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現世堂の奇書鑑定  作者: 長埜 恵
第6章 奇書たる人
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10 また、あなたに

「――執着」


 アンデルセン童話集は閉じられた。真っ青な顔をした檜山を前に、帆沼は言葉を落とす。


「檜山と帆沼の共通点。相手の人生を侵し、食い尽くすほどの感情」


 時計の音が聞こえる。カチ、カチ、カチ、カチ。急かすでもなく、追い詰めるでもなく。


「……そう。そんなものの為に、僕はたとえ一瞬だとしても慎太郎君の人生を奪うことを考えた」


 檜山は、こめかみを押さえながら自嘲気味に笑った。


「怖気立つ話じゃない? 彼の幸せを第一に願っていたと思っていたら、このザマだ」

「……そこまで自分を責める必要は無いでしょう。あなたは、考えこそすれ俺のように行動に移したりはしなかった」

「それでも、僕の中にバケモノがいる事実に変わりはない」


 長い指が、檜山自身の胸元辺りまで降ろされる。


「近くにいたら、触れたくなる。自分のものにしたくなる。けれど、これはバケモノの方の願望だから抑えなきゃいけない。

 僕は、慎太郎君の見た檜山正樹でありたかった。優しくて、面倒見が良くて、頼りになるお兄さん。彼の理想とする檜山正樹であることが、自分がこの世界で生きる上での正しい指針だと思ったからだ。

 ……だから、自分が彼を害する可能性に気づいてしまった以上、一緒にいることはできなかった」

「……。それで、あなたはこの現世堂に来たんですね」

「うん。どこか住み込みで働きたいと祖父を説得して、彼のツテで紹介してもらえたのがここだった。そうしてしばらくは当時の店主さんと一緒に暮らしてたんだけと、ある日コロッと亡くなられてさ。

 入れ替わりでこの店を継いだあとは、ずっと慎太郎君の望んだ檜山正樹の姿でいられるよう生きてきた」

「……結果は?」

「どうだろ。あまりうまくはできなかったかもなぁ」


 檜山は寂しそうに苦笑した。その表情がやるせなくて、帆沼は開いた紐綴じの本に視線を落とす。


「……じゃあ、俺が好きになった檜山サンは、慎太郎の目に映っていた檜山サンだったんですね」

「そうとも言える」

「……」

「しかし、そう考えると君の執着した恋は哀れなものだ。失った兄の代わりにあてがったはみたものの、当の相手は誰かの理想の皮を被った空っぽの男。

 ……空虚な代替品。それが、君の目の前にいる人間の正体だ」

「……」

「どう? 僕に対しての諦めはついた?」

「……あんまり」


 「でも」と帆沼は付け加える。


「あなたが……俺と似ていると言った理由。それは、少し分かった気がします」

「そうか」

「……俺、全然檜山サンのことを知らなかったんですね。何もかも調べ上げて、推測して。俺は、ずっと自分が檜山サンの一番の理解者だと思っていました」

「そういうもんだよ。僕だって、慎太郎君に諭されるまでは君がバケモノに見えてたし」

「そ、そうですか」

「そうだよ」

「……」


 沈黙が落ちる。その中で、帆沼は厚い前髪の下から掬うようにして檜山を見た。

 酷い火傷痕。陽の光が透けるような白髪。一見ギョッとするような風貌なのに、その笑みはどこまでも柔らかい。

 悲しそうだったり、愛おしそうだったり、寂しそうだったり。見る人によって全然違う表情になるのは、彼がその全てを内包しているからだろうか。

 ――ああ、そうだ。俺は、確かにこの人に……。


「……檜山サン」

「ん?」


 帆沼は、本の最後の頁に手をかけた。


「さきほどあなたは、自身を俺の兄の代替品と言いましたね」

「うん、言った」

「けれど、それは少し違います。確かにあの時の俺は、喪失した兄の存在を埋めるために必死になっていました。ですが……あなたを兄の代わりとして見たことは、一度も、ない」


