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現世堂の奇書鑑定  作者: 長埜 恵
第5章 言葉を隠したツバメ
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2 アンデルセン

 それからというもの、俺はますます本というものにのめり込んだ。数多の本を読み、数多の世界に飛び込み、数多の言葉を得て。だけど、どれほど読んでも兄の言葉の裏を教えてくれるものは一つとして無かった。


「まだ、めぼしい本は見つからない?」


 そしてこの頃には、すっかり現世堂の店主――檜山正樹と親しく言葉を交わすようになっていた。いつものように本を物色していた俺は、かけられた声に小さく頷いて返す。


「はい。相変わらず、どれもこれも面白いとは思えません」

「君はお兄さんを亡くした後だしね。仕方ないよ」

「それとこれとは関係無くないですか」

「精神的なショックは人の趣向を変えるよ。僕もそうだったし」

「……檜山サンも?」

「まあ、昔々の話だけどね」


 言葉を濁されたのが気になった。俺に気にして欲しいのかなと思ったけど、尋ねる前に彼は立ち上がってこちらに来る。


「ところでこれ、読んでみない?」


 手には、一冊の分厚い本があった。


「これは……?」

「アンデルセン童話集」

「見れば分かりますよ」

「読んだことは?」

「そりゃありますが。特に人魚姫とか、知らない人の方が珍しいんじゃないスか」

「そうかな。絵本じゃなく、原作に近いものを読んだことがある人となると、結構少なくなると思うけど」

「……それは、そうかもしれませんね」


 かく言う自分も読んだことはなかったので、気まずい気持ちになる。けれどそんな俺の反応に、彼は熱っぽい目で語った。


「絵本もいいけど、一度原作に目を通しておくのもお勧めだよ。丁寧に描写された世界観と、心を打つアンデルセン特有の表現。いや、僕があれこれ言うよりぜひ読んでみてほしいな。どれもそこまで長くないし」

「……ぐいぐい来ますね」

「帆沼君にも合うんじゃないかなと思ってさ」

「……」

「と言っても、僕が好きだから読んでもらいたいっていうのもあるけど。ほら、ぜひぜひ。きっと今までの小説とは違った視点が得られるよ」

「……じゃあ、買ってみます」

「ううん、貸すよ」


 驚いて顔を上げる。視線のかち合った檜山サンは、柔らかく微笑んだ。


「僕が勧めたものだしね。読んで、もし手元に置いておきたいと思ったら買ってくれ。そうじゃなかったら返してくれていいから」

「……これ、売り物でしょ」

「帆沼君なら大切に読んでくれると思う」

「……」

「あ、勿論無理にとは言わないけど」


 俺は急いで首を横に振り、両手を伸ばして本を受け取った。それに檜山サンは満足げに笑うと、カウンターへと戻っていく。

 本は多少古びているものの、表紙に描かれた人魚姫の鮮やかな色彩には目が惹きつけられた。住む世界の違う想い人を恋慕う、繊細な横顔。彼女の頬を撫でると、さっきまで触れていた檜山サンの温度がこちらに移るように思えた。


「檜山サン」

「うん?」


 本を傷めないよう注意して、抱きしめる。――彼が俺を思い、俺の為に選んでくれた、彼の愛する本。これを読んで彼と交わすだろう言葉の一つ一つが、堪らなく楽しみだった。


「……ありがとうございます。これ、読んでみます」









 なるほど、たかが童話と侮るなかれ、アンデルセン童話は面白かった。徹夜で読破した俺は、朝一番に現世堂を訪れ、堰を切ったように檜山サンに感想をぶちまけたのである。

 しかし彼は嫌な顔一つすることなく、俺の話をうんうんと聞いてくれていた。


「でも、驚きましたよ」


 俺は、人魚姫のページを開きながら言う。


「人魚姫は海から出るまでに物語の前半を使っているんですね。絵本ではそれこそ二、三枚で終わるものなのに」

「そうなんだよ。勿論、物語に入り込むために海の中という異世界を説明する必要はあるんだけどね。普通なら冗長になりやすい描写も、アンデルセン特有のちりばめられた宝石のような言葉選びは、読者を飽きさせず夢心地にさせてしまう魔力があると思う」

「わかります。人魚姫もそうですが、マッチ売りの少女にしてもみにくいアヒルの子にしても、ひどく心が抉られるのに、ただの悲劇として終わってない感じがするんですよね。なんだろう、優しいっていうか……」

「いいことを言うねぇ。そう、アンデルセンは、普通なら取り上げられなかっただろう登場人物の立場や心にスポットを当て浮かび上がらせた作家なんだ。恋に破れた人魚姫、人知れず死んだ少女、醜さ故に虐げられたアヒルの子――。ただ教訓めいた印象を残すだけではない。迫害されたり理解されなかったり、そういったさまざまな立場の子供に優しく寄り添った作品を多く残している」

「ええ、救いのある物語も多かったです。それが大人になることだったり、天国に行くことだったり……」

「そうだね。アンデルセン作品を語るにあたって、“救いのある死”という概念は外せない」


 その一言に、急に胸が詰まる心地になった。彼の発した“死”という単語に、兄の最期を連想してしまったのである。

 心臓が痛いくらいに鳴り始める。俺は、細心の注意を払って口を開いた。


「……あれですか。どんなに生きるのが辛くても、死ねば助かると。アンデルセンはそう言いたかったのでしょうか」

「いや、それは少し違うと思うよ」


 ううん、と檜山サンは首の後ろに手を当てる。


「アンデルセンという創作者が、厭世的な死へと引きずりこむような要素を物語にねじ込んだとは思わない。人魚姫が、恋敵であったはずの王子の婚約者の額に接吻をしたように。罪を悔い続けたカレンが、ようやく神に許されその元に召されたように。どれほど辛く苦しいことがあっても、正しい心をもっていれば最後にはきっと幸せになれるのだという童話作家らしい温かさが、“救いのある死”という結末に表れたのではないかなと僕は思う」

