えるし、生活能力も情報も彼女のほうが持っている。なのに、彼女はどこか肝心なところが抜けているように思えた。
淑やかな見た目とは裏腹に頑固なところもあった。特に彼女は食事姿を見せなかった。いつ食事をとっているのか尋ねても「必要ない」と遠慮するばかり。もしかすると、食料が底をつきかけていてアンリに譲っているのかもしれない。そう考えてキッチンに忍び込んだこともあるが、食糧庫にはまだ何日分か余裕があるようには見えた。とはいえ、いつまでも暮らしていけるような量ではないから、やはり遠慮しているのかもしれないが。
六日目にしてようやくアンリは今までと方針を変えることを提案した。
「ねえ、セシル。今日は食料を探しに行ってみようよ」
「食べ物ですか?」
「うん。実はこないだ、ちょっとだけ食糧庫を覗いちゃったんだ。あんまり量も残ってなさそうだったから。セシルの記憶探しはもちろん続けるけど、そのついでだと思えばいいでしょ?」
「それはかまいませんが。食料の場所なら目星がつきます」
「そうなの?」
「ええ。戦争の被害にあっていなければ、ですが」
初日には外を出ることを怖がっていたセシルもさすがに慣れたようで「ついてきてください」とアンリを先導する。
果たして、セシルの道案内は完璧だった。
大型のスーパーマーケット、中規模の商店、個人経営のカフェやレストラン。それらの場所を把握しているらしい。店らしき建物を発見すると、彼女はためらいなく割れた窓ガラスや自動扉から店内へ入り荒れ放題の店内に散らばった食料を集める。期限を確認して問題のなさそうなものだけを抱えて戻ってくる。
「これだけあれば足りますか?」
ドサリと並べられた保存食の数々にアンリは目を見張り、決してお腹が空いていたわけじゃないんだけど、と思いながらもうなずく他なかった。すぐに食べられそうなものを見つけて、
「どうせなら外で食べよう。セシルもいる?」
と倒れた電柱に腰を預ける。セシルは「いいえ」と首を振って、アンリの横に並んで座った。
乾いたパンをかじりながら、アンリは分厚い雲に覆われた空を仰いだ。街には雨の匂いが漂っていて、今夜は降るだろうなと思う。砂漠地帯にいることが多かったアンリには新鮮だった雨にもすっかり慣れつつある。
「セシルってさ、天気も当てられる?」
「いいえ。天気を予測することはできません。わたくしが知っているのは過去の情報のみです」
「そうなんだ。それじゃあ、歌を歌ったり、踊ったりするのは?」
「お望みとあらば。ですが、踊りはアンリさんのほうがお上手でしょう」
「そうかな?」
「ええ。以前見せていただいた舞いはとても美しかったですよ」
セシルから直球のほめ言葉をもらい、アンリは思わず照れる。この時ばかりは踊り子でよかったと心の底から思った。
恩を返したいと思っているのに、アンリはセシルから与えてもらってばかりだ。
「セシルも何かちょっとでも思い出せればいいのに」
自分も彼女の役に立ちたいと願う気持ちが思わず漏れてやるせなくなった。彼女に関してはなんの手がかりもない。誰かに聞きたくても人はいないし、彼女自身の話を聞いても当たり障りのない回答しか出てこない。大切なことは忘れていて答えられない。ないもの尽くしだ。無力感が自身の存在価値をどこまでも奈落へ突き落とす。
アンリが唇を噛みしめていると、ふいに頬に湿った感覚があった。
「雨だ」
暗雲からぽたぽたと水滴が降り注ぐ。アンリとセシルは立ち上がり、近くの建物に駆け込んだ。屋根の下に入って体を拭いているうちに本格的な土砂降りとなって、これではしばらく帰れそうにないと互いに顔を見合わせた。
店の方向を目指しつつ、屋根伝いに倒壊した建物の中を歩いていく。ところどころで雨漏りが発生しており、ポチャン、ポチャンと水音が響いていた。
世界で本当にふたりきり。それが肌に感じられるほど静けさが辺りに満ちていた。
「……セシルはさ、寂しくなったり、落ち込んじゃったりすることってある?」
アンリが訊くと、隣を歩いていたセシルが足を止める。その顔は心配するようにアンリを覗き込む。
「寂しいや悲しいという感情はあまりわかりません。わたくしはそうした人間の心情を処理することや、感情の変化を察する能力が乏しいのです。ですが、理解はできます。胸が空っぽになるような感覚のことですね。そして、そうした問いを投げかける人は、その人自身が寂しさを感じていることも多いということも知っています」
セシルはゆっくりとアンリに近づいて、そっとアンリの濡れた頬に手を寄せた。体温などはじめからなかったように彼女の手はヒヤリと冷たい。だが、優しく触れられてアンリはそれを拒めなかった。誰かに触られることはアンリにとってとても怖いことで、本来ならば払いのけるべき手だったのに。
今はセシルの手が離れないで欲しいと願っている。
「……ぼくは、セシルの役に立ってる?」
「ええ。わたくしのためにアンリさんは毎日こうして出かけてくださっております」
「ぼく、セシルの側にいてもいい?」
「もちろんです」
「なんの役にも立たなくても?」
「ええ」
セシルはぎこちなく微笑んだ。へたくそな笑いかただった。
だが、アンリはそれだけで胸がいっぱいになって泣いてしまいそうになる。
そんなアンリをセシルは優しく胸に引き寄せた。突如顔に触れた柔らかな感触に全身を電流が駆け巡る。涙は完全に引っ込み、アンリは目を瞬かせた。アンリの頭上に、雨音に混ざったセシルの声が降る。それはいつもよりもゆったりと歌うような響きを持っていた。
「わたくしはアンリさんを見ていると、時々こうして無性にあなたを守りたいと思うのです。これは今までにはない症状です」
「そうなの?」
「はい。あなたは、あなたと出会う前のわたくしを知りません。ですから、なんの役にも立っていないと思われるのでしょう。しかし、わたくしはたしかに変化しております。わかりづらいかもしれませんが、少しずつ、わたくしは変わっているのです。ですから、どうぞご安心を」
セシルの滑らかな手がアンリの背中をトントンと優しくさする。
ああ、やはり。与えられてばかりだ。彼女に恩返しがしたいのに。
アンリは祈るようにそっと目を閉じる。
彼女の腕の中は不思議なほど静かだった。




