ペーパームーン #2
時が止まったかと思った。
アンリはまさか人がいるなんて、しかもそれがこれまでの人生で出会った中で最も容姿の整った女性だなんて想像もしていなかった。
「あ……」
まさにこぼれ出たという表現に相応しい音がひとつ。アンリの口から発せられると同時、
「いらっしゃいませ」
女はアンリの突然の訪問になんの感慨も見せず常套句を述べた。ニコリとも笑わぬ彼女の接客はしかし自然で、腰を抜かしてしまったアンリのほうが恥ずかしさを覚える。
「よろしければカウンターにどうぞ」
黒曜石をはめこんだような瞳で促され、アンリはおずおずと高いカウンター席によじ登るように腰を下ろした。足が浮いて落ち着かないが、今はそれどころではない。
「お飲み物は何になさいますか?」
ボロボロのアンリの姿を真正面から捉えても表情筋を微動だにさせず、店員は慣れた手つきでメニューを少年に差し出す。アルコールの入ったものからジュースまで。品揃えは悪くない。
メニューを眺めたアンリは昨晩逃げ出してから何も口にしていないことを思い出した。喉が途端に乾きを覚え、
「それじゃあ……、これ」
金を持っていないことなどすっかり忘れてリンゴのジュースを選ぶ。
女性はやはり微笑すら見せず「少々お待ちください」と機械的にメニューを下げた。カウンターの下からリンゴとナイフを取り出し準備を始める。どうやらここでは飲み物を一から加工するらしい。
彼女がリンゴを切り始めたところでアンリは手持無沙汰になり、店内を見回した。
落ち着いた店内でひときわ目を引くのが店の壁にはめ込まれた水槽だ。何種類もの色鮮やかな魚が泳ぎまわっており、壁際の机には水面の影が落ちていた。店の奥に置かれた蓄音機からジャズ・クラシックが流れており、いくつかの観葉植物とガラスランプが店内に彩りを添えている。
ほとんどが灰色に染まっていた外の世界とはまるで違う。ここだけ空間が切り離されているみたいだとアンリは思う。
次いで、少年の視線は目の前の女性へと移った。肩の上で切りそろえられた黒髪は艶があり、リンゴを切る手の動きに合わせて軽やかに揺れている。長いまつげから覗く瞳も夜空の色だ。肌はやわらかな乳白色で丸みを帯びた頬が涼やかな彼女の印象をやわらげている。アンリよりも随分と年上に見えるがおそらく二十代後半か三十代だろう。一座にいた女性陣のような華やかさもなく、化粧すら施していないのに店員の造形美は完璧だった。
給仕係であることを示す黒のロングワンピースに白いエプロンも彼女のためだけに仕立てられたようにマッチしている。胸元に下げられているネックレスは青くぼんやりと光っており、よく見れば満月の形になっていた。制服とともに店から支給されたものだろうか。
と、目の前に黄金色に輝くグラスが差し出された。いつの間にか注文の品ができていたらしい。
「どうぞ」
「あ、ありがとう……」
彼女を見ていたことが露呈し、途端に恥ずかしくなる。アンリはグラスを両手で掴み、ごまかすように一気に飲み干した。
リンゴ特有の青っぽい爽やかな酸味が鼻から抜け、搾りたての果汁は舌のうえでまったりと甘く広がった。
「おいしい」
思わず声が漏れ出る。
初めて女性がかすかな笑みを浮かべた。
彼女の繊細な表情の変化とは対照的に、アンリは雷に打たれたような衝撃を味わう。せっかくのリンゴジュースの味もたちまち吹き飛んでしまった。バクバクと心臓が早鐘を鳴らす。自然と顔が火照る。
アンリは初めて恋をした。
十三歳。それまで自らを商品にして金を生むことしか知らなかった。信じられるものは身一つだけ。それすらも昨晩のうちに断たれてしまった。
そんなアンリの前に現れた女神こそ彼女だったのだ。
「お気に召していただいたようでよかったです。おかわりはいりますか?」
女は言いながらすでに次のリンゴを準備している。よっぽど喉が渇いていたと思われたのかもしれない。間違ってはいないが、急に自分の行動が幼稚に思えてアンリは俯いた。いらないと言えば嘘になるが、欲しいと言うのもみっともないような。少年らしい葛藤の末、アンリはグラスをぐっと彼女のほうへ押し出すことで意思表示する。
彼女はそれをおかわりと判断したらしく、再びリンゴを切り始めた。
「あの……」
手元へ視線を落としている女にアンリはようやく話しかけることができた。
「はい?」
女性は手を止め、顔を上げる。当たり前だが、目が合うとやはりドキリとした。アンリはしどろもどろになりながらも、なんとか尋ねたいことのひとつを口にする。
「お姉さんの名前って」
口にしてから、アンリはかつて酒場でアンリを口説いてきた男と同じセリフを口にしてしまったことを悔いた。
だが、目の前の女性はそのことになんの嫌悪感も示さず、それどころかわずかに目を細めて懐かしむように答えた。
「セシルです」
彼女に似合いの美しい名前だ。
名字はありませんと続けられた言葉もよかった。アンリにも名字はない。それだけで親近感がわく。
「セシル、さん」
「セシルでよいですよ。みな、わたくしをそう呼んでおりました」
「じゃあ……、セシル……」
言いながら喉の奥がつかえるような、胸がむず痒いような心地に襲われ、アンリはたまらなくなる。それと同時に次なる疑念が湧いた。
「みんなって?」
外を歩いてきたアンリにはこの街がもぬけの殻に見えた。それとも、たまたま誰とも遭遇しなかっただけでセシルのような生き残りがいるのだろうか。地下で暮らす風習があるとか。だとすれば、客の来訪に驚かなかったセシルの態度にも納得がいく。
だが、セシルの回答はアンリの予想を裏切った。
「思い出せません。ただ、そう呼ばれていたことだけが頭に残っているのです」
セシルの瞳がアンリの奥、水槽の中で遊泳する熱帯魚を追いかける。
遠く、過去に思いを馳せる仕草は彼女の儚げな優美さを引き立てるだけだった。




