1 出会い
俺には一人、誠一という名の兄がいた。
素晴らしい兄だった。幼い頃から筆を持たせれば誰もが目を見張る絵を描き、詩を歌わせれば誰もが聞き惚れる言葉を紡いだ。そんな兄を、父も母も、誰も彼もが称賛していた。
だから、俺がどれほど勉強しても、どれほど本を読んでも、兄の影の中から抜け出ることはなかったのだ。生まれながらの才能とは、その人に根付き決して奪えないものだと。だからこそ、努力とやらよりも貴重なものだと皆知っていたからだ。
「大丈夫」
けれど、そんな凡才たる俺に兄は言ったのである。
「父さんも母さんも、お前に期待して厳しいことを言ってるだけだよ」
「言葉の裏を聞いてあげて」
――兄は、優しかった。優しくて、弟思いで、いつも俺の味方でいてくれた。そんな兄のことが大好きで、俺は彼の言う通り自分を打ちのめしてきた言葉の裏を聞こうとしたのである。
「大したことない」という言葉は、「本当ならもっとできるはずだ」と。
「お前には努力するしかできないんだな」という言葉は、「努力ができて素晴らしい」と。
「少しぐらい誠一の才能があればよかったのに」という言葉は、「それでもここまで来れたのはよく頑張った」と。
兄の言う通りだった。俺は言葉の裏を聞くことで、今まで見えなかった愛に気づくことができたのである。
そうしている内に、俺は大学生になった。勉強の甲斐あってか、受かったのは名の知れた大学で、この時を境にがらりと俺の評価は変わったと思う。今まで裏を読まないと聞こえなかった言葉が、表の言葉として聞こえるようになっていたのだ。
けれど反対に、兄への評価も一変していた。兄は有名な美術大学を受験し、二回失敗し、それ以来家を出ようとしなくなった。筆を取っても昔描いたものを越えた評価を得られることは無く、それどころか模倣や焼き直しなどと呼ばれる始末。兄の周りに集まっていた人たちは、手のひらを返したように「才能が枯れた」だの「終わった人間だ」だのと口にした。
兄は、折れかけていた。それはかつての俺も同じだったから、よくわかった。
だから俺は、部屋のドア越しにいる兄へあの時の言葉を返したのだ。
「大丈夫だよ、兄さん。父さんも母さんも、みんな兄さんに期待して厳しいことを言ってるだけだ」
「ちゃんと、言葉の裏を読まないと」
――俺は、兄を救えると思っていた。俺を救ってくれたこの言葉でまた前を向き、立ち上がり、部屋から出てきてくれると。
けれど、予想に反し兄はしばらく黙ったままだった。待って、待って、待って。そしてようやく一言、こう言ったのである。
「……そうか。お前は、ずっとこんな屈辱を味わっていたのか」
それが、兄から聞いた最後の言葉だった。
次に彼の姿を見たのは、蒸し暑い夏の日。確かそんな会話をしてから、四、五日経っていたと思う。兄の部屋から漂うあまりにも酷い異臭に、俺は父に言われて兄の元へと向かったのだ。
ドアに鍵はかかってなかった。もしかしたら、そんなものは元々ついてなかったのかもしれない。
それはすんなり開いて、腹の中身を見せてきた。
兄は死んでいた。
ベッドに引っ掛けたロープを首に食い込ませ、どこから来たともしれない虫にたかられて。体は夏の暑さで腐り、膨らみ、不自然に首は伸び、この世のものとは思えないぐらい醜い肉の塊に成り果てて、兄は死んでいた。
悲鳴を上げた気がする。何か声をかけようとそばに駆け寄った気がする。だけど不思議とそこから記憶は飛んで、次に気づいた時、俺は道路の真ん中に突っ立っていた。
「……」
――俺のせいなのか?
蝉が俺を責めるように煩しく喚き立てる。アスファルトからの照り返しが剥き出しの肌を焼く。なのに俺は汗の一滴もかくことできなくて、ただ青ざめていた。
――あの日からずっと俺を救っていた言葉は、兄にとっての屈辱だったのか? 兄の言葉は間違っていたのか? ならば、かつての兄はどういう感情で俺に言葉を与えたんだ?
もしくは、あの最後の言葉にも裏があったというのか。
熱かった。脳は冷えているのに外側だけが焼けるように熱くて、とても自分の力で何かを考えることなどできなかった。
やおら走り出す。頭の中で誰のものでもない悲鳴が反響している。俺は一刻も早く脳を他のもので埋め、この絶叫を追い出さねばならなかった。
目についたのは、古びた古書店。一も二もなく、俺は転がるようにしてそこに飛び込んだ。
そこの店主は、遠目には白髪の老人に見えた。だったら多少は大目に見てもらえるかと甘えて、本棚から適当な一冊を手に取り読み始める。でもその小説は学生にありがちな生温い恋を書いたもので、すぐに自分の求めるものじゃないと分かり本棚に押し戻した。
必死だった。自分じゃ考えることができないから、他の人からの言葉が欲しかった。お前は俺より生きてるんだろう。俺より才能があるんだろう。ならば兄の気持ちも言葉の裏も、俺に提示してくれるに違いない。
だけどどの本も、当たり前の幸福を願い、独りよがりな不幸を嘆くばかりで、一向に俺の望んだ答えをくれるものはなかった。俺は俺を救って欲しかった。灼熱の砂漠の中で水を取り上げられた人のごとく、ひたすらにそれだけを渇望していた。
「……大丈夫ですか?」
そうして本の中に埋もれ、手が震えてまともに頁もめくれなくなった時。白髪の店長が、いつのまにか俺の横にしゃがみ込んでいたのだ。
「君、どうしたんです。どうも尋常じゃないようですが」
間近で見たその男は、まだ若かった。けれど顔の左側を覆う酷い火傷の痕は、否応無しに俺の視線を引きつけるものだった。
しかし、彼はそんな俺の視線をさほど気にした様子も無く、ポケットからハンカチを取り出したのである。
「すいません、泣いてたんですね」
そして、俺の頬を優しく拭って。
「本をお探しなら、僕も手伝いますよ」
――その時に向けられた笑みを、どう喩えるべきだったろうか。
それは差し詰め、地上の楽園でベアトリーチェに出会ったダンテのような。
あるいは、幻想の中でマルグリートを見初めたファウストのような。
マグダラのマリアによって髪で足を拭われた、キリストのような。
光だった。衝撃だった。無償の愛だった。
それが、俺――帆沼呉一と檜山正樹の出会いだったのである。




