7 とある家族との話
「けれどその前に、檜山サンにお返ししなければならないものがあります」
帆沼は自身の鞄を引き寄せ、中から一冊の本を取り出す。その装丁を一目見るなり、檜山は目を丸くした。
「それ……例のアンデルセン童話?」
「はい」
「やっぱり君が持ってたのか。随分探したんだぞ」
帆沼が見せたのは、かつて檜山が古い表紙を元に製本し、自身で翻訳をつけた童話集だった。檜山はそれを受け取ると、ぐるりと見回す。
「とはいえ、状態は良さそうだね。大切に持っていてくれてありがとう」
「当然です。借り物なんですから」
「それでもだよ。……これは僕にとって、かけがえのない本だ」
そう言うと、檜山は愛おしそうに表紙に描かれた人魚姫を撫でた。まるで恋人に再会したかのような優しい目に、帆沼の心は少しかき乱される。
「でも……そうだね。君の物語を語る際に『天の国に向かう人』を使ったように、形式的に僕も本を使わねばならない」
檜山は、アンデルセン童話集を自身の正面に置いた。
それから右手を乗せ、切なげに眼を細める。
「……それでは、始めよう」
静かで、よく通る声で。
「とある男の昔話を」
「当時の檜山正樹は小学生だった。しかしカルト教団に洗脳された両親からの長きにわたる虐待、かつその両親の自死を目の当たりにしたことで、彼の精神は深く傷ついていた」
開いた童話集の頁には、美しい書体で『親指姫』と書かれている。
「両親の虐待から助け出されたのを機に、檜山は祖父と暮らすようになっていた。けれど彼の心は閉ざされたままで、誰とも関わろうとせずに引きこもる日々が続いていた。祖父は真っ当な人で、傷ついた孫をどうにかしてやろうと苦心していたんだけどね。
そんなある日、近くに住んでいた知人夫妻に子供が産まれたことを祖父は知った。
もしかしたら、子供と触れ合えば孫の心も溶けるかもしれない。そう思った祖父は、藁にもすがる思いで檜山を連れてその赤ちゃんに会いに行った」
一枚めくり、彼はある一文を人差し指で指す。それは、チューリップから親指姫が生まれた場面だった。
「――そこで見た光景を、檜山は一生忘れないだろう。真っ白で柔らかな布にくるまれた赤ちゃんが、すやすやと寝息を立てて眠っている。母親に抱かれ、父親に優しく見つめられながら」
当時のことを思い出したのか、檜山の表情が柔らかくなった。
「まるで美しい絵を見ているようだった。赤ちゃんが泣けばオロオロとする父親がいて、笑えば手を叩いて喜ぶ母親がいる。そんな当たり前と一笑に付されるような家族のあり方が、檜山には衝撃的だった。
上っ面な愛の言葉を与える親も、家族の為にと焼けた鉄を押し付けてくる親もいない。ただ、子供が健やかであるように。そんな両親の願いを一身に浴びる赤ちゃんが、檜山にはとても羨ましく思えた。
……どうして、そこにいるのは自分じゃないのだろうと。そう自問自答したぐらいに」
「……」
「けれど、彼は既に両親を失っている。全ては終わってしまっていて、理想の親を求めたところで最早どうにもならない。
それに、彼には自分を心配してくれる祖父もいたしね。心に穴があることを知れたなら、他のもので埋められる。
だから、そのまま祖父と帰ろうとしたんだけど」
ふいに言葉を区切る。彼の顔には、照れ臭そうな笑みが浮かんでいた。
「檜山は、赤ちゃんのお母さんに呼び止められた。よかったら、また会いに来てやってくれと。
もちろん最初こそ言葉通りに受け取らず、愛想のいい返事をしただけだったんだけどね。数日後、赤ちゃんのお母さんから『迷惑じゃなければ明日来て手を貸してほしい』と連絡があった」
「……お祖父さんの差し金ですか」
「今にして思えばそうだろうな。まあ当時の檜山は学校も不登校状態だったし、時間も余ってたんだよ。
そしてその連絡を機に、檜山は時々その家族を訪ねるようになった。時には赤ちゃんのお世話をしたり、お母さんと話したり、お父さんの手伝いをしたり、ご夫婦の喧嘩の仲裁に入ったり……」
ここで、檜山は一息ついた。
「――そうして気づいたら、檜山はベビーシッターとしてその家に雇われていた」
「急展開スね」
「給金もちゃんと出たよ」
「労働基準法違反じゃないですか」
「だから他言無用と言っただろ」
「ああ、そういう?」
「でも、そうなったこと自体は檜山も嫌じゃなかった。ご両親は優しかったし、誰かと関わる時間は檜山自身も欲していた。それに……」
檜山の目に、穏やかな色が宿る。
「赤ちゃんの――慎太郎の存在は、とても愛おしかった。おもいきり泣き、怒り、笑い、今の瞬間を精一杯に生きている。そんなエネルギーに満ち溢れた存在なのに、とても脆くてか弱い生き物。
不思議だったのは、その子を世話している内に檜山に初めての感情が芽生えたことだ。――どうか、この子が誰からも傷つけられることの無いように。幸せに満ちた日々を歩めるように。当時の檜山は、いつのまにか他人であるはずの慎太郎を、心底大切に思えるようになっていた」
「……」
「ベビーシッターをするようになって数年後、弟のつかさも生まれた。面倒を見る子は増えたけど、彼らやその両親に会う時間は檜山にとってやはり幸せそものものだった。
両親と自分が生きてこの子達を愛している限り、彼らの人生は決して孤独にならない。そうやって他者に愛情を与えられる自分になれたことが、檜山には本当に嬉しかった。
……普通に生きていたら失ったままのはずだったものを、彼らは手を引いて檜山に見せてくれた。多少大袈裟な表現を許してくれるなら、それは檜山にとって初めて出会った光そのものだったんだ」
しかし、ここで檜山の顔に影が落ちる。童話集の頁が、音も無くめくられた。
「――けれど、いくら憧れたって同一のものにはなれやしない。親指姫への気持ちを押し殺して、飛び去ったツバメのように。太陽に憧れたイカロスが、近づき過ぎた為に翼を燃やされ落とされたように。
その家族の生きる場所と檜山の生きる場所は、決定的に違っていた」
檜山の指がなぞるのは、親指姫を背に乗せて飛ぶツバメ。
「その事実を檜山が痛烈に知ったのは、十年前のある日。彼は、自分でさえ忘れていた呪いを、突然喉元に突きつけられた」




