番外編 兄の様子がおかしい件
兄さんの様子がおかしい。
あの憎き檜山の店にちょっと寄って帰ってきてからというもの、常にニコニコエヘエヘとしていて機嫌がいい。いや、普段も優しい自慢の兄なのだが、それとは少し違うのだ。
例えば、棚の角に足の小指をぶつけてもまだ笑っている。大学の課題があるからと部屋にこもれば、そこから「ふひひひ」と笑いがこぼれてくる。挙げ句の果てに、俺が夕食で兄さんの唐揚げをこっそり取っても聖母の如く微笑まれただけで何も言われなかったのである(普段なら正座させられてしっかり叱られている)。
……何か、あったな……。
しかも、他でもない檜山と……。
「――で、それを相談したくて僕の家に来たと?」
「うん」
「うんじゃあるか! 今何時だと思ってんだ!」
夜の九時である。大和君はイライラした仕草で俺の侵入経路である窓を閉めた後、腰に手を当ててこちらに向き直った。
「つーかその内容なら電話でもいいだろ。なんでわざわざここまで来たんだよ」
「顔が見たくて」
「嘘つけ」
「それにバレないように来たし」
「バレたら困るって分かってんじゃねぇか! お前マジいい加減に……!」
「大和ー? なんかうるさいけどどしたー?」
朗らかな声がドアの外から聞こえ、大和はギョッと飛び上がる。そして俺の体を持ち上げるや否や、ベッドの中へと突っ込んだ。続いてドタドタと部屋を出ていき、「なんでもないよ、母さん。電話してるだけ」と弁解する。少し揉めていたようだったが、一応事なきを得たらしい。戻ってきた大和君が、雑な仕草で俺をベッドから蹴落とした。
「帰れ」
「無理、まだ兄さんの件が解決してない」
「帰って慎太郎さんに直接聞け。以上」
「だって教えてくれなかったし」
「教えてくれなかったなら、ますます僕らが邪推しちゃダメだろ。いくら筋道立った話でも、結局噂話以上のもんにはなんねぇんだし。陰口みたいで嫌だよ僕」
正論だ。やっぱり大和君は常識的である。
とはいっても、まだ胸の中はもやもやした煙が渦巻いたままだ。謎はスパッと解決しておきたい俺としては、ここで「はい、了解」とすんなり帰れるはずもなく。
ぶすくれた俺は、大和君のベッドを占拠した。
「……」
……大和君の顔を見れば、多少この気持ちも晴れるかと思ったんだけどな。そんなことを思っていたら、彼はため息をついて俺の隣に腰を下ろしてきた。
「……慎太郎さんはさ、ずっと檜山さんのことが好きだったわけじゃん」
そして、天井を見上げたまま彼は“噂話”を始めた。
「お前だって気づいてるだろ。順当に考えりゃ、その想いが叶ったとかそんなんじゃねぇの」
「嫌だ」
「嫌て」
「嫌に決まってるだろ。だって、兄さんは昔檜山にすげぇ傷つけられてんだぞ」
――檜山が、何も言わずに俺たちの前からいなくなった時。普段は穏やかな兄が、毎日毎日泣いて日が暮れるまで檜山を探していた。自分はまだ幼かったけど、兄があの男のせいで酷く傷ついていたということだけは理解していた。
それがどうしても許せなかった。子供だから話しても分からないとでも思ったか? みくびられたもんだ。何でもいいから伝えてくれりゃ、兄だってあれほど泣くことも無かったろうに。
だというのに、今更姿を見せて「これからも仲良くしよう」は虫が良すぎると思ったのだ。万が一二人が恋仲にまでなったとしたら、また奴が兄を傷つける前に完全犯罪でもって闇に葬ろうとすら考えていた。
「……つかさは、昔から檜山さんがライバルだったもんなぁ」
けれどそんな俺の激情をよそに、大和君はのんびりと言う。
「覚えてる? 檜山さんが出した謎々をつかさが全然解けなかった時のこと」
「ああ……最終的に俺がブチ切れて檜山に殴りかかったやつ? 五歳ぐらいだっけか」
「確かあれからだよな。つかさが檜山さんより賢くなりたいからって、めちゃくちゃ勉強し始めたの」
「そ、そうだっけ」
「うん。つかさは元々頭いい方だったと思うけど、大きなきっかけはそれじゃねぇかな」
こちらを向いた大和君が、当時のことを思い出したのかふふふと笑う。慣れたとは思っていても、あまりにも色っぽい笑みにドキリとした。
「……なぁ、つかさ。慎太郎さんは、お前が思ってるよりずっと大丈夫だと思うよ」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。檜山さんとのことも、傷ついたことも。あの人一見すごく優しそうで繊細に見えるけど、多分めちゃくちゃ図太いよ」
「……そうかな」
「そう。だから、慎太郎さんが檜山さんばかり見て、弟のお前が疎かになるとかそういうことは無いと思う」
「お、俺は別にそこを気にしてるわけじゃ……」
「まあ、だとしても……」と目の前の大和君は、俺の言葉を遮って優しく目を細めた。
「安心しろ。僕だけは、つかさのそばにいるから」
「……」
その幼さの残る表情に、ぎゅっと胸が苦しくなる。一方でモヤモヤしていたものはすっかり溶けてしまっていて、もしかして自分はこの言葉を聞きに来たかったんじゃないかとふと腑に落ちた。
しばらく、彼の顔を見ていた。見惚れていた、という表現の方が正しいかもしれない。
けれど時間は有限である。名残惜しさを感じながらも、俺はベッドから身を起こした。
「……ありがとう、大和君。やっぱり君に相談して良かった。お陰で方針が決まったよ」
「方針?」
「うん」
さて、これからまた木をつたって二階にある彼の自宅から地上へと降りねばならない。俺は軽くストレッチをしながら窓へと向かい、言った。
「――俺は、兄さんの幸せを第一にする。もしそこに檜山がいたとしても……まあ……二歩半ぐらいまでなら、譲ってやってもいい」
「おお」
「でもまだ付き合うとかは無理。受け入れらんない。だから檜山が兄さんにふさわしいかどうかは今後とも監視するし、その過程で一度でも兄さんを傷つけようもんなら地獄の果てまで追って全部の歯を麻酔無しで抜こうと思う」
「……おおう」
「どう?」
「偉い、つかさにしてはめちゃくちゃ譲歩したな」
「だろ」
ふふんと鼻を鳴らして、窓を開ける。夜風が頬にあたって心地よい。けれど身を乗り出す前に振り返り、冗談半分で一つ年下の幼馴染に向かって投げキッスをかましてやった。
が、残念なことに返ってきたのは大変なしかめっ面だった。
「キモッ」
「ひどいな。とにかく今日はありがとう。また明日ね、大和君」
「おう、気をつけてな。もうこの時間には来るなよ」
「そこは檜山による」
そう言い捨てて、窓の外に身を投げる。難無く木の枝に捕まり、取り付けていたロープでスルスルと下に降りていった。
地面から見上げた窓からは、大和君が顔を出して片手を上げてくれている。それに手を振って返しながら、「まるでロミオとジュリエットだ」と思ったものの、同時に「あ、作品に例えるとか檜山の思考と一緒じゃん」と思い至ってしまった。なのでとっととかき消し、そそくさと大好きな兄のいる家へと急いだのである。