 うまく息が吸えなくて、言葉が途切れる。心臓が痛み、冷や汗が出る。

 それでも帆沼は、檜山に伝えたい声を絞り出した。


「俺は、あなたに救われたんです。兄にではなく、あなたに。……あなたこそが、あの日絶望の中にいた俺に寄り添い、生きる世界を見せてくれました。

 たとえあなたが、自分を空っぽだと言おうとも。その在り方が、他の誰かによって作られたものだったとしても――」


 帆沼の前髪から目が覗く。真正面から、檜山を映した左目が。


「――俺はあの日、確かに檜山正樹に恋をしたんです」


 檜山の瞳が、揺れた。

 ――そこにあったのは、帆沼呉一の真摯だった。ただ、彼の中にあった感情をそのまま写した言葉。そのあまりにも直線的で純粋な感情に、檜山は息を止まってしまっていた。


「……ですが、俺は罪を犯しました」


 そして二人にしか聞こえない声で、帆沼は続ける。


「現実を直視することをやめ、自分で作り上げた世界に閉じこもり、人を罪へと導いた。

 ……今の俺に、あなたを愛する資格はありません。罪を償わなければならないのは当然のこと、あなたの言ったようにこの感情は歪んでしまっているのでしょう。

 ……それでも、もし、いつか……」


 ここで帆沼は、ためらうように一度下を向いた。だがすぐに顔を上げ、檜山を見つめる。


「いつか……俺が、外の世界で罪を償えるようになったら。また、あなたに会いに現世堂ここを訪ねても構いませんか」

「……ああ、勿論」


 檜山は、微笑んだ。


「いつでもおいで。僕は、ずっとこの場所にいる」

「……!」


 ホッとした帆沼が、檜山につられて口元を緩ませる。残った左目が少しだけ潤んだが、もう涙は零れ落ちなかった。

 互いが互いを己の世界に収め、笑い合う。その優しげな時間は、まるで恋人同士のそれにも似ていただろうか。

 ――それから、どれぐらいそうしていたか。突然、まどろみから覚めるように檜山が口を開いた。


「まあ、もっとも」


 頬杖をつき、彼は悪戯っぽく言う。


「それで、僕が君の想いに応えられるかはまた別の話なんだけどね」

「え、そこはその時に結ばれるのがセオリーじゃないんスか?」


 てっきり両想いになったと思っていた帆沼である。だが檜山は容赦無く首を横に振った。


「虫が良過ぎるだろ。現実を見ろ」

「嘘でしょ。俺告白が通ったと思って喜んでたのに」

「僕にも都合というものがあるから」

「慎太郎のことですか?」

「……」

「……ふん、いいですよ。俺だって、これから考える時間はたくさんありますからね。刑務所で思い直した結果、あなたから奪う側の立場になるかもしれませんし」

「おい待て。それ僕が狙われる以上に望ましくないな」

「俺としては、別に三人でもつれてもいいんですが?」

「良くない。それは慎太郎君の教育上、大変よろしくない」

「教育上って点ではあなたも大概アウトでしょうに」

「否定はしないけどギリ耐えてるから」

「一つ屋根の下に住まわせてる時点で全然線引きできてないと思いますよ?」


 ――同じ目線、同じ場所で二人は言葉を投げ合う。どこまで本気なのかしれない、単なる軽口を。

 そうやって他愛のない話をしている間、ふと会話が途切れる瞬間があった。その、たった数秒の間に。

 帆沼の手が動き、本の背表紙に添えられる。本を読み終わった時の名残惜しさと、読む前とは違って見える世界へ再び踏み出すことへの躊躇い。それらを携えて、帆沼の目が少し切なげに細まった。


 けれど、それだけだった。


 軽い音を立てて、呆気なく一冊の本が閉じられる。そうして本は脇へ寄せられ、帆沼はまた新しい言葉を交わすべく檜山へ身を乗り出す。

 ――現世堂のある日にて。本に囲まれた二人の青年は、まるで長年の友であったかのように楽しげに言葉を交わしていた。

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