ペーパームーン #3
セシルは記憶を失っていた。
覚えているのは自らがセシルという名であることと、このカフェアンドバー『PAPER MOON』で働いていたこと。
そして。
「誰かを待っている、ということも覚えております」
「待ってるって……、誰かと約束したの?」
「わかりません。けれど、そのような予感がするのです」
セシルの細長い指が静かに胸元のネックレスに触れる。柔らかな青色に発光している満月は彼女にとってのお守りのようにも見えた。
その後の質問――たとえば、生まれや年齢、いつごろから記憶がないのか――については一切覚えていないと言ってセシルは口を閉じた。嘘や冗談を言っているようには見えず、本当に記憶喪失なのだとアンリはここでようやく彼女の身に起きたことを認めた。
不躾すぎるほどに質問をぶつけたアンリに対し、セシルはアンリのことを聞かなかった。なぜ血まみれなのか。どこから来たのか。年齢も、生まれも、職業も。店員だから客のことには深入りしないようにしているのかもしれない。しかし、手当ては厚く、アンリの足にはセシルの手で包帯が巻かれた。
アンリはセシルの配慮に落ち着かず、自分ばかりが相手の情報を握ってしまった、施されたという不平等感にさいなまれた。若さゆえ、あるいはセシルに恋心を抱いたがゆえに、アンリは自分自身にも興味関心を向けてもらいたいと自ら過去を明かした。いや、話をしたのはもっと単純な理由だったかもしれない。これまでにあった自分の悲しみや辛さを慰めてもらいたかった。その気持ちがなかったと言えば嘘になる。
「ぼくは生まれてすぐ両親に売られたんだって。気づいた時には奴隷にされていて、いろんな折檻も受けた。でも、たまたま見た目がよかったからすぐに買い手がついたんだよ。旅の一座で踊り子になったんだ」
セシルはアンリの話をじっと聞いていた。基本は真面目な顔で。時々、ほんの少し眉根を寄せて。
「毎日毎日、酒場の舞台で踊って。その瞬間だけは誰かに必要とされてるんだって満たされた。でも、昨日……」
アンリはそこで口をつぐんだ。一年も二年も前のことなら他人事のように話すことができる。だが、昨晩のことは。さすがのアンリも傷が癒えておらず、ましてや女性に話してよい内容なのかと言われれば微妙で、言葉にするのはためらわれた。
チラとセシルを盗み見ると、彼女は大きな瞳にアンリを映したまま続きを待っている。感情の読み取れない表情だった。
アンリは彼女を悲しませたくなくて得意の愛想笑いを浮かべる。「なんでもない」と話題を閉ざした。
「ちょっと色々あって家出してきたんだ。途中で靴もボロボロになっちゃって。だから、こんな身なりでごめんなさい」
謝罪した途端、セシルの瞳が悲しげに揺れた。遅れて、アンリの胸に突きささるような痛みがやってくる。
「なぜ謝るのですか?」
セシルの声音には今までとは違うたしかな情があった。心配と慈愛をちょうど半分ずつ混ぜたらきっとこんな声になるだろう。母も姉も知らないけれど、いたらこんな風に思ってもらえただろうかと考えてしまうような声に。
「アンリさんが謝るようなことではありません。とてもお辛かったのでしょう。ここは安全です。もしも行くところがないのでしたら、どうぞここにいていただいてかまいません」
セシルはアンリを元気づけるように手を取り、目を細めた。綺麗な三日月がふたつ、彼女の顔に浮かびあがる。
ツンと鼻の奥が傷んでアンリの視界がぼやけた。泣きたくなんてなかったのに張りつめていた緊張の糸が切れたせいか涙が止まらなくなる。拭っても拭っても両目の端から雫がこぼれ落ちてカウンターの木目を色濃くさせた。
その晩、セシルは宣言通りアンリを店に泊めてくれた。
セシルもこの店で寝泊まりしているらしく、カウンターの奥には簡単な居住空間が広がっている。キッチンと風呂、トイレがあり、後はベッドが一台。飾り気のない部屋はセシルによく合っていた。
アンリはセシルが用意してくれた晩ご飯を食べ、シャワーで汚れを落とし、彼女が用意してくれた服に着替えた。シャツもズボンも大人の男性が着るサイズで小柄なアンリには大きかった。もしやセシルの彼氏のものではなかろうかとアンリはささやかな不満を抱いたが、彼女には記憶がないので確認する術もない。セシルの着ていたエプロンドレスを渡されなかっただけマシだと自分に言い聞かせ、シャツの袖とズボンの裾をそれぞれまくり上げた。
さていよいよ寝るぞということになり、アンリが店のソファを借りようとしたところで、セシルに手を引かれた。
「疲れているでしょう。わたくしはどこでも眠れますから。アンリさんはベッドを使ってください」
「いや、それはさすがにダメだよ。ぼくは平気だから」
「いいえ。今は平気なだけです。じきにわかります。傷は夜になると痛むんです」
セシルがあまりにも真剣な顔でそう言うものだからアンリは拒むに拒めず、結局ベッドまで拝借することとなった。
布団をすっぽりとかぶせられ、大人しくなったアンリをセシルは満足そうに見つめる。
「おやすみなさい」
セシルは手慣れた様子で明かりを落とすと部屋を出ていった。
毎晩ここで彼女が寝ていると思うと気が気じゃない。最初はそう思っていたアンリも、次第に眠気に襲われた。セシルの言う通り、深夜に傷口が傷んで目が覚めるまではぐっすり眠ったし、目を覚ました後もまたしばらくして痛みが引くと横になっていた。
思えば、一座に入ってから満足に眠った夜はなかった。
アンリはこれまでの睡眠不足を取り戻すように眠り、翌朝目を覚まして誓った。
――セシルに恩返しをしよう。




