4 人とは、
押し付けがましくもなく、さりとて無関心というわけでもなく。
「……第一の加害者である鵜路さんの御母堂は、早くに旦那様を亡くされ女手一つで彼を育ててきた」
差し詰め物語でもそらんじるかのように、檜山は言葉を紡いでいた。
「その中で、三度の結婚やご両親との絶縁など、言い尽くせぬほどの困難があったそうだ。しかし、それも全て息子である鵜路恒男さんが健康で生きてさえいれば帳消しになると仰っていたよ。
『人を幸せにした分だけ、自分に幸せが返ってくる』。そんな座右の銘を持つ彼女は多くの人に慕われたものの、困っている人を見捨てることができない人が良すぎる一面もあった。被害者である粟野敬之さんもまた、その内の一人だったろう。
粟野さんは、かなり見栄っ張りな所があった人でね。大口を叩くわ、知人を招いては大盤振る舞いをするわで、他者からの評価としては二分されていた感じかな。けれど、自身の子供を病気で亡くしてからは匿名で児童発達支援センターに寄付をしたりするなど、慈善家としての一面もあった。
無論、そんな生活をしていては暮らしもカツカツになる。そんな彼を見かねて、幼馴染だった鵜路さんの御母堂は頻繁にお金を貸していたようだ」
「……だけど、鵜路さんの母親が要介護状態になり、彼自身もリストラされた時」
語られる物語に、帆沼が口を挟む。
「粟野は訪ねてきた鵜路さんを手酷く追い返し、あろうことか借金の一銭も返そうとしなかったんです」
「……見栄っ張りのくせに、匿名で寄付をするような人だよ。果たして粟野さんの本性はどういう人間で、この時何を考えていたのか」
「……」
「さあ、粟野敬之という人物の気持ちになって答えてごらん」
まるで国語教師のようなことを言い、檜山は微笑んだ。帆沼はしばらく考えていたが、やがてそっと厚い前髪の下の目を伏せる。
「……すいません。わかりません」
「じゃ、ヒントを言おう。その時期の粟野さんは、かなり無理をして店にある本を叩き売っていた」
「……本を?」
「粟野さんは、僕と同業者だからね。当時の彼が、古本屋を畳むのかという勢いで本を売り払っているという情報は聞いていた。……さて、ここまで言えば、粟野さんが何をしようとしていたか粗方察しがついたんじゃないかな」
「……」
「殺された直後の粟野さんの自宅からは、いつも金銭的に余裕の無い彼からするとありえない額の大金が発見された。鵜路さんの御母堂は、彼の訃報を聞いた瞬間泣き崩れたそうだよ」
帆沼は、言葉を失っていた。しかし、檜山の語るサイドストーリーは続く。
「――そして、第二の被害者である堂尾洋さん。彼に妻がいたことは知ってるね」
「ええ。ですが既に夫婦仲は冷え切っており、彼は不倫相手だった麩美さんに結婚の約束をしていました。とはいえ、それも所詮口約束にしか過ぎないものでしたが……」
「……そんな彼らにもまた、物語がある」
檜山はキィと椅子を鳴らした。
「夫婦の間には、子供ができなかった。長年不妊治療もしていたが、結果は芳しくなく、次第に夫婦の溝も深くなってしまった。だが妻は子供を望み、一人養子を取ることにしたんだ。
最初は男の子を選ぼうとしたそうなんだが、運命とでも言うのかな。訪れた施設に、偶然奥さんそっくりの顔立ちの女の子がいた。堂尾夫妻は……特に洋さんの強い希望で、彼らはその女の子を養子にすることにした。
不思議というか、当然というべきか。子育ての間、二人は仲睦まじく実に理想的な夫婦だったらしい。とはいえ、女の子が大人になって手を離れたら、また夫婦仲は悪くなってしまったようだけど」
ここで、檜山は一息ついた。
「……堂尾洋さんが殺される二ヶ月前。彼らの娘が、結婚したいという相手を連れてきた」
帆沼の指が、痙攣するように動いた。
「彼女は、笑いながら言った。『やっとお父さんみたいな優しい人を見つけた。私は、お母さんみたいに素敵な奥さんになりたい』と。……娘の言葉を聞いた夫婦は、その夜から長く長く話し合った。久しぶりに二人きりで、互いの顔を見つめ合って。
そして、答えを出したんだ。今からでも、娘に恥ずかしくない親になろうと」
「……」
「……それは、実に手前勝手で都合のいい話だったかもしれない。問題は二人を越えて広がっていて、彼らのみで完結することではなかったのだから。だけど夫婦は、どんな非難も受け入れて互いを許そうと決めた。どれほど、時間をかけたとしても。
……それでも結局、堂尾洋さんは娘の花嫁姿を見ることはできなかったのだけど」
それを最後に、檜山が言葉を区切る。帆沼は、膝の上で拳を握りしめていた。
「……それが……なんだと言うんですか?」
「うん?」
「そんな話をして、あなたはどういうつもりなんです。彼らを死に導いた帆沼呉一を責めようというのですか?」
「いや、そういった狙いは無い」
檜山は、首を横に振る。
「僕は、ただ語っただけだ」
「本当に? わざわざ悲劇の詳細まで話しておいて? 俺や加害者達がしたことは間違っていたと、本当はそう言いたいんじゃないんですか!」
「違う」
檜山が身を乗り出す。彼の右手が、強く帆沼の肩を掴んだ。
「帆沼呉一。……君は、殺された人間の物語を読まなければならない」
「……!」
帆沼に置かれていた手が離れ、空中でぐるりと大きく振るわれる。その動きに、帆沼の視線は自然と現世堂に収められた本に向けられていた。
「僕はこう思う。人とは、書だ。生まれた時から死ぬ時まで、絶え間なく書き込まれる一冊の本。全ての人が、何人たりとて踏みつけることは許されない唯一無二の物語を持っている」
「……」
「だが、人は時としてそれを忘れる。自身の本は後生大事に抱えながら、あたかも他人の書を一枚きりのチラシのように安く扱う人がいる。
……帆沼呉一は、確かに苦しむ人々の物語を読んだのだろう。そして、彼らを自分の物語に飲み込むことで救いとなろうとした。
けれど、殺された人々にも物語があったことを彼は理解していただろうか」
整然と並んだ現世堂の本達が、帆沼を取り囲み見下ろしている。物言わぬ書は、しかし今の帆沼にとっては何よりも雄弁な声に思えた。
「……全ての物語を読めとは言わない。僕がさっき語ったものだって、本人が亡くなった今では、とある人から見た物語の一部にしか過ぎないのだし」
帆沼は、魔法にかかったように動けない。そんな彼に、檜山は静かに言った。
「だけど、どんな人も詳らかに書き込まれた物語がある。その唯一を無造作に破り捨てることが、いかに暴力的で残酷なことか」
「……」
「本を愛し、携わる喜びを知る君なら……分かるんじゃないか」
――帆沼の脳裏に、いつか彼が書いた小説を製本した檜山の横顔が蘇る。
瞬間、紐綴じの本に乗せられた帆沼の右手に力が入った。しかし紙が破れる前に彼の手は檜山によってほどかれ、防ぐように指を絡められたのだった。




