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現世堂の奇書鑑定  作者: 長埜 恵
第6章 奇書たる人
79/99

5 でも

 二人はしばらくの間、黙したままだった。けれど、店の外から聞こえた空き缶の転がる音に、ハッと檜山は我に返る。


「……」


 時計を見る。規則的に刻む針は、彼の予想したよりは進んでいなかった。


「帆沼君」


 檜山の呼びかけに、帆沼はのろのろと頭を上げる。その顔色はお世辞にも良いとは言えず、檜山は繋いだ彼との手に力を込めた。


「続けよう」

「……はい」


 しかし、やめることはできない。他でもない帆沼呉一自身が、歪んだ物語を終わらせることを望んだのだから。

 檜山は、長く話せるよう深く息を吸い込んだ。


「鵜路恒男と麩美虎子、そして第三の事件の加害者である紫戸太郎を唆した帆沼呉一は、粟野敬之と堂尾洋を殺させ、更には慎太郎の弟であるつかさを殺そうとした」

「……」

「……いや、唆しただけではない。彼は、実質的に犯罪に加担したのだ。

 第二の事件では、麩美の代わりにダリアの花を調達した。監視カメラに映ることは折り込み済みだったのだろう。帆沼は、あえて体格が隠れる服装や顔を隠せる格好をしていた。怪しい見た目には違いないが、麩美ではないことだけは彼女のアリバイが証明する。決定的ではないが、これで捜査が撹乱させられたのは間違いない」


 帆沼は、唇を引き結んだ。


「加えて、第三の事件で紫戸宅を訪れた黒コートの人物。あれは、恐らく帆沼の共犯者である戸田恵介だろう。事前に紫戸に近づいていた帆沼は、完全犯罪を望む紫戸に手引書であるVICTIMSを戸田を介して渡した。当時、手のひらを返したように紫戸が檜山に本を売らなくなった理由がそれだ。犯罪遂行には、あの本が必須だったからね。

 ……この戸田のように、帆沼は彼の計画に協力する者を多数従えていた」

「……ええ。数年をかけて、帆沼は目的の為に必要な人間を本を通して己の世界へと導き、取り込んでいました。それは一見すればサロンのようなものですが、実質は……洗脳された組織と呼んでも、差し支えないものだったでしょう」

「ああ。そしてこれには、戸田のほか地下施設にいた複数の医者、ボディガード達も該当する。逮捕された彼らは、皆一様に捜査に協力的だというのに、誰も帆沼呉一を責める人はいなかったらしい」

「……」

「まあ、第三の加害者である紫戸は例外だったようだけど」

「……そうですね。彼は、慎太郎を檜山から引き離す為だけに急遽用意された登場人物キャラクターです。取り込む時間は無かったので、逮捕されてしまえばむしろ帆沼に対する反感の方が勝つでしょう」


 ここで、檜山の着る服の幅広い袖口がカウンターを滑る。頁がめくられたのだ。


「ところで、一読者として気になることがあるんだけど」

「……どうぞ」

「何故、帆沼呉一はつかさに危害を加えたのだろう。彼は計画の要である慎太郎の弟だ。強い反感を買うことは目に見えていたろうに」


 この檜山の疑問に、帆沼はまたしばらく口をつぐんだ。だが檜山に軽く手の甲をつねられ、渋々答えを出す。


「それは……あれです。帆沼は、慎太郎に拒絶されるなんて夢にも思ってなかったからです」

「ほう」

「彼は強く信じていました。慎太郎は他の誰より帆沼を選択し、愛すると。……よく、自分を愛するように他者を愛せと言うでしょう。帆沼と慎太郎は心が通じ合った一つの人間なのだから、弟を死なせたとて必要だったと分かれば必ず許される。そう当時の帆沼は考えていたのです」

「……当時の帆沼、ね」


 意味深な言葉の繰り返しに、帆沼は気まずそうに肩を縮めた。


「……だけど、実際の慎太郎は、帆沼と一つになることを拒んだ」


 だが、檜山は躊躇いなく頁をめくる。そしてその進行を、帆沼も受け入れた。


「はい。何故なら慎太郎は、自分は他の誰でもない一個の人間だったからです。だから帆沼呉一とは同じになれない。ただ肉体が拒否反応を起こして死ぬだけだと、慎太郎はそう言いました」

「……うん」

「けれど、彼はその上で、友人として帆沼の側にいたいと言ったんです。……その言葉に、俺はいよいよ分からなくなりました。何故、彼はまだ俺のそばにいようとするのか? 彼は拒絶したのに。俺に殺されたくないはずなのに。もしくは俺にすり寄ることで助かろうとしたのか? いや、そのつもりならあの時檜山サンと逃げていたはずだ。ならばどうして? なんで……」

「……」

「……言葉の裏が――慎太郎の真意が見えなくなった俺は、混乱しました。そうして結局、慎太郎を殺しきれないまま、檜山サンが来てしまったんです」

「……そうか」

「俺は、咄嗟に逃げ出しました。逃げた所で捕まるだろうとか、その時はとても考えられなくて。とにかく俺は、俺を混乱させるあの場所からいなくなりたかった。でも、檜山サンの声に振り返ったら……この本が、目に入ったんです」


 そう言いながら、帆沼は紐綴じの本をさする。

 ――帆沼の語りはとっくに主観になっているというのに、檜山はそれを咎めない。むしろ頷き、先を促した。


「だから、俺は現世堂に来ました。……ずっと俺の本を持っていてくれた檜山サンが、会いに来いと言ってくれた。どこよりも、ここが行くべき場所だと思ったんです」

「……うん」

「そして檜山サンは、俺が苦しんでいることを見抜いた。そればかりか、この本を辿って俺の世界を読み直すことで俺を正そうとしてくれました。

 ……今なら、分かります。あの時の慎太郎は、心の底から俺に本当のことを言ってくれていたんだと。俺なんかには勿体無いぐらいの言葉を、彼から貰っていたのだと」

「……」

「……ここに来る前と、今。俺は、全然違う世界を見ようとしています。きっとこれが慎太郎の見ている世界で、檜山サンが導こうとしてくれた場所で、俺も望んだ姿なのでしょう。……でも……」


 もはや本は、最後の一頁を残すばかりとなっている。しかしうつむいた帆沼は、震える声で言った。


「……ごめん、なさい」


 帆沼の指が、ラストシーンの行をなぞる。それは、死んだ兄の死体を背負った主人公が、天国の入り口にたどり着いた場面だった。


「俺……この世界から出て行くのが……怖い、です……」


 帆沼を見つめる檜山の目が、痛ましげに細まった。

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