「……最後には、幸せに」

「うん。もっとも、アンデルセン自身も酷い挫折を経験していたからね。影響は大いにあっただろうけど」


 檜山サンは、火傷の痕を引き攣らせて笑った。

 ……そうなのだろうか。死というものは、ただ恐ろしく、絶望した者のたどり着く終着点ではないのだろうか。それとも、檜山サンが言うように、正しい心を持った人の救いたる存在なのだろうか。

 兄さんは、正しい人だった。だとしたら、彼はあの死によって苦しい境遇から救われたのだろうか。


「そして、生涯を通したアンデルセン作品にはもう一つ大きなテーマがある。それが、“人の幸せを願う”というものだ」


 檜山サンのアンデルセン童話論は続く。


「親指姫も読んだかな。チューリップの花から生まれた可愛らしい女の子の物語」

「はい。カエルやモグラにさらわれるけれど、最後は命を助けたツバメの背に乗って、花の国で王子様のお嫁さんになる話ですよね」

「そうそう。だけどこのツバメは、優しく美しい親指姫を心から愛してしまっていた」


 彼の手が紙をめくり、ちょうど親指姫の最後の部分を開いた。


「本当なら、彼女を背に乗せてどこまでも飛んでいたかったろう。でも、親指姫は王子様と恋に落ちた。彼女の居場所は王子様の隣で、大き過ぎる自分の背などではなかったとツバメは思い知ってしまった」


 ふと、檜山サンの顔を見上げる。穏やかな彼の目の中に、俺はほんの僅かに寂しさを読んだ気がした。


「それでも、ツバメは誰より親指姫の幸せを願っていたんだ。だから結婚の歌も歌ったし、自分の気持ちを知って彼女が苦しむぐらいなら何も伝えなくていいと思った」

「……少々、自己犠牲が過ぎるように思いますが」

「そうだね。けれど、本当のことを知るのは感情をしまいこんだツバメのみだ。親指姫は、遠くへ旅立ったツバメを懐かしく思えど、彼への罪悪感に心を痛めることは無い」


 兄の笑顔を思い出そうとする。自分に向けられた、いかにも兄らしい笑みを。


『お前は、ずっとこんな屈辱を味わっていたのか』


 ――ドア越しでは、見えなかった。彼の感情が、わからなかった。

 でも、もしも俺の読めない言葉の裏に、かのツバメのような隠された愛があったのだとしたら。


「……兄さんは」


 俺の頬を水が伝い落ちる。俺は、泣いていた。


「兄さんは……俺を、愛してくれていたのでしょうか」

「……」

「檜山サン」


 尋ねる。答えが欲しくて、名を呼ぶ。

 けれど、檜山サンは首を横に振った。


「僕は君の兄じゃないから、分からない」

「……!」

「でも」


 彼の手が本を閉じる。人差し指が、作者の名前をなぞった。


「もしも、誰かが君の兄の物語を書いたなら……きっと、君への愛を示しただろうと思うよ」


 その瞬間、激情に胸が弾けた。唐突な真実への理解に、感情があふれて止まらない。慌てた彼が初めて会った日と同じハンカチを差し出してくれたけど、俺はそれすら受け取れずうつむいていた。

 涙が止まらない。嗚咽が堪えられない。

 ああ、ああ、そうだ、そうだったのだ。


 兄は、俺を救おうとしていたのだ。


 今、はっきりと言葉の裏が見えた。あの場所で、兄は俺の言葉の裏を読んだ。そして聡明な兄は、今まで誰にも理解されなかった俺の苦しみを全て悟ってくれたのである。


『呉一、お前は、俺の思っている以上に屈辱を味わってたんだな』


 俺の耳に、死んだはずの兄さんの言葉が届いた。


『ごめんね。だけど、お前の苦しみは全て兄さんが背負ってあげる。理想の国へ持っていってあげるよ。だから、お前はもう何一つ苦しまなくていい』


 兄さんは、優しい声で言う。


『お前を愛してくれる人と、幸せになりなさい』


 そこで、兄の言葉は途切れた。俺は、消えた声を掴むように拳を握った。

 ――兄は、ツバメだった。大切な人への想いを秘めた、あたたかで尊い人だった。

 そして、同時に檜山サンの言葉の裏も聞こえたのである。


『もしも、誰かが君の兄の物語を書いたなら……きっと、君への愛を示しただろうと思うよ。だって、僕も君を心から愛しているのだから』


 それもまた、真実の愛に他ならなかった。

 ……震えが止まらない。喜びのあまり吐きそうだ。こんなに人に愛されたのは兄さん以来で、そして彼が死んだ今俺を愛してくれているのは檜山サン一人だけだ。いや、もしかしたら兄さんがこの人を俺にもたらしてくれたのかもしれない。

 ……ああ、どうしよう。自分はこれほど幸せでいいのだろうか。彼ら二人の大きな愛が、ゆりかごのような心地良さで俺を包んでいる。


 ならば、俺も応えなければ。


 ――檜山サンが、心配そうに俺の背中をさする中。俺はうつむいたまま、止まらない涙の中で笑っていた。

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