20 どうか、幸せで
「し、慎太郎君!?」
「ふぎぃぃぃ! ぶぇぇえん!!」
「け、怪我! まず怪我の手当てしなきゃ! ああああとこの体勢は色々……!」
「うぇぇぇぇん!!」
「……ッ!」
慌てふためいていた檜山さんだったけど、やがてどうあってもオレが離さないと分かってくれたらしい。ふーっと長めの息を吐くと、ごろんとオレの隣に横になる。それから眼鏡を外し、腕を回して抱きしめ返してくれた。
――懐かしい記憶が蘇る。昔、両親が仕事でいなかった夜。学校で嫌なことがあって布団の中でめそめそと泣いていたオレに、檜山さんは今と同じように慰めてくれたことがあった。
彼の服を握りしめて、肌で感じる。……昔と何も変わらない、温度を。
涙があふれて止まらない。なんだろうな。なんでこの人は、こんなに優しいんだろうか。
「ごめっ……なさい……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、檜山さんの背中を抱きしめる。
「オレ、オレ……! 帆沼さんに、なんも、できなくて……! それどころか……っ! 檜山さんに、怪我まで、させて……!」
「……大丈夫」
「で、でも、オレ、全然うまくできなくて……っ!」
「大丈夫」
檜山さんが甘えさせてくれるのをいいことに、オレは胸の中につっかえたものを残らず吐き出していた。けれど、彼は何度も言い聞かせてくれる。大丈夫、大丈夫と。何も心配無いと。オレを包んで、頭を撫でてくれながら。
なのに何故か無力感と罪悪感は消えなくて、苦しくてたまらないままだった。
「……帆沼君は、君を殺せなかった」
少しオレが落ち着くのを待って、檜山さんは言う。
「それが答えの全てだよ。僕の知る帆沼呉一は、自らの目的を達成する為なら容易に線を踏み越える男だった。……だから、確かに君の行動は彼の何かを変えている」
「うぐっ……えぅっ……!」
「胸を張っていい。君の選んだ方法は間違ってなかった」
「ちがっ……違います……!」
けれど、彼の肯定をオレは急いで否定した。
「オレは、思い上がってただけです! ひ、檜山さんみたいに、人を救いたいって……!」
「……僕みたいに?」
驚いたような声に、頷く。弾みで、涙が一粒落ちた。
「オレ、檜山さんが人を救うのに憧れて……自分も、同じように帆沼さんを助けたいと思ったんです……」
「……」
「……でも……ほんとに、何もできなかった。檜山さんは信じてくれたのに、オレは帆沼さんを説得できなくて……逃亡まで、許して。檜山さんも、危険な目に遭わせました」
また涙が滲んでくる。……謝っても謝っても、足りない。苦しくてどうしようもない。でも、今度ばかりは彼の服に涙を染み込ませるようなことはしなかった。
ここでようやくオレは、当の檜山さんに慰めてもらおうなんておこがましすぎると思い至ったのだ。
……だからといって、何を言えばいいかも分からないのだけど。そうしてぼたぼたとみっともなく泣き続けるオレの頬を、ふいに温かな手が拭った。
「……謝る必要なんて無いよ」
涙の膜の向こうで、眼鏡の無い檜山さんが優しく笑う。
「むしろ謝るべきは僕の方だ。僕の問題に君を巻き込んで傷つけ、怖い思いをさせた」
「! いいえ、オレを傷つけたのも怖い思いさせてきたのも、全部帆沼さんの仕業です! 檜山さんが謝ることじゃないです!」
「その理屈なら、僕の怪我も僕を殴ってきた人たちのせいってことになる」
「あ……」
「だったら、やっぱり君は謝る必要が無い」
……そうなのかな。そうなのだろうか。殆ど屁理屈みたいな彼の主張をしばらく吟味する。だけど首を捻っている内に涙が引っ込んでいたことに気づいて、オレはまたしてもこの人に慰められていたのだと自覚した。
「それに」
オレの頭の上から、檜山さんの声がする。
「……僕は、君に憧れてもらえるような立派な人間じゃないよ」
顔を上げようとした。けれど、後頭部に手を添えられ彼の胸に押しつけられる。それで直感的に、この人は今自分の顔を見られたくないのだとわかった。
「人を救えたと思ったこともない。……実の所、僕は君の思う真逆の人間だ」
「そ、そんな」
「本当だよ。……僕は、ロクな人間じゃない」
穏やかに、檜山さんは続ける。それは、どこか諦めたような口調だった。
「君は優しい。だけど、だからこそ関わる人間をもっと選択しなければいけないと思う。君の思うより世界は悪意や裏に満ちていて、君の善意につけ込み奈落に引きずり込もうとする者もいる。それこそ――僕のような」
「……檜山さんも?」
「うん」
檜山さんの胸が、大きく上下をした。
「僕の感情や衝動は、君の人生を破滅させるものだ。……ずっと、怖かった。君が僕の腹の中を見たら、どう思うんだろうって」
「……檜山さん?」
「本当なら、別れたまま二度と君と関わるべきじゃなかった。なのに、僕は……」
「……」
「……。そろそろ、警察が到着する頃だな」
急に体が自由になる。檜山さんは上体を起こし、割れた眼鏡をかけてドアの辺りを見ていた。耳をすませると、遠くから数人の足音が近づくのが聞こえてきた。
「慎太郎君。君を、大切に思ってる」
誰かがこの部屋に足を踏み入れる直前。まだ寝転がるオレの頬を撫でて、檜山さんは微笑んだ。
「幸せでいてほしい。本当に、僕はそれだけなんだ」
……頷くことも、首を横に振ることもできなかった。オレはただ、酷く儚げな檜山さんの顔に見惚れていて。
静寂が警察によって破られるまで、オレの幸せはあなたそのものなのだと、そう口にすることすら忘れていた。




