ペーパームーン #1
大陸を北西に進み、砂漠を超えて海を渡ると土地はまったく違った姿を見せる。
空は分厚い雲に覆われ、一年のほとんどが曇っているか雨に降られている。大地はアスファルトやコンクリートに覆われて世界はグレー一色だ。気温も低く、四季こそあれど常に肌寒い。夏になってようやく長袖一枚で過ごせる程度となれば、砂漠の民が馴染むには時間のかかる土地柄だと言えよう。
そこにはひときわ目立つ貯水池がある。湖と変わらぬ大きさがあり、山のようにそびえたつ壁はダムの深さを表している。
近隣の国々の重要なライフラインとなっているダムについて、いつからかまことしやかにこんな噂が流れていた。
かつて、そこにはとある国があったというのだ。ダムの底に大きな都市が沈んでいると。
その国は発達した文明と技術を有しており、いくつもの発明品が生まれた場所。流布されている噂によるとそのせいで国が滅びてしまったらしい。なんとも皮肉な話だ。さらに詳しく尋ねれば、西と東が分裂し、内戦が始まってしまったという話もある。
だが、この物語の焦点はそこではない。国を消し去るほどの大戦についてはまた別の機会に話すとして、今回は国がまだ水底に沈む前、戦火の消えた灰の世界で出会った少年と女性の話をしよう。
少年の名はアンリ。本名も生まれもわからない。奴隷商に売られ、旅の一座に買われた踊り子だ。
彼の特徴は身体的なものにすべて由来していた。赤く波打つ髪。金の目。小麦色の肌。少年はどれをとっても一級品だった。少女と見間違うほどの愛らしさを秘めた顔つき、十三歳になってもなお線の細さが目立つ華奢な体格。初めて見る者に性別を間違えられることは日常茶飯事で、アンリが舞い踊る姿には多くの人々が魅了され、性的嗜好を歪められた。
齢十三にして壮絶な人生をたどってきたアンリは一般的な同年代の子らに比べて達観している。擦れているというより、飾りや芸術品のような『物』として自らを消費されることに慣れ切っていた。神から与えられたものは見た目だけで、見世物としての価値がなくなってしまえば簡単に殺されてしまうと理解していた。
だから、踊り子でいることも、旅の一座での暮らしにも不満を抱いたことはなかった。
ある夜が訪れるまでは。
その日、アンリは珍しく客の機嫌を損ねて座長のテントに呼び出されていた。踊り子としてのアンリに陶酔していた客から体を触られたのだ。客は出番を終え舞台から降りたアンリを待ち伏せていた。見世物にされることには慣れていたが、誰かに体を許したことはない。むしろアンリは誰かに触れられることを相当に忌避していた。奴隷であったころ、散々に体を痛めつけられてトラウマを抱えたのだ。だから、客の男に腕を掴まれた時、アンリが大声を出して騒ぎたて、一心不乱に相手を殴り続けたことは仕方のないできごとだった。正当防衛だ。
しかし、大きな騒動となったうえ、大事な客に手を出したとなれば、旅の一座としてそれ以上街に留まることはできない。旅の一座はもともと流浪の民の集団だ。踊りや歌といった芸で住人を楽しませる代わりに街の一角を借りているようなもの。そんなよそ者が土地に住む人間に危害を加えては当然悪評が立つ。なにより興行に影響が出て、たちどころに食っていけなくなる。
アンリのしたことが一座に大打撃を与えたともなれば、さすがの座長も黙ってはいられない。もとより座長には、奴隷商より買い付けた少しばかり顔のよい少年というだけで、アンリに対して愛着などなかった。これまでは従順に金を集めてくる優秀な商売道具であったから食事や寝床を与えていただけで、問題を起こすなら厄介なお荷物だ。
