サムシング・フォー #1-1
サラハは砂漠に湧き出た泉を中心としてできた国である。
砂漠の中心にありながら東西南北の大きな国々の交易路として栄えてきた。
その昔、サラハは国々を渡り歩く旅商人たちが休むためのオアシスであったが、そこに定住するものが現れ始め発展したのである。
今、そのサラハを統べるのはサーラの一族だ。交易や観光で得た金銀財宝を肥やしに成り上がり、国家の繁栄とともに王権は十三代にわたって続いている。
周囲に国がないため侵略に怯えることも争いが起こることもない。周囲を砂に囲われ行く当てのない民たちは当然反逆を企てることもない。オアシスに湧く水を国中に引いたことでサラハ全土にはいつだって最低限の食べ物や飲み物があり、緑も育つ。となれば、誰しも刺激はないが穏やかな暮らしを送ることが可能だ。砂漠という厳しい環境の中でもみな平穏を当たり前に享受して生きている。
それは次期国王と名高い王子、マリック・ル・サーラも同じであった。
生まれながらにして選ばれしもの。サラハの民であることを示す褐色の肌に、王家を象徴する群青の髪。見るものを虜にする碧い瞳は、サラハでは決して見ることのできない海を思わせる。整った目鼻立ちに均整のとれた体つき。甘い声色を兼ねそろえたマリックは、王や王女はもちろんのこと、周囲の大人たちから甘やかされて育ってきた。兄弟もおらず、親戚に年の近い子供も生まれなかったため、年々その状況に拍車がかかった。外の世界を知らず、すべてを意のままにできた彼は傲慢で傍若無人。気に食わないことがあれば腹を立て、騒ぎ、時には殺さぬ程度に制裁を加えることもあった。
マリックは満たされた生活にどこか不満や退屈を感じていたのかもしれない。
そんな彼の人生を変えるできごとが起きたのは、サラハに長い長い夏が訪れた日のこと。
マリックの興味を引きつけたのは、とある旅商人の噂だった。
サラハは年に何万という旅商人や商隊が行きかう国だ。だから、ただの旅商人など珍しくもない。つまり、まことしやかであれど王城にまで名が届く時点で特別な商人だと証明されている。
旅商人はミア・シファといった。サラハでは珍しい異国情緒ある響きを含んだ名だ。
マリックはその名を耳にした時、生まれて初めて魂が震えるような高揚を味わった。懐かしさと慕情に心がふわりと浮き上がる感覚と稲妻に打たれたような衝撃。名前だけで恋に落ちるだなんて聞いたこともないが、マリックはたしかにそのような運命めいたものを感じ取った。
聞くところによると、どうやらミアはサラハ以外の国でも有名な旅商人らしい。懐かしさを覚えたのはどこかで聞き及んだことがあったからかもしれない。マリックはそう考え、一度は思いをとどめようともした。……したのだが、それでも結局、一度感じた胸の高鳴りを抑えることはできなかった。
初恋などと淡い感情を大人たちに知られることに青年らしい羞恥を抱いたマリックは、ある日、従者も連れずにこっそりと城を抜け出した。
顔と身分だけはしっかりと隠したが、溢れる高貴さとそれゆえに滲む他人への侮蔑はサラハの民をそこはかとなく彼から遠ざけた。そのおかげか、図らずも王子さまの散歩はごった返す街に似合わない快適さを彼に与え、それがまたマリックの心を思いあがらせた。
さまざまな国の人で賑わい活気に満ちたサラハ。夏の日差しを和らげる緑、砂岩の水路に満ちる透き通った水、清掃の行き届いたモスクに、花々や絨毯や果物で色彩にあふれる街並み。バザールの入り口や露店、屋台から漂う食欲をそそる匂い。
素晴らしい景観に囲まれ、ひとりで街を歩くだけでマリックは自分の強さを感じ、誇らしさすら覚える。見よ、俺はもはや守られているだけの子供ではないと。自分はこの国に愛され生まれてきた男なのだと。この国は我が一族代々が築きあげた宝であると。
そんな中、彼は大きな群衆を見つけて足を止めた。数多とある露天商。中でもひときわ人だかりのできている店。それこそがミアの店に違いない。予感とも確信ともつかぬ思いにかられ、マリックの足は自然と急いた。
マリックは意を決して群衆に近づき、生まれて初めて人間に揉まれるという経験をしながらも、なんとかその気位の高さと負けず嫌いな性格でもって店主の前へと躍り出る。不遜甚だしい態度で何人かを無理やりに押しのけたのも功を奏したのかもしれない。
ボロボロになった姿ですらも美貌でもって愛らしさに変えてみせるマリックは、しかし、店主を目の前にしてハクハクと餌を待つ魚のように口を数度上下させただけであった。
マリックよりいくつか年下であろうか。少女が大人へと成長するちょうどその間にだけ潜む特有の扇情を纏った店主は、宝石のように玲瓏なアメジスト色の瞳にマリックを映してたおやかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ、お客さま。お探しものはなんですか?」
王宮で聞く鈴の音よりも涼やかで、鳥のさえずりよりも澄んだ声。歌うような抑揚とリズムが耳にするりと言葉を届ける。
肩下まで伸ばされた絹のようなサラサラとした髪は陽に当たると柔らかに発光する薄桃色なのに、影が差すと少し青みを帯びて見える。日焼けを知らぬ真珠の肌。細くしなやかに伸びた腕、指。彼女が身に着けている衣服も装飾品も高価ではないが品があり、彼女を引き立てていた。
王宮勤めの煌びやかな女性陣を見て育ったマリックでさえ息を呑む美少女こそ、かの高名な旅商人、ミア・シファに違いなかった。
「お客さま?」
ミアは上目遣いにマリックを覗く。紫の瞳には無邪気と純真無垢、そして少しの興味が混ざり合っている。
この旅商人は、サラハの王子であるマリック・ル・サーラのことをなにひとつ知らないのだとわかって、彼女に自分という存在が知られていないことが悔しく、苦しくて。
瞬間、マリックはミアに自らを知らしめなければ気がすまなくなってしまった。
「探しものは」
ございませんでしたか? と心配そうに続く彼女の声を遮り、マリックは自らを隠していたフードを剥いだ。
周囲からのざわめきも、初恋に照れくささを覚えていた自分も、気にならなかった。
「お前だ。お前を探しに来た、ミア・シファ」
マリックは返事も待たずにミアの手を掴む。
「俺は次期国王、マリック・ル・サーラ。お前を俺の嫁にする」




