2 その存在
「……帆沼呉一にとってターニングポイントとなった事件とは、紛れもなく兄の死だったろう」
『天の国に向かう人』――それは、小説家・帆沼呉一が文学賞を取った作品『アガルタの人』の下敷きとなった小説である。彼は彼と兄の死を書いた小説を何度も推敲し、ついに『アガルタの人』を完成させた。しかし、ある人に贈られたという原本は未だ見つかっていない。
「慕っていた家族の突然の死と、そんな彼を理解しきれなかったことへの後悔。それが、帆沼呉一を極限まで混乱させた」
「ええ……。哀れな男です」
その幻の原本に目を落とす檜山の言葉に、他人事のように帆沼は答えた。――いや、他人事などではない。彼はまさに今、小説の登場人物について談義しているのだ。
帆沼呉一という名の、物語の。
「だから彼は、檜山正樹という降って湧いた優しい人間に飛びついたんだと思います。……自身の、心の穴を埋める為に」
「元々思い込みやすい性質もあったのかもな。とにかく、根拠も無く相手から愛されているという被愛妄想にまで発展するほど、帆沼は檜山という男に傾倒した」
「そしてその歪んだ認知は加速し、とうとう妄想の果てに傷害事件まで起こしました。だけど、そこで自身の認知を変えることは、彼の人生全てを改めることに他ならない。病んだ精神では耐えられないと思った彼は、防衛本能の赴くまま夢の中で生きていくことを決めたのです」
帆沼の指が震え始める。その手を、檜山は握った。
「大丈夫?」
「はい。……続けられます」
「そうか」
檜山は、古い壁掛け時計へと目をやった。
「じゃ、やろう」
カチ、カチ、と時計の針が規則正しく音を鳴らしている。きっかり五回分待って、帆沼は頷いた。
「しかし……帆沼は現実を恐れるがあまり、檜山の言葉すら聞かなくなっていました。……恐れていたのです。現実は……自分の思い通りにならないと。それを、兄の死を通じて思い知らされていましたから」
「そうだね。そして自身の手に余ると判断した檜山もまた、帆沼と離れることを選択した」
「帆沼にとっては、青天の霹靂だったことでしょう。しばらく精神科へと通いましたが、彼は檜山を諦めきれず、歪んだ世界を巧みに隠して腹に持ち続けました。その間ずっと、何故彼が自分を突き放したのかと考え……しかし、結局納得できる答えを見つけることは出来なかった」
「だから、退院した帆沼は檜山について調べ始めた。自分を切り捨てなければならなかった理由は、きっと彼の過去に起因すると信じてね」
今度は、檜山の手が震え出す。しかし彼は、それを力尽くで止めようと強く拳を握った。
一方帆沼は、気づかずに言葉を続けている。
「……帆沼は、徹底的に檜山について調べました。出身地や、経歴、親の名前、現世堂へ来るまでの経緯など……」
「……」
「しかしそうやって調べるうちに、彼はある存在へと行き着いた」
細長い指が、頁をめくる。
「――彼の名は、慎太郎」
檜山が小さく息を呑む。その手は、無意識にこめかみに当てられていた。
「檜山の人生を大きく変え、また孤独を選ぶきっかけとなった存在です」
大学の授業が突然休講になったので、オレ――慎太郎はウキウキと現世堂へと帰っていた。
帆沼さんの事件のあと、オレはしばらく実家に強制送還されていた。この同居に弟のつかさはそれはもう狂喜乱舞し、毎晩オレの部屋にトランプを持ってやってきてはおしゃべりするようになった。
「やっぱ兄さんが家にいると落ち着くなぁー」
「そう?」
「うん。兄さん、もう檜山のとこになんか行かなくていいからね! 俺と父さんと母さんと大和君とずっと一緒に暮らそうな!」
「今しれっと大和君も家族に加えたね?」
――家族がいて、安心できる家があって、何事も無かったように大学に通って。だけど、心の中にはずっとぽっかりと穴が空いたままだった。
檜山さんに、会いたい。日を追うごとにじわじわ侵食するその感情に我慢できなくなったオレは、ある日とうとう檜山さんに電話をかけて直談判してみたのである。
「ダメ」
が、一も二もなく、却下された。
「まだ帆沼君は逃走中なんだよ? 君が現世堂に来るのは危険過ぎる」