座長は呼びつけたアンリに跪くよう促し、次いで自らはギイギイと音を立てる折り畳み椅子に腰かけたまま靴を脱ぎ散らかして素足をアンリの前へと突き出した。
「ほら」
アンリは意味がわからず、タコや魚の目ができた汚い足裏を見つめる。座長はずいとさらに足を出して
「舐めろ」
とアンリに命令を下した。
アンリが人に触られることに慣れていないどころか毛嫌いしているとわかって、克服させるための粗治療を実行したのだ。性的なサービスを覚えさせれば、アンリはさらに金を稼ぐ道具になると打算もあった。特にアンリはそのあどけなさの中に宿る妖艶さが売りだ。アンリを気に入る客には嗜虐趣味を持つ者も多い。座長は頭の中でアンリが拙い舌先で自らの足をむしゃぶる様を想像し、自分もそちら側かもしれないと馬鹿なことを考える。
が、いつもは大人しいアンリは微塵も座長の指示に従う様子を見せない。
「早くしろ!」
座長はたまらず声を荒げ、アンリの愛らしい顔に一発蹴りを入れようと足を振る。と、アンリはそれを素早く腕でガードし、そのまま足に手を滑らせた。甲を両手で包むと、観念したようにいじらしい態度で座長を見上げる。これでいいのかと視線で問い、反応を窺うとアンリは座長の足にゆっくり顔を近づけた。
それでいい。満足げな座長はしかし、数秒後に悲鳴をあげた。
アンリが座長の親指を食いちぎらんと歯を立てたのだ。
「っ!」
たまらず座長は足を引っ込める。その瞬間を狙って、アンリはテントから逃げ出した。
その夜のことをアンリはよく覚えている。
俊敏さを活かして踊り子の衣装のまま走れるだけ走り、やがて風に舞う煌びやかな衣服が邪魔になると装飾を外し、さらに軽くなった体でどこまでも暗闇を必死に駆けた。追っては途中で巻いた。というより、アンリを連れ戻す労力やその後のことを考えると彼を捕まえることに利がないと思ったのだろう。どうせいつかは殺すはずだった駒だ。ひとりやふたり逃げたところでまた新しい者を買えばいい。そんな考えが透けて見えた。一晩もするとアンリを追ってくる足音はすっかり消えていた。
それでも、街を抜けて深い樹海に入り込んでも、木々や枝葉で足が傷だらけになっても。アンリは興奮状態で走って、走って、走って。走り抜けた。
行く当てなどない。奴隷の暮らしと旅の一座での暮らししか知らない。生きていくための金もなく、知恵もなかった。衝動的に逃げ出したことを後悔しそうにもなったが、戻れば殺されるのは目に見えていた。帰る場所などアンリにはない。
もはやアンリにとって一座から逃げ出しただけでは済まなくなくなっている。運命そのものから逃れようとしていた。
どうか。誰か。ぼくを助けて。
アンリが頼れるものは頭上に瞬く星々だけ。そのひとつひとつに祈りを込めて走った先。
森を抜けて少年がたどり着いたのは荒廃した大都市だった。
かつての内戦によりすべてが灰と化した国。生きるものの気配は一切なく、身を隠すにはうってつけの場所だ。
その中でアンリの目を引いたのは高くそびえたつ鉄塔でも巨大なビルでもなかった。
ジジジ……と音を立てて明滅する蛍光色のネオンサイン看板。満月を模したイラストの上に『PAPER MOON』と白い文字が浮かぶ。
周囲を警戒しながら近づくと、看板の脇には地下へと続く階段があった。どうやら階段の先に取り付けられている扉が店の入り口らしい。
アンリは風がしのげそうだという理由だけで、その店をしばらくの拠点として借りることに決めた。血まみれの足を引きずってなんとか階段を降り、木製の重たい扉を押し開ける。
カラン――、荒れ果てた都市に不釣り合いな軽いベルの音が鳴る。
そこでアンリは出会った。
カウンター越し、無表情に彼を見つめていたのはまるで人形のように美しく精巧な女性だった。