「ですが、帆沼さんの協力者と思われる人は既に警察にマークされてます。加えて適切な監禁場所を確保するのが難しい状況……。帆沼さんはオレを殺したいわけじゃないので、以上の条件を満たすことができない今、オレが狙われる可能性は低いと思いますが」
「……」
「どうしました?」
「……えーと……帆沼君が僕を狙って、君がその巻き添えを食うかもしれないだろ」
「だとすると檜山さんが一人でいる方が危ないですよね? 二人いれば、数が多い分こちらが有利になりますよ」
「…………」
「檜山さん?」
「……君は、いつのまにそんなに口が達者になったんだ」
「何のことでしょう」
「っていうか、どうしてそこまでして君は現世堂に来たいんだよ」
「話したいことがあります」
きっぱりと、オレは言った。……そう。オレは、彼に伝えたいことがあったのだ。
あなたのことが好きですと。ついに彼に告白しようと、心に決めていたのである。
だけどニブチンの檜山さんは気づいてないんだろうな。そんなことを思っていると、案の定彼は困ったように返してきた。
「……それ、電話じゃダメ?」
「ダメです。顔を見て言いたいです」
「じゃあビデオ通話に切り替えようか」
「直接がいいんです!」
「……うーん」
そうして散々悩んでもらったあと。珍しく折れてくれた檜山さんは、うちの母さんと父さんとも話し合い、大学の帰りにちょっとだけ現世堂に寄ることを許してくれたのである。優しい。大好き。
で、今。偶然にも午後に入っていた講義が二つとも休みになって、オレは予定よりもだいぶ早めに檜山さんに会いに行っているのだった。ラッキー。
告白の緊張と、久しぶりに檜山さんに会える高揚感。それらに胸を弾ませながら、現世堂と書かれた薄茶色のテントの近くに乗ってきた自転車を止める。その時だった。
(……お客さん?)
店内から、誰かと話している檜山さんの声が聞こえたのだ。
(常連さんかな。だったら、少し外で待ってた方がいいか)
気を遣わせるといけないので、入り口で待機することにする。壁にもたれて見上げた空はどこまでも澄み渡っており、肌を撫でる風が清々しかった。
……オレが檜山さんを好きだと知ったら、彼はどんな顔をするだろう。男同士だし、何ならオレのオムツまで替えてくれたような人だ。気持ち悪いって思われても仕方ないかもしれない。
でも抱え続けた恋心は膨らむ一方で、もういっぱいいっぱいで。その気持ちは、例の事件を経て更に強固になってしまっているように思えた。
――好きって言おう。フラれてもいいから伝えないと、オレは前に進めない。
猪のような突進っぷりに、我ながらため息が出る。でも、ここまで来たからには、もう後戻りはしたくなかった。
なんとなく店内に耳を澄ませる。胸は高鳴り、体は落ち着かずソワソワとして。だけどその甘酸っぱい感情も、中にいるお客さんの声を聞くまでだった。
「…… しかしそうやって調べるうちに、彼はある存在へと行き着いた」
――帆沼さん?
思いもよらぬ人にドキリとする。一瞬警察に通報しようかどうしようか悩んだが、更に続けられた言葉についオレの動きは止められてしまった。
「彼の名は、慎太郎。……檜山の人生を大きく変え、また孤独を選ぶきっかけとなった存在です」
「……!?」
なんで、オレの名前を? いや、それよりも檜山さんの人生を大きく変えたって……。
胸を押さえる。これは聞いてはいけない話で、そもそも立ち聞き自体良くない気がした。ここを去らなきゃいけない。離れなきゃいけない。そうだ、それで何食わぬ顔でまた時間通りに来ればいいじゃないか。
……だけど。
緊張で荒くなってきた息を殺す。唇を引き結び、耳をそばだてる。
――昔、突然オレの前から姿を消した檜山さん。もし、このままここにいることで、あの日の理由を知れるとしたら……。
(……檜山さん、ごめんなさい)
入り口のドアに張り付く。……バレたら怒られるかな。謝ったら、許してくれるだろうか。
(でも、オレはあなたのことを知りたい)
唾を飲み込む。後ろめたさで胸が苦しい。けれど動くこともできなくて、オレは店の外で間抜けに突っ立っていた。